望月決戦
人類と争いほど切っても切れないという言葉が相応しい関係も無い。
古くを見れば、美しい雌を求めて諍いを起こし、近きを見れば、利潤追求の果てに全人類規模の争いを引き起こした。
どの戦いも自らの欲望を満たす為の行いであり、そこには必ず彼等なりの大義があったはずだ。
そう、俺が今行ってる戦争もまさしく大義に則った行為であり、いわば「正義」とも言えよう。
何故なら、望月が正しいはずが無いのだから。
***
俺の住んでいる下宿は赤褐色のトタン屋根と錆びついて良く滑る階段から分かる通りに築何十年の年代物のアパートであり、階段を慎重に昇った先の廊下の一番奥が俺の部屋である。
扉を開けば、まず、むわっと男の臭いが巻き起こり、体に三日ほど染み付く。
そして、中に立ち入れば鼻腔を微かに擽る本の香り。
壁一面を覆うほどの蔵書の数々は見た者を圧倒し、ジャンル毎に丁寧に分けられたその本棚からは持ち主の几帳面さが滲み出ている。
しかし、目線を下に移せば、散乱する文庫本の数々と少し黄ばんだ白いちり紙。そのアンバランスな光景からは部屋の主が中途半端な、というより少し歪な几帳面さを所持している事が伺える。
単に本棚を買って蔵書を入れていた時の俺は今ほど物臭に堕ちてはいなかっただけなのだが。
床に散乱している本は部屋の主のお気に入りの品であり、読みやすいライトな物、小気味いい比喩表現を連ねる物、枕にして昼寝をするにはぴったりの物などがある。
台所の流しにはインスタント食品の残骸と脂がこびり付いた元は白い皿、そして、おそらくだが下層にはまだ物臭に堕ちる前に購入したスポンジが眠っている。
隣のガスコンロの五徳には少し奮発して購入したケトルが置かれているが、優雅にコーヒーや紅茶を淹れる為に使用された事は片手で数えるほどしか無く、インスタント食品をふやかす為の湯沸かし器としての役目を全うしていた。
部屋を歩き回る内に、少し畳が歪んでいる領域を確かめるだろう。そこが俺の食事スペース及び伏せるべきスペースである。
汁を溢してふにゃふにゃになってしまったい草を見る度に少し申し訳なく思う。
視界の端には常に黒い節足動物がちらつき、初めてこの部屋に来訪した人間は恐怖に震え上がる事だろう。俺も初めは震え上がったものだが、今では少しの愚痴を漏らしてしまうほどに親近感を抱いている。
汁の臭いに加えて、流しで長期間の眠りについている様々な食品の残りが放つ異臭が部屋の空気を澱ませていた。
この漢らしさ満開の部屋から俺と望月の戦いは始まった。
***
「相変わらず臭い部屋だな」
「まったくその通り」
望月は俺と同じく大学の二回生だ。
端正な顔つきか、と遠目に見れば思うが、その目つきを見た瞬間に回れ右をしてしまう。
逃走犯を追う警察の世話に両手では数え切れないほどなっているらしい。
たいそうな大食漢の割には腹が出ていない為、何処かで運動しているのだろう。
かつては読書サークルに所属しており、そこで俺とも出会った。
本日は大学に向かったが共に取っていた講義の教授が毒キノコに当たったらしく休講となっていた為に俺の部屋で暇を潰す運びとなった。
「お、相変わらず丁寧にジャンル分けしてるな。で、この内何冊読んだの?」
「わざわざ聞くな嫌味か」
「嫌味に決まってるだろ」
俺はムッとして、望月に見せつけるように嫌な顔をしてやった。
確かに、俺は蔵書を殆ど読まずに気に入った本を何度も読み直したり、新しく本を買っては棚で腐らせたりしているが、それをわざわざ口に出す事はないだろう。
「読みもしないのにこんなに本を買って丁寧に並べてもな。よし、これにしよう」
ミステリーと達筆風に筆マジックで記された栞のすぐ左に置かれている本、「館合体ロボRX」を望月は手に取った。
確か、あの本は読んだ事がある。
最後に館が変形合体してロボットになるというトリックの密室殺人事件を題材にした作品だ。
ミステリーというジャンルその物に挑戦するような、と言うより喧嘩を売るような作品であったが読了感は素晴らしく良く、俺が珍しく重い腰を上げてネットの掲示板で自演をしてまで宣伝を行った。
今思えば、くだらない事をしていたな。
「おい」
「ん?」
望月の声のトーンが少々変わった。先程までの馬鹿馬鹿しさ丸出しの明るい声色は消え、沈んだ声色となっている。
「これはどういう事だ」
望月が「館合体ロボRX」のあるページを開いて俺に見せつける。
そこには、館を説明する地の文に蛍光色のマーカーで線が引かれ、上の余白に「ここに合体の伏線」と汚い字で書いてあった。俺の筆跡だ。
かつて、俺がこの作品を魂の書とまで持ち上げていた時、読み返した際に伏線をわかりやすくと引いた線。
愚かな引き線であった。
「これは、本に対する、そして作者に対する侮辱だ。表に出ろ、殴り飛ばしてやる」
「おう、出てやろうじゃねぇか」
望月と俺は立ち上がり、外へと続く扉へ向かう。
そして、俺は望月がのこのこ部屋から出ていった所で扉を閉じて、鍵をきっちりとかけた。
いちいち奴の癇癪に付き合う必要は無い。
***
「よく来たな。とりあえず座れよ」
俺は黒革の高級感溢れるソファーに尻を置く。
流石は何万円とする品物だ。置いた尻がずぶすぶと沈んでいってこのまま体全体がこのソファーに食われてしまうのでは、と幾ばくかの恐怖と心地良さを俺は享受していた。
しかし、俺が常に使っている数百円の椅子と比べて百倍の心地良さを得ているとは到底言えない為、所謂費用対効果という面で見ればそれほど素晴らしい品ではないのかもしれない。
だが、心地が良すぎる。こんな物を味わってしまえば二度と安物には戻れないだろう。俺はその考えに至るとすぐに飛び跳ね、ソファーから距離を取った。そして、威嚇するように拳を構えた。
望月から呼び出しを受けたのはつい先程である。
俺の住むアパートと望月の住む高層マンションは徒歩にして約三分ほどの距離しか離れていない為、俺はすぐさま呼び出しに応じて望月の待つ七階に向かった。
先日締め出したばかりなので扉を開けた瞬間に殴り飛ばされるかとも思ったが、いちいちそんな事を何日も根に持つほど望月の心は狭くなかったようだ。
「飯でも食わねぇか」
望月が白い皿をソファーの前にあるガラスの机に置いた。
皿は端の辺りが盛り上がっていて、汁気の多い食品に使用する為の物だろうと予測した。
事実、中に入っていたのは湯気を上げる肉じゃがであり、漂う香りは俺の食欲を刺激した。
「まあ、食えよ」
後から思えば、この望月の妙に優しい態度から仕掛けられた罠に気づく事は容易であったはずなのだが、目の前の出汁の香りに心奪われた俺は愚かにも何も疑わずに、黒い箸を取って皿からじゃが芋も取り出して口に運んだ。
まず、初めに感じたのは出汁の味だった。
甘さと塩味のバランスは絶妙で優しく舌に染み渡った。
さあ、次はじゃが芋だ。俺はほくほくで出汁のよく染みているはずの塊を奥歯で噛み砕いた。
しかし、ここで一つの違和感が。
噛み切れないのだ。芋が。
それは決して煮込み不足からの固さではなく、ぐにゃぐにゃとしていてポリ袋を食べているような食感だった。
いや、ポリ袋と言うよりはラップ。
数分間、口内のプラスチックに覆われたじゃが芋と格闘して、ようやく気づいた。
これは、望月なりの復讐ではないのか。
望月は先日の締め出しを未だ根に持ち、俺の気分を害する為だけにわざわざお手製の肉じゃがをラッピングした。そう考えれば、このふにゃりふにゃりと俺の犬歯を避ける塊にも説明がつく。
なんと心の狭い奴だ。
俺はすぐさま口内の物質を望月の顔に吐き捨ててやろうかと思い立った。
しかし、望月は笑いながら「どうした、もっと食えよ」と言った。
俺は、その瞬間にこの男に対して、復讐を行う事を決意し「ははは、当然だろ」と、同じく笑って言った。
笑顔とは、ここまで嘘臭く在れる物だったのか。
皿に収まっていた牛のラッピング細切れを口に放り込みながら、俺は早速望月への復讐案を練り始めた。
吐き捨てる事だけが、復讐ではない。むしろ、より重い一撃を加えてやるべきだ。
こうなれば、こちらも目には目を、料理には料理で返そうではないか。
結局、俺は皿に入っていたラッピング肉じゃがを全て胃に収めた。
翌日は部屋の便所から一歩たりとも外へ出る事は叶わなかった。
***
そこからは血で血を洗う悲しい争いだった。
俺は望月を部屋に呼び出し、復讐としてカップラーメンを提供した。湯ではなく、代わりに温めたコーラで作った物だ。
望月はえづきながらも完食して、スープまで飲み干した。
その翌日、俺が大学へ向かう道の途中で大量のスズメバチに襲われた。
俺の顔の大きさが一割増しとなった。
更にその翌日、俺は以前に望月を出会い系サイトで騙した時に手に入れた恥ずかしい写真と言動の数々を大学中にばら撒いた。
望月の顔が煮蛸のように赤くなっていたのが印象深い。
それからもお互いに恥をかき合い、傷つけ合い、とにかく憎みあった。
不毛にも、程と言う物がある。
ある日、俺が部屋に帰って扉を開こうとすると、少し重かった。
俺がそんな事を気にも留めずに力任せに開くと、部屋の中は雪国のように真っ白になっていた。
蔵書の数々は背表紙がその白い粉に覆われてそのタイトルすら判らず、淀んでいた流しは少し粘り気を増し、床の畳の目に粉が入り込んでいた。
元より掃除をする気も無いのに、より清掃へ向く力が無くなっていった。
その時、ふと視線を白く染まる部屋の中央に向けると、粉が積み上がる山の上にメッセージカードが置かれていた。
「午後九時にこの場所へ来い。これが最後だ」この言葉と目的地への道順が記された地図が同封されていた。
俺は来たる決戦へ備えて用意を整え始める。
撒かれた粉の正体が小麦粉と判った為、俺は部屋中から粉を掻き集めて水に溶き、即席お好み焼きを作って腹を満たした。
遂に、奴との七日に渡る戦いが終わる。
***
冷たい浜風が一迅吹いた。
時は暗夜。場は海辺。月明かりだけが白い砂浜を照らす。
動き易いように、と履いておいたサンダルで酷く冷えた砂浜を強く踏みしめながら、先に待つ男の下へ向かう。
「遅かったな」何も持たず、アロハシャツと海パンにサンダルを履いた男が笑う。
「ああ、まったく」何か用意しようと思ったが、身体に染み付いた物臭から手ぶらで来てしまった俺も、ただ笑う。
「さあ、始めようか」
瞬間、俺と望月は掴み合う。
首を狙い、髪を掴み、噛みつき合った。
数分の後、俺は望月に打ち倒されて首を絞められる。
「これで、俺の勝ちだな」
赤と白に点滅する視界の中、にやりと笑う望月の顔を嫌い、横を向いた時、それに気づいた。
俺達と同じ様に、二つのシルエットが潮騒の中重なっている。
しかし、聞こえてくるのは低い唸り声や怒声ではなく、甘い、桃色の嬌声だった。
俺と望月は、ゆっくりとお互いに顔を見合わせた後に周囲を見る。
周りには同じく重なる影が大量に、全てが男女のものであった。
***
後に調べた際に明らかになった事であるが、望月が決戦の場に選んだあの砂浜は有名な逢引スポットらしかった。
そんな場所に縁の無い俺達は疑問さえ感じず、愛を語らう場所で血で血を洗う決戦を行っていたという事実を知り、その時酷く赤面した。
望月はへらへらと笑ってはいたが、耳の先まで赤くなっていた。
***
とぼとぼと望月と二人、並んで帰路に着いていた。
ため息さえ起きず、静寂と暗闇が辺りを包んでいた。
不意に、俺が声を出す。
「すまんかった」
何故だか、これまで意固地になって出なかった言葉が口をついて出た。
「こっちこそ」
望月もゆっくりとそう言った。
今ここに、俺と望月の戦いは終わりを告げたのだった。
***
不毛な決戦は幕を下ろし、残ったのは俺の部屋にこびりついた白い粉だけであった。
遺恨も、深い傷も、特には残らずに夜は更けていく。
家に着いた俺は寝転んでこの戦いの発端となった小説「館合体ロボRX」が枕元に転がっていたことに気づき、なんとなく開いてみた。
内容は当たり前の事だが、初めて読んだ時と変わっていないはずなのだが、そこまで面白いとは思えなかった。
斬新なアイデアとは俯瞰して見ればただ突拍子が無いだけなのかもしれない。
そして、こんなくだらない物の為に気を張っていた俺を笑うように節足動物達が視界の隅を駆けていった。