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あたたかなひだりて

作者: 寄木露美

 わたしは昔から、「美女と野獣」が好きでした。優しい少女が野獣と愛を育んで、最後には野獣の魔法が解けて結婚するという筋書きに引き付けられたのです。少女と野獣の間には人と獣であるとか、育ってきた環境とか、様々な困難があるけれど最後には全てを乗り越えて二人で幸せになります。自分もそうやって一緒に幸せになることを夢見ていたのです。

 この物語を知ったきっかけは、おじさんに絵本を読んでもらったことでした。わたしのお父さんとお母さんは共働きで、あまり家にいなかったのです。両親の仕事が夜遅くまで掛かる時に幼いわたしを見ていてくれたのは、決まっておじさんでした。おじさんは大人で、クラスの男の子たちよりもずっと格好良くて、小さいころからわたしはおじさんのことが大好きでした。

 寝付けない時、おじさんは決まって絵本を読んでくれました。白雪姫に、シンデレラ。眠り姫にラプンツェルに塩の姫君。おじさんが選ぶ物語は決まって女の子が幸せになって、わたしは満たされた気持ちで眠ることが出来ました。

「ねえ、おじさん」

 布団からちらりと顔を覗かせてわたしがおじさんを呼ぶと、大きな手がわたしの髪をわしゃわしゃと撫でてくれます。おじさんの手はわたしより暖かくて、どこか安心しました。おじさんに向かって手を伸ばすとおじさんは少しだけ困った顔をしました。そんな顔もわたしは大好きで、胸の奥が熱くなって、「幸せ」ってこういう事なのかな、と幼いながらに思ったのです。




 お父さんとお母さんがいる時におじさんがわたしの傍にやってくることはほとんどありません。どうして、と一度聞くと俺は嫌われているからね、とだけ返してくれました。確かに昔わたしがおじさんの話をした時、お父さんは少し嫌そうな顔をしました。お母さんは、昔はおじさんがわたしの傍にいることを嫌がっていたみたいだったけれども、最近は何も言わなくなりました。多分、諦めたんだと思います。

 家の中でおじさんが大好きなのは、わたしと猫のキャロルだけです。キャロルはおじさんが現れると、いつもおじさんの脛の辺りに頭をこすりつけようとします。そうするとおじさんは笑って、歪な左腕でキャロルの頭を撫でるのです。そんな時、すこしだけ心の奥がもやもやとします。頬をふくらませておじさんをちらりと見ると、わたしの視線に気づいたおじさんがこちらに向けて少し呆れたような笑みを向けます。

 一度、キャロルの真似をしておじさんの足元にうずくまり額をおじさんの足にこすりつけるふりをしたことがあります。おじさんは戸惑った顔をした後、どうしてこんなことをしたのかと聞いてきました。キャロルみたいに撫でて欲しかったからだと言ったら、おじさんは少しだけ呆れた顔をしてわたしの頭を撫でてくれました。

 おじさんは今でもわたしに小さかった時と同じように接します。もう十歳だから小さい時とは違うのに、と言ってもおじさんは笑ってごまかすのです。そんな時、わたしは少しだけくやしくなります。近くにいるのにおじさんがわたしの手の届かないような遠い場所にいるような気がするのです。

 そんな時はいつも、わたしはおじさんの左手をぎゅっと握ります。おじさんの手は暖かくて、おじさんが近くにいてくれることをわたしに教えてくれるからです。そんなわたしを見て、やっぱりお前は子供だね、とおじさんは返します。子供だと言われるのは嫌だけど、おじさんに甘えられるなら子供でもいいかな。わたしはいつも心の奥でそう思ってしまうのです。




「ねえ、おじさん」

 いつものようにおじさんを呼ぶと、おじさんはひょっこりと部屋の扉から顔を出しました。夕御飯の買い物に行きたいんだけど、ついてきてくれる? そう聞くと、おじさんは少しだけ困ったような顔をしました。おじさんは家から出ることがあまり好きではありません。でもわたしも一人で買い物に行くのは嫌なので、いつも少しだけ押し問答になります。大抵は最後におじさんが折れて、わたしたちは一緒に玄関をくぐり抜けるのです。

 近所のスーパーに行くまでには、川沿いの歩道を通って行きます。今の季節は夕方になると涼しい風が吹くので川沿いを歩くのは割と好きだったりします。

「おじさん、手をつないでもいい?」

 そう言うと、ちょっとだけ呆れたような笑顔を浮かべておじさんは左手を差し出してくれました。わたしはおじさんの左手が、一番好きです。おじさんの手は火傷の痕があって歪だけど、暖かくて、少しごつごつとして、わたしの手をつつみこんでしまいます。こうやっておじさんと手を繋いで歩くとき、わたしの胸の中はぽかぽかと暖かくなります。春の午後に日向ぼっこをしながらお昼寝をしているような、幸せな気分になるのです。

 あと少しでスーパーに着きそうになったまさにその時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえました。みさきちゃん、とわたしの名前を呼ぶその人は、近所の麻恵おばさんでした。今日も一人で買い物、えらいねぇ。おばさんはにこにこと笑いながら、わたしに話しかけました。おじさんは興味なさそうに、わたしとおばさんを見ています。

少しの間色々な話をした後、おばさんはじゃあね、と言ってわたしの横を抜けようとしました。あ、というまでもなく、おばさんはおじさんの体をすり抜けて歩いて行ってしまいました。おばさんの後ろ姿を見て、おじさんが少し悲しそうな顔をします。

 おばさんはおじさんの方を見向きもしませんでした。それもそのはずです。だっておじさんは、わたしとキャロル以外のほとんどの人には見えないから。

 自分は幽霊みたいなものなのだと、昔おじさんはそう言いました。おじさんのことが見えない人は、おじさんに触ることも気づくこともない。殆どの人にとっておじさんは「いない」存在なのです。

 わたしやキャロルはおじさんの姿を見ることが出来るけれども、おじさんの体には触れることが出来ません。唯一わたしたちが触ることができるのは、おじさんの左腕だけなのです。

 最初におじさんに気づいたのは、わたしが五歳の頃でした。気が付いたら家の中に知らない人がいて、びっくりして泣き叫んだ覚えがあります。お父さんやお母さんに知らない人が家の中にいると言っても信じてもらえなくて、相変わらず家の中にいる知らない男の人は怖くて、毎日びくびくしながら過ごしていました。

 それが変わったのはおじさんが家に現れてから暫くした後でした。ある日の夜、わたしは怖い夢を見てしまって全く眠れなくなってしまったのです。お母さんとお父さんの部屋に行こうにもベッドから抜け出すことも怖くて、かといって眠ると夢の続きを見てしまう気がしてどうにもならなくなってしまいました。

 目を閉じて必死に怖さを押し殺そうとした時、誰かがわたしの傍にいる気配を感じました。隣にいるのは誰なんだろう。そう思った直後に大きくてごつごつとした掌がわたしの頭を撫でました。大丈夫だ、怖いことなんてない。聞いたことのない、でも優しくて低い声が耳に入り込んできます。頭を撫でてくれる掌の暖かさと優しい声はわたしの中の不安を和らげてくれました。

 気が付いたら朝になっていて、目を覚ますとベッド脇に座っているおじさんと目が合いました。わたしが起きたことに気づいたおじさんはその場から消えようとしたのですが、わたしがおじさんの左手を掴んだのでこちらを見ました。ありがとうございます、と自分で思っていたよりもか細い声が出ます。幼稚園であいさつする時は、もっと大きな声で言えるのに。

 おじさんはわたしの声を聞いて少しびっくりした顔をした後、にやっと猫のような笑みを浮かべました。それにつられて思わずわたしも笑顔になりました。その時から、わたしはおじさんのことが大好きになったのです。




 スーパーにつくと、蛍光灯のちかちかとする明かりがわたしの目の中に入ってきました。ちかちかする明かりの下で、沢山の野菜やお肉や魚が横たわっています。今日の夕飯はどうするんだ、とおじさんが聞いたのでカレーだよ、と答えました。カレーなんて久しく食べてない、とおじさんがこぼします。おじさんもいろいろ食べられればいいのにね、と言うと曖昧な笑顔で返されました。そのままなんとなくお互いに黙ってしまって、わたしたちは蛍光灯の下でカレーの材料を集める旅に没頭しました。

 全部の材料を集め終わってレジにやってくると、レジのおばさんが引きつった顔でわたしたちを見ました。少しだけ震えた声で、レジ袋は要りますかとおばさんが尋ねます。わたしたちは素知らぬ顔で、いりませんと答えました。

 おばさんはいそいそと商品をレジに通したあと、千百八十円ですと言いました。お金を渡している最中、おばさんはちらちらとおじさんを見ましたが気にしないことにします。お会計が終わった後、おばさんはありがとうございました、と声早に言ってそのままわたしたちを見ようとはしませんでした。

 商品をつめながらおじさんに大丈夫、と聞くともう慣れた、と返されました。大抵の人はおじさんに気がつかないのですが、時々気づく人もいます。そういう人は大体おじさんの見た目に怖がって目を逸らしたり、見えてない振りをします。おじさんは全然怖くないのに、優しい人なのに、どうして嫌がるんだろう。ちらりとおじさんを見ると、寂しそうな顔をしていて、胸がきゅうと痛くなりました。

「ねえ、おじさん」

 川沿いを歩きながらおじさんを呼ぶと、どうした、と優しい声で返事をしてくれました。

「わたし、おじさんのこと好きだよ」

 そう言うと、おじさんは少しだけ驚いた顔をした後、そうか、とだけ言いました。おじさんの歪な左手も、低くて優しい声も、わたしよりも大きな背中も、顔の半分にある火傷の跡も、全部好きだよ。そう言ってしまいたいのに、言葉に出すのが何故か出来なくて、少しだけ泣きたくなって、おじさんの顔を思わず見てしまいます。

 お前は、いい子だね。そう言っておじさんは軽くわたしの頭を撫でました。そのままおじさんの胸元に飛び込んでしまいたい気持ちになりましたが、そうしてもわたしの体がすり抜けてしまうだけでしょう。

 川沿いの風が、涼やかさを首筋に運んできます。自転車に乗った人がおじさんの右腕をすりぬけて、川下へと向かっていきました。沈みかけた夕暮れの下で、わたしとおじさんは何も言わずに家に向かって歩いて行きました。




 家に帰ると案の定玄関でキャロルが待ち伏せていて、おじさんに向かって思いっきり飛びつきました。おじさんは嬉しそうにキャロルを左手で抱きとめます。ほんの少しだけ、キャロルが羨ましくなったのは内緒です。

 台所にやってきて、材料を広げます。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、お肉。おじさんはキャロルを抱えたまま台所の隅でじっとわたしを眺めていました。おじさんも手伝って、と言うとおじさんはキャロルを地面にそっと降ろして、わたしの近くに来てくれました。わたしが皮を剥いて切った野菜たちを、おじさんは左手だけで器用に鍋の中へと入れていきます。

 投げ込んだ野菜を油でいためて、お肉を入れていきます。色が変わっていい匂いがしてきたところで水を入れて、そのまましばらくの間煮続けます。その間は暇なので、リビングで宿題をやることにしました。ちらりと横目でおじさんを見ると、キャロルと遊んでいました。おじさんはかなりの猫好きなのです。

 宿題を全部終えて、ふと顔を上げるとおじさんはいなくなっていました。キャロルはクッションの上で丸まって寝ています。最近のおじさんは、前ほど長い時間は来てくれない気がします。

 ふと、この間お父さんに言われたことを思い出しました。お前はいつまでそうやって子供でいるつもりだ。お父さんの言葉に首を傾げると、お父さんはがっかりした顔でわたしを見ました。「いつまで子供でいるつもりだ」というお父さんの言葉は、あの日からわたしの頭の奥から離れてくれません。

 そんなことを考えているうちに、時計は七時過ぎを指していました。もうそろそろカレールーを入れなくてはいけません。台所に行って、カレールーを入れます。ふと、後ろに気配を感じたので振り返るといつのまにかおじさんが立っていました。いい匂いだな、とおじさんは呟きます。うん、とわたしもそれに頷きます。

 ねえ、おじさん。おじさんはいつからおじさんなの。小さい頃から何度も聞いてきたことを、今更になって繰り返します。さあ、とおじさんははぐらかしました。おじさんの外見は初めてわたしがおじさんと会った時と、全く変わりません。ぼさぼさの黒髪に体の左半分の火傷を隠すように白いシャツを着て、藍色のジーンズを履いた背の高いおじさんの姿は、ずうっと変わらないのです。

 そんな会話をしているうちに、鍋からいい匂いが漂ってきました。スパイスと、野菜とお肉が煮えたカレー特有の匂いが鍋から広がります。鍋を開けると、いい匂いと一緒に暖かな茶色が目に入って、少し嬉しくなりました。

 二人分のお皿にご飯をよそい、カレーを上からかけます。とろとろとしたルーの中に私よく煮えた野菜とお肉がちょっと型崩れしながらも入っていて、我ながら上手くできたなぁと思います。テーブルにカレーを二人分置いて手前の椅子に腰かけると、向かい側におじさんが座りました。

「いただきます」

 手を合わせてそう言いました。おじさんもいただきます、の動作を行います。一口すくってそれを口に含むとほろっと玉ねぎが溶けました。暖かくて、おいしい味。思わず顔がほころびます。

 おじさんはカレーに手を付けることなく、じっとわたしを見ていました。そもそもおじさんは物を食べません。そうしなくても生きていけるんだって、ずっと前に言っていました。でもそれじゃあ寂しいから、だから家でわたし一人の時はおじさんにもご飯をよそいます。

 ふと、昔読んだ絵本の一部分が頭の中に浮かびました。城の中で二人きりで晩餐会を行う女の子と野獣の姿。楽しそうにご飯を食べていた彼らが頭の中に蘇り、少しだけ羨ましくなりました。

 カレーを食べる手を止めて、おじさんに手を伸ばしました。本当ならおじさんの右手に触れられるはずなのに、わたしの手は空を切ってテーブルへと着地しました。やっぱり、触れられない。

 不思議そうな顔をしておじさんが私を見ました。急に、どうした。おじさんがわたしに尋ねます。どうしてか、目の奥が熱くなっていきました。

「……ねえ、おじさん」

 おじさんの魔法は、いつ解けるの。弱々しい声が、喉の奥から溢れました。昔話では、魔法に掛けられた獣の魔法はいつか解けて、人間の姿に戻って、女の子と幸せに暮らすのです。いつまでも、いつまでも。

 じゃあ、おじさんの魔法はいつ解けるんだろう。野獣は人の姿をしていないけれども、女の子を抱きしめることも、キスすることも出来ました。けれどもおじさんには左手しかありません。近くにいるはずなのに、一緒に過ごしている筈なのに、わたしはおじさんの左手にしか触れることが出来ないのです。もしもおじさんの魔法が解けたとしたら、おじさんは皆に見えるようになるのでしょうか。わたしを抱きしめてくれるのでしょうか。

 おじさんは悲しそうな笑みを浮かべたまま、ただ黙っていました。おじさんとわたしの間に、重くて灰色をした空気が降りてきます。その空気がいたたまれなくなって、わたしは俯いてまたカレーに手をつけ始めました。一口、二口と食べるものの、さっきのようなおいしさはありません。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。後悔が胸の奥に降ってきました。

 カレーを食べ終わって顔を上げると、おじさんはわたしの目の前からいなくなっていました。手のついていない皿にラップをかけ、冷蔵庫の中に入れます。それから食べ終わったお皿を流し台へと運び、食器を洗うことにしました。

 泡のついた皿とコップを流しながらも、頭の中はもやもやとしたままです。おじさんに何て言おう。さっき言ったことを、おじさんは怒っているんだろうか。もやもやは全く晴れません。胸の奥に何かが突きささったまま、わたしは泡だらけの皿を蛇口の下に晒しました。




 食器を洗い終わっても、お風呂に入っている最中も、もやもやは結局わたしの頭の中に残ったままでした。あのキッチンに落ちていた灰色の空気がきっと、わたしの体の中に入ってしまったのでしょう。

 結局ベッドに入るまで、おじさんがわたしの前に姿を現すことはありませんでした。普段ならキャロルと遊んでいたり、家中をふらふらとしているのに。おじさんの姿が見えないだけなのに、どうしてこんなにも胸の奥が重くなるんだろう。ベッドに入ってもその重さは残ったままで、瞼を閉じても眠気が落ちてくることはありませんでした。

 ベッドに寝転がってどれくらいの経ったのでしょうか。ふと、近くに誰かがいるような気配を感じました。近くの誰かは足音を立てないままにベッドに近寄って、縁に座ったような感じがしました。

 おじさん、と呼ぼうとしたその時でした。ごめんな、と悲しそうな声が耳元で囁かれたのは。お前は幸せにならないと駄目だよ。俺のことだってきっと見えない方がいい。だって、俺は。そこまで言ったところで、わたしの髪におじさんの指が触れました。男のひとにしては細い指が、わたしの長い髪を辿って首元へとたどり着きます。熱い指先が、ゆっくりとうなじから頭の上の方までをなぞっていきました。

 頬が熱くなるのと、私をなぞる指に思わず手を伸ばしたのはほぼ同時でした。わたしが指にそっと触ると、分かりやすいほどにびくりとそれは震えました。

 布団から顔を覗かせると、戸惑った顔をしたおじさんと目が合いました。ねえ、おじさん。わたしはおじさんに呼びかけます。

 おじさんの魔法が解けないこと、本当はもう分かってたよ。おじさんはきっと、おじさんのままなんでしょう。殆どの人におじさんが見えるようにはならなくて、わたしもきっとおじさんの左手以外に触れることは出来ないんでしょう。お伽話みたいに全てが上手くいって、おじさんの傍でいつまでも幸せに暮らすことも、多分出来ないんだよね。

 お父さんの言っていた言葉が頭の隅をよぎって、それを振り切るようにわたしはおじさんの左手に手を伸ばしました。お前はいつまでそうやって子供でいるつもりだ。あの言葉はきっと、わたしとおじさんのことを。

 いつまでそうやって夢を見ているつもりなの。気持ち悪い。「見えないお友達」なんていつまで信じているつもりだ。周りはそんなもの信じていないだろう。頭がおかしい。大人になれ。大人はそんなものは見えたりしないんだ。ぐるぐると、お父さんやお母さんに昔言われた言葉が頭の中を回りました。嫌だ。嫌だ、だってわたしは。

「ねえ、おじさん」

 泣きそうな声になりながら、わたしはおじさんの左腕にすがりつきました。吃驚した顔でわたしをおじさんが見ます。

「わたしは、大人になんてなりたくない。おじさんがいなくなっちゃうのは、嫌なの」

 魔法が解けないのは知っています。わたしだっていつかは大人になるし、おじさんだっていつまでもいてくれるわけではないでしょう。でも、わたしは。今のわたしは、おじさんの左手の暖かさだけを信じていたいのです。それが周りにとって馬鹿馬鹿しいことでも、信じることが難しいものでも。

 おじさんは何も言いません。ただ、わたしの頬に伸ばしてくれた右手はわたしの頬をすり抜けてしまいました。それが妙に悲しくて、鼻の奥がつんと痛んで、目からはぼろぼろと涙が溢れていきます。

 お伽話の女の子と野獣のようにいつまでも幸せで暮らせないのなら、今だけでも幸せでいさせて。おじさんの傍にいさせて、暖かい左手で触れていて。そう思いながらわたしはおじさんの左手を握る力を強めます。

 涙でぼやけた視界に映ったおじさんの顔は今までに見たことがないくらいに寂しそうで、近くにいるはずなのにずっと遠くにいるような気がしました。でもきっとそれは本当のことで、お伽話の人物ではないわたしたちの距離は絶対に縮まらないのでしょう。

 

 だからこそ、わたしは。おじさんを繋ぎ止めるために、幸せを感じるために。おじさんの左腕に今日もすがりついてしまうのです。




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