第四節 飛翔
航海三日目。
船員連中は気を遣って何も言わないけど、実はあたしは船に弱い。酔う。おかものほど酷くないけど、航海の度に酔う。いくら乗っても慣れない。もうホント、死にたい。たぶん、胃とかひっくり返ってる。これは船が飛ぶまで続く地獄。
南方洋の「狂ったウサギ」と恐れられた海賊アウグゼの娘がこれじゃあ様にならない。そもそも、よそになめられないように、あたし――娘のリツカが船を継承したなんて喧伝しないことにしてたりする。さすがに南方組合には挨拶したけどね。
あー、それにしても気持ち悪い。
三日もすればあたり一面は大海原。あたしがだれてるのをよそに、出航の忙しさから解放された水夫共は余裕綽々。
「なぁ、帆桁の」
「なんだ、甲板の」
船尾楼甲板から上層甲板を見下ろすと、奴らがおしゃべりに興じてる。ちなみに、上層甲板より一段高い船尾楼甲板の風上舷が船長の定位置。
あいつらの会話が海風に乗って聞こえてくる。
「あの新しい海兵ってお貴族様みてぇだよな?」
のっぽの水夫――甲板のマルブが今更そんなことを言っている。こいつは長らく水夫やってる癖に無能で通ってる。高所恐怖症かなんかで檣に登れず、いつも甲板にいる。ベリスカージ曰く「憎めない奴」だとか。
「お前、仕事できないどころか話も聞いてねぇのかよ」
一方、ちびの水夫――帆桁のフリーゴルは呆れてる。こっちはマルブと違って水夫としてとびきり優秀。誰よりも素早く檣を登り切って上にいることが多いから「帆桁の」って呼ばれる。
「大将はどこぞのお姫様だって船長が言ってたじゃねぇか」
一応、あたしは「クロンヌヴィル侯のご令嬢」って伝えたけど、学のないあいつらは内陸のクロンヌヴィル侯領を知らない。そも、令嬢なんて単語も知らない。さらに言えば、王女と侯女の区別もつかない。
それでも、「お姫様」という単語にマルブは素直に驚いた。
「マジかよ」
「マジだよ」
父といいこいつらといい、ホントに海のことしか知らない馬鹿ばっかりなんだから。
「ほれ、噂をすれば――」
フリーゴルが顎をしゃくった。
「お姫様のお出ましだ」
奴の言う通り、例のお姫様――クロンヌヴィル侯爵ランサミュラン=ブリュシモール家の令嬢プラニエ・ファヌーが船室を出て上層甲板に現れた。
戦闘時以外、水夫と違って海兵に仕事なんてない。お行儀の大事な海軍だったら衛兵とか懲罰の仕事もあるんだけど、うちはそもそも海賊船。言うこと聞かない馬鹿はベリスカージがぶん殴るか海に放り込む。
ま、だから、お姫様たちには甲板を散歩するくらいしかやることがない。あたしの部屋以外、船内を自由に歩き回る許可も与えてる。
「さすが、お姫様。そんじょそこらの傭兵とちげぇ。執事付きだぜ」
「あ、あの爺さん、執事なのか」
やっぱり、マルブは間抜けだ。見りゃわかるだろうに。
お姫様プラニエ・ファヌーはいつも侍従の――確か、ソワーヴ某って爺さんを連れ歩いてる。たぶん、護衛も兼ねてるんだと思うけど、帯剣してるのはお姫様だけ。腕にかけたステッキは足腰を支えるために使ってる気配はない。もしかして、武器?
「そんなことより……本物のお姫様、まぶいな」
「ああ、まぶい。まるでお人形さんだ」
声を潜めたマルブに同意するフリーゴル。
まぶいとか言っちゃうあたり下品な奴らだ。綺麗とか可愛いとか……あ、こいつらが言っても似合わないわ。むしろ気色悪い。
でも、確かに、あいつらが目の色変えるのはわかる。
プラニエ・ファヌーは回廊人の貴族らしい金髪碧眼。海か空か宝石かってくらいの碧い瞳して、陽光を受けて金色に輝くさらっさらの髪は丁寧に編み込まれてる。
色っぽさとは縁遠い年格好だけど、肌は白く指なんか白魚みたい。顔も小っちゃいし、声音も鈴かなんかみたいな涼やかさ。
フリーゴルの比喩は的確だと思う。ありゃお人形だわ。
「……ふん」
今もあの碧い瞳で舷側から海か空を眺めてる。家臣の連中は船酔いで大変なのに、ついでに言えばあたしも船酔いで大変なのに、お姫様と侍従のふたりはけろっとしてる。
なんか、くやしい。
「そーそ、妬みたくなるくらいの美少女ッスよね」
「はあ?」
意外な鋭さであたしの思考を読み取った、または決めつけたのは司厨長――コックのラッキ・ミュー・ロッキペッタっていう軟派な野郎だ。南方人との合いの子を誇りにしてる回廊人で、ご自慢の赤毛を掻き上げる仕草がむかつく。料理人としての腕はいいのに。
あと、食事の度にあたしを口説くのもいい加減やめさせたい。っていうか、なんで、こいつ、船尾楼甲板にいるの? そろそろ昼食の仕込みの時間でしょうに。
「ドレスの似合いそうなお姫様なのに、発展途上の小さな胸を張って一生懸命突っ張っちゃってるところがなおさら可愛いよなぁ」
「……なんであたしが、お前と女の子の品定めしなきゃいけないわけ?」
馬鹿か、こいつ。
とはいえ、そうなのだ。プラニエ・ファヌーはお姫様のくせして着ているものは騎士の平服。ごっつい剣帯に長剣釣って、長靴には金の拍車。背筋を伸ばして大股で歩き、口を開けば古武士のようで。
たかが十七の女の子が何を無理してんだか。
「あ、船長ぉ。もしかして、焼き餅ッスか?」
「はあ?」
ホント、ラッキの糞野郎は口を開けば碌なこと言わない。
「お前、頭のあたり、大丈夫?」
「へへっ! 女を見るのに頭とかいらないッスよ!」
自慢気に言うな、馬鹿。
「俺らヴェリオニ生まれの鼻は葡萄酒と美女の香りを逃さないのさ!」
ポーズを取るな、ポーズを。うざいから。ホント、この船、まともな船員いないんだから。
「お前、クトリヨンまで泳いで帰れ」
「やだなぁ、船長、照れちゃって!」
流し目とかすんな。うざい。
「くそが……ん?」
っと、ラッキの相手なんかしてる場合じゃない。
風が、変わった。
航海三日目、フォルシの予想通り。
「ベリスカージ!」
「へい、こちらに」
大声出すまでもなかった。すぐに例の巨体が船尾楼甲板にやってきた。こいつも風の変化に気づいた、っていうか、あたしよりも早く気づいてたに違いない。
「この卓越風を捉えて飛ぶ。準備して」
「あい、お嬢」
展帆なりなんなり水夫への指示はベリスカージに任せとけばいい。
ラッキは「ちぇー」とか言いながら船室に戻っていった。奴にはそろそろ昼食の仕込みをさせておきたいところ。
「おーし! 野郎共ォ! 飛ぶ準備だァ!」
今までおしゃべりしてたマルブもフリーゴルも、ベリスカージの号令で一気に駆け出す。
「このノロマのすっとこどっこい共がァ! ちんたらやってっと大王蛸の餌にしちまうぞッ!」
お姫様は目を白黒させてるけど、別にあたしは道化師じゃないし、わざわざ構ってあげる必要はない。おかものは隅っこで小さくなってればいい。
さて、あたしはあたしの仕事をしよう。
船尾楼甲板から舷側通路を通って、船首楼甲板へ。酔ってるから足元がふらつく。
これから、あたしはこの船に魔法を掛ける。
三月のウサギ号の船首像は「海と空の夫婦像」だ。海の神と空の神との婚姻を祝福する、二柱の神が抱き合ってる彫像。南方洋全域を探しても百と存在しない魔法の船首像。
これが三月のウサギ号を空飛ぶ帆船たらしめている。
どたどたと仕事をする船員連中の気配を背中に感じながら、あたしは船首楼甲板に立つ。
掲げるは、左手。
結婚もしてないのに薬指にはめた魔法の指輪――船長の証。
今は亡き父から受け継いだ、数少ない遺産。
それを船首像に、海に、空に掲げ、言の葉を囁く。
我は船長
ここに祝福せん
大海に詠う波と共に
大空を舞う風と共に
甲板から陽を仰ぎ
舵輪に定めを託し
汝らの婚姻を祝福せん
太古、決して交わることのないと言われた海の神と空の神が恋に落ちた。西方洋の先にあるという世界の果てでは水平線が溶けていて、二柱の神はそこで結婚したという。
そんな伝承が嘘か誠かあたしには関係ない。ちょっとお伽噺っぽすぎるとも思う。っていうか、なんか、甘すぎる。
ただ、この指輪と船首像には力があり、あたしはそれを行使できる。父と同じように。
帆がいっぱいに広がるのを確認して、後半の節を唱える。
海を統べし汝
空を統べし汝
我が船こそ汝らの赤子
御手を差し出し
我らを誘い給え
無窮なる航路へ
遥かなるかな空と海
遥かなるかな空と海
結句を二度紡ぐと、船首像の魔法が発動した。
帆布が強い卓越風を捉え、竜骨が浮力を得る、ふわっという感覚。本来は海を行く船が、海原を離れ、空へと浮かぶ。
航海三日目。
やっと飛べた。飛んでしまえば、あたしの船酔いは消える。もう波に翻弄されないから。
開闢暦二九九七年焔羊節一八日赤曜日昼二刻頃、エルヌコンスの私掠船となって初めてこの船が、飛んだ。
※「合いの子」という表現を使用していますが、ご覧のように差別的意図はありません。