人食い鬼
夕焼けにしては、鮮やかすぎる色をしていた。空と砂漠の境界に、ほんのりと灯る赤いものがあった。それは夜半まで続き、そして消えた。
変事の前触れかと、その日はずっと起きて空を見ていた。だが、何も変わらず、強い眠気を感じていつもよりずっと早い時間に眠りについた。早い時間といっても、夕日が沈み月が出てくる、といった曖昧な感覚でしかない。ここには、時間を測るものは何一つないのだから。
そして二度目の朝日を迎えた日、変化が訪れた。岩山の中腹にあるねぐらの眼下に、人間が倒れていた。まだ十かそこらの少女だった。砂漠の民らしい服装で、そしてあちこちが血で汚れていた。放っておけば、砂に還っていくことだろう、そんなことを考えた。
岩山を降りて、倒れた少女に近づいた。血と、焦げたような臭いがした。細い手首を取り、脈をみた。かすかな脈動が、感じられた。生きている。幾分か複雑な思いでそれを確かめてから、ねぐらの洞穴へと少女を担いで戻った。
岩肌に敷いたわらの上に横たえて、少女の額に指を当てる。熱が、少しある。汗もかなりかいているようで、衣服は湿っているくらいだった。
清潔な布を探し、湧き水で湿らせて少女の額へのせる。それから火を熾し、枝に鍋を吊るして草を数本入れた。疲労と発熱、あとは水が足りないのか。おおよその見当をつけながら、鍋の中身をかき回した。やがてそれは、緑色の青臭い臭いのする液体になってゆく。出来上がったものを少し冷まし、匙ですくって少女の口元へと運んだ。桜色の唇が少し動いて、薬湯を飲んだ。
「う、うえぇ……」
少女の口から、呻くような声が漏れた。
「薬、飲む。苦い、効く」
言葉を喋ることは、永くしてこなかった。話しかける相手もいなければ、必要もなかったからだ。だから少し不安ではあったが、少女は理解してくれたらしく、おとなしく次の薬湯も飲んでくれたようだった。
「ぐ、あ、も、もうちょっと、ハチミツとか……」
「薬、混ぜる、効果、弱い」
相当苦いのか、少女はぎゅっと閉じた目の端に涙を浮かべていた。
「水、少し、飲む」
「ありがと……」
布に含ませた水を、少女は少し、飲んだ。それから深く息を吐いて、うっすらと目を開けた。藍色の、宝石のような色をたたえた瞳だった。
「ここは、どこ……って、うぇええあ!?」
こちらを目にした少女の顔が、驚きの表情をつくった。そしてバネ仕掛けのように起き上がろうとする。
「起きる、ない。身体、休む、必要」
少女の華奢な肩を指で押さえ、寝かせた。
「あああ、ば、ばけもの……」
大きく綺麗な目を見開き、少女は震える。恐怖と緊張が、少女の全身を支配してしまっているようだった。
否定をする気は、なかった。人間の、か弱い少女からみれば確かに、化け物の類なのだろう。そう言われて傷つくような感情は、遠い過去に捨てたのだ。
「お前、ここ、倒れた。俺、運び、薬、与えた。お前、治る、立ち去る、良い」
怯える少女に、語りかけた。久々の長い言葉はやはり拙いものだったが、少女の震えは少しましになった。
「あ、あたしを、食べないの?」
恐る恐る、少女が問いかける。
「お前、小さい。食べる、少ない。加える、俺、人間……食べる、やめた」
そう言うと、少女はじっと目を合わせてきた。吸い込まれそうな藍色が、瞬きもせずにきらめいていた。
「わかった、信じる。怖がってごめんなさい」
少しの時間を置いて、少女が言った。
「謝る、ない。俺、化け物」
「でも、あたしを助けてくれたんでしょ? それに、人間を食べないって言った」
少女の言葉に、うなずきを返した。すると少女が、にっこりと笑った。
「じゃあ、あたしの命の恩人だ。あなたは化け物じゃないよ」
ゆっくりと、少女が身を起こす。それからこちらを見上げ、手を差し出した。
「あたしは、砂漠の国の第十八王女、サラサ。あなたのお名前は?」
問われて、答えることができない。名前など、生まれてから必要としてこなかったのだ。
「名前……ない」
「じゃあ、名無しのオーガさんだね。助けてくれて、ありがとう」
ぎゅっと、少女がこちらの指を握って上下に振った。人差し指に灯るわずかな温もりが、心地よいと感じた。
サラサはそれから、眠ってしまった。疲労と衰弱がみられた。滋養のあるものを、食べさせる必要がありそうだった。壁に掛けてあるブーメランを手に立ち上がり、ねぐらの入口へと向かう。
「どこ、行くの……?」
薄目を開けて、サラサが問いかけてくる。足音を忍ばせていなかったので、起こしてしまったようだ。
「狩り、行く。お前、栄養、必要」
「うん、わかった。気をつけて、いってらっしゃい」
「……夕日、沈む、前に、帰る」
言い置いて、ねぐらを出た。近場にある水場には、鹿の群れがやってくる。狩りの獲物としては、充分なものだった。
草を食み、くつろぐ群れに忍び寄る。頭を上げて耳を立てる鹿に向かって、ブーメランを投げた。命中した鹿が倒れ、群れが逃げ出す。もう一本投げつけると、後尾にいた一頭も倒れた。必要な数以上は、獲らない。それが、ここでの自然の掟だった。
ぐったりとなった鹿を担いで、ねぐらへ戻った。血を抜いて肉や内臓を切り分け、毛皮は天日に干す。小さく切った肉を火で炙りながら、岩塩をふりかける。肉の焼けるにおいが、ねぐらの中に満ちた。
「たべもの……」
眠っていたサラサが目覚め、こちらを見ていた。串から外した肉を、爪の先でつまんで少女の口へと運ぶ。
「んぐ、あふぃ……おいひぃ……」
「噛む、大事。肉、多い。ゆっくり、食べる」
「はぁい、んむ、んむ」
サラサは満ち足りた顔で、肉を頬張った。三切れほどで少女は満足したようなので、残った串の肉は平らげた。肉を食べる姿を、サラサが微笑んで見つめていた。
「ふふ……」
「どうした」
「肉、焼いて食べるんだね。てっきり毛皮ごと、生で食べると思ってた」
「生、食べる。毛皮、食べない。肉、焼く、食べる、簡単」
「そっか、あたしのために、焼いてくれたんだね」
「お前、身体、肉、必要」
「うん、ありがと。名無しのオーガさん」
そう言ってサラサはしばらくくすくすと笑っていたが、やがて眠りについた。安らかな寝息を立てる少女に安心をしつつ、解体した鹿肉や内臓を塩に漬け込む。しばらくは、肉が必要に思えたからだ。
翌日には、サラサはなんとか立って歩ける程度には回復していた。おぼつかない足取りで、ねぐらの外へ用を足しに行って戻ってきた。
「今日はどこへ行くの?」
「野草、摘む。お前、身体、必要」
「うん、わかった。行ってらっしゃい」
サラサは笑顔で、入り口に立って見送っていた。
「ねぐら、自由、する、良い。遠く、行く、危険」
「ありがと。大丈夫だよ。ここでちゃんと待ってるから」
小さく手を振る姿を背に、岩山を降りた。食べられる草は、水場に自生している。摘み尽さなければ、それはまた生えてくる。甘い香りのする木の実なども、少しずつ集めた。
帰りに、枯れたような色をした細木の根を掘り返し、一本を折り取った。その根は、薬湯の材料になる。根の先にある、赤い部分は毒になるので、千切って別にしておく。
ねぐらへ帰ると、サラサは本を読んでいた。
「おかえりなさい」
「……文字、読む、できる」
「ああ、うん。簡単な文字なら、読み書きできるんだ。これでも王女なんだから」
そう言って、サラサは胸を張った。
「お前、賢い」
「そうかな? でも、意味は半分もわかんないよ」
「戦術書、難しい。これ、読む」
部屋の隅に積んである、本を渡した。緑の装丁のものは、判りやすいもののはずだ。
「ありがと。……これ、植物の絵が描いてるね。へえ、この草、食べられるんだ」
「今、それ、煮込む」
「わあ、楽しみ。ね、手伝おうか?」
立ち上がったサラサが、少しふらついた。手を挙げて制し、寝床にサラサを寝かせ直す。
「お前、病人。無理、ない」
「うん、わかった。ごめんね」
紙をめくる音と、野草などを刻む音。ただそれだけなのに、ねぐらが急に騒がしくなった気がした。どこか心の中で、それを悪くないと思い始めてもいた。
煮込んだものに、薬湯を少し混ぜた。わずかな苦みも、良い刺激になることもある。木の椀に注いでやると、サラサは熱そうにしながらすすり込む。
「ん、あつ、ん、んー」
汁を飲んで、サラサは目を閉じ唸った。
「身体の中に、養分がいき渡っていく感じがする」
そう言って、サラサは笑った。幼い子供の笑顔。それは、今までの生活に無かったものだ。じっくりと眺めていると、サラサは不思議そうな顔になった。
「どうしたの?」
「お前、歯、草、ある」
「え? あ、うん」
もごもごと口の中で舌を動かし、サラサは改めて口を開けた。
「きれいになった?」
うなずいてみせると、サラサはまた食事を再開した。椀を三杯お代わりして、腹の満たされたサラサはまた眠りについた。とたんに、部屋の中から音が無くなった気がした。
鍋をふたつ、火にかける。すり潰した木の根と、根の先を煮る。水気がなくなるまで煮込み、しばらく冷ました。中身は、陶器の小瓶に入れる。それで、今日することは何も無くなった。
次の日の朝、サラサの体調は良くなっていた。立ち上がって歩く足取りは、しっかりとしたものだった。
「おはよ、いい朝だね」
朝日を背中に、サラサが笑う。淡い色の長い髪が、ふわりと風になびいた。
「お前、身体、良い?」
「うん、もう大丈夫。すっかり良くなったみたい。っていうか、前より元気になっちゃったよ」
そう言ってサラサは、めいっぱいに身体を伸ばしてみせた。
「良い。お前、治る。立ち去る、良い」
サラサの顔が、笑顔ではなくなった。うつむいて、目だけをこちらへ向けてくる。
「ここにいたら、ダメ、かな。あたし、まだお礼もしてない」
「必要、ない。お前、ねぐら、帰る」
「うん、わかった……」
「近く、人間、集落、ある。そこ、お前、送る」
サラサに背を向けて、腰を屈めた。
「乗る、良い」
「うん、ありがと……」
サラサを背負い、いくつかの物を持ってねぐらを出た。砂漠の集落は、西にある。サラサのねぐらも、きっとそこにあるのだろう。
いくつか砂丘を越えて、駆けた。やがて、オアシスが見えてくる。水場のまわりには、白い石造りの建物がぽつりぽつりと並んでいる。
「着いた。降りる、良い」
声をかけてしゃがむと、背中から重みがするりと抜けた。小高い丘の上から、集落を見下ろせる位置だった。サラサの足でも、おそらく大した距離ではないだろう。
「これ、持つ、行く」
干した鹿の肉と、水の入った革袋、一冊の本、そして薬瓶をふたつ。ちょっとした小荷物程度だったが、サラサが持つと大荷物になっていた。
「ありがと、名無しのオーガさん。いつかきっと、恩を返しにいくから」
「自由、する、良い。お前、生きる、大変」
「うん。オーガさんも、生きてて……あ、ちょっとこれ見て」
サラサが開けた水袋へ、顔を近づけて覗き込む。水は、しっかりと入っている。確認していたところで、口の端に柔らかいものが触れた。目を閉じたサラサが、小鳥がついばむような動きで唇を触れさせていた。しばらく動かずに、そうしていた。
「……せめてもの、お礼だよ」
そう言って、サラサは笑った。サラサが触れていた部分に、くすぐったさを感じる。それは、悪いものではなかった。
「……瓶、中身、こっち、薬」
「うん。青いほうね」
「こっち、毒」
「赤いほうが……ど、毒?」
「毒、危険。使い方、必要」
「え、あ、うん……毒も薬になるときも、あるのかな?」
「本、読む。使い方、わかる」
立ち上がり、サラサに背を向けた。
「うん、ありがと。もう、行っちゃうの?」
「ここ、長く、いる、良くない。お前、再び、倒れる……さらば、元気、生きる」
言って、駆け出した。
「また、会いにいくから! オーガさんも、元気で!」
後ろで叫ぶサラサの声が、小さくなっていく。びゅうびゅうと、風が砂漠を渡っていく。足を止めることなく駆け続けると、夕方にはねぐらへ戻っていた。
西の空へ、夕日が沈んでいく。赤く染まる空と砂漠を見つめながら、胸にひとつの思いが浮かんだ。
こんなにも、静かだったのだろうか。
やがて夜が深まるまで、空を見ていた。