五百円玉
カランコロン。ベルが鳴る音。外はあんなに蒸し暑かったのに、店内は、冷房が効きすぎてとても寒かった。
寒がりの美佐子がこんなところへ呼ぶなんて、珍しい。
そう思いながら、指定された一番奥の個室へ入ろうとする。暖簾で仕切られている其処からは、妙に色気のあるハイヒールを履いた細い脚が見えた。
ハイヒール? あの女っ気のない美佐子が?
首を傾げ、改めて場所を確認すると、やはり言われた通りの個室である。じゃあ、この部屋に居るのは美佐子なのか。恐る恐る、暖簾をくぐる。
「美佐子……?」
黒いスーツ、それも本当に美佐子かと疑う、スカートで。今から仕事場に行くんです。とでも言わんばかりの格好に、俺は思わず噴き出した。
「美佐子、そりゃねえわ!」
爆笑する俺に、薄い微笑を浮かべる美佐子。普段ならば其処で同じように笑ってくれるはずなのに、と考えた時には「座ってください。」ほとんど命令に等しい声が掛かり、その通りに動いてしまった自分が居た。
「今日は大事な話があるの。」
まだ笑いを引きずっていた俺の心臓は、急激に冷えた。冷房が直にあたっているせい、ではない。
『女が大事な話っつー時はなあ、妊娠か別れ話だよ。』
いつぞやに小耳にはさんだ声が、耳元で言われているかのように思い出される。
でも、妊娠だったら黒のスーツなんて着てこないだろう? お祝い事なんだから。
嫌な予感がして、嫌な汗が吹き出してくる。
「別れましょう。」
ああ、やはり! 俺の読みは間違っていない。いや、俺の読みというよりは、あの声の持ち主が間違っていないのが証明されたのか。なんだかそれはそれで苛立つな。
現実逃避して回答を引き延ばしていると、美佐子はまた薄く微笑んで言う。
「貴方の意思は関係無しに、別れさせていただきますから。」
えっ? 俺の意思は関係無し? だったらどうして呼んだんだ!
とは口に出せなかった。俺は、正直、美佐子の尻に敷かれ続けた人間だ。言ったら倍に、いや三倍以上になって返ってくるのを知っているから、言えないのである。
「ど、どうして。」
唯一言えたのはそれだけだった。
身体はどんどん、冷房に体温を奪われていく。それなのに、汗は次々と流れ出る。
「そういう肝っ玉が小さい所が大っ嫌いなの。」
ええっ! 驚いた。付き合ったばかりの時は、其処も可愛いなんて言ってくれていたのに、だ。今はそれが別れる原因になっている。
女心と秋の空、なんて言うが。そう、俺たちはまだ付き合って半年しか経っていないのに、もう台風が来たっていうのか?
ぐるぐると混乱する俺を余所目に、美佐子はスッと立ち上がって、俺が固まっている間に店を出て行った。
後に残っているのは、美佐子が飲みながら俺を待っていたのであろう、空になったコーヒーカップ。
俺の心も空っぽだよ。なんてコーヒーカップに話しかければ、その下に五百円玉が煌めいているのが見えた。若干ななめになりながらも、コーヒーカップは其処に凛と佇んでいる。
ああ、そうか。空っぽの心を支えているのは、空っぽにした張本人の美佐子なんだ。俺は、二十五歳にしてやっとできた恋人に、支えられ続け、心を空っぽにされ、それでもなお、支えられていると感じられる。なんて幸せなことなんだろう!
と言いつつも、やはり自分から惚れ込んだ恋人を無くしたのはとても辛いもので。
「はーあ。」
溜息を吐き、重い腰を上げて、その五百円玉をポケットにしまうと、自分の財布から千円札を取り出して金を払う。そして店を出た。外は相変わらず、蒸し暑い。
ポケットの中の五百円玉に、布地の上から触る。この五百円玉は、次の彼女が出来るまで取っておこう。なんて、未練たらたらの口が呟いた。
衝動的に書きたくなったはいいものの、二千文字も越えられず、自分の想像力の低下を実感しました……。