第二節 出航
船長室に入るなり、どっと疲れが出た。
「はぁ……」
自然とため息も大きくなる。なんか、眩暈もする。やっぱり、お姫様を預かったのは失敗だったかも。
よくよく考えてみればわかることだけど、騎士の連中は基本的に陸戦しか知らない。海戦どころか船についても何も知らない。右舷と左舷の違いすらわからない。そのうえ、ずぶの素人の癖に言うことだけはいっちょまえだなんて、新米水夫よりタチが悪い。
あたしとしたことが百万に惑わされたか。
「はーあ……」
南方洋の「狂ったウサギ」と恐れられた父――アウグゼ・ヒューゲリェンの名を汚した、かな?
いやいやいやいやいやいや! あんな父親の名前なんかどうでもいいし! 貴族じゃあるまいし、家名の名誉のって威張れる稼業じゃないっての!
ともあれ、先が思いやられる。
「どっこい――」
座ろうとした瞬間。
「あの、船長」
「わひゃあ!」
不気味な声があたしを呼んだ。
水棲馬の吐息みたいなおぞましさとネズミが樽を囓るか細さを足して二で割ったうえに、船底奥深くにしまい込んだような小さくて気味の悪い声。
ただ、そいつの正体が船幽霊じゃないことだけはあたしも知っている。
「脅かさないでよ、フォルシ」
「すみません、船長」
蝋人形よりも生気のない顔をしたやせっぽちの中年男――航海長のフォルシ・キペーランだ。
「いつからそこにいたわけ?」
あたしと同じ北方人だから肌が白いのはしょうがないにしても、死体や幽霊よりは存在感を出して貰わないと、その、何て言うか、困る。
「船長より、先に、居りましたです。はい」
ぜんぜん、まったく、これっぽっちも、こいつがいるのに気づかなかった。
「ですので、そのように、可愛らしい声で、驚かれなくとも」
「うるさい、黙れ」
「はい、船長」
そんな自己主張はいらんいらん。くそ。くだらないこと言うくらいなら、もっと、こう、存在感を示すのに努力してもらいたいところ。
さっき乗って来たお姫様たちを除けば、船員はみんな父の代からの連中だけど、なんでこんなおかしな奴らばっかりなわけ?
沈黙。
甲板の話し声やカモメの鳴き声まで聞こえるほどの、沈黙。
本当に沈黙が金ならここは黄金郷かってくらいの、沈黙。
「……いいから話して、フォルシ」
「はい、船長」
あたしの「黙れ」を律儀に守るのはこいつくらいだから忘れてた。っていうか、本当にひたすら黙るか、普通。ほんとにこの船の奴らはどいつもこいつも。
「先程、南方組合から、書簡が、届きまして」
「内容は?」
南方組合こと南方洋商業組合。温暖な海に小さな島々が点在する南方洋には昔っから大きな国がない。だけど、東方帝国も西方同盟もデカイ顔できないのは、所詮あいつらが陸の連中だから。海と船に財産と生命を賭ける南方商人の敵じゃないってわけ。
陸の国ほど一枚岩じゃないけど、商船だろうが海賊だろうが、一応は頼ることにしてるのが南方組合。で、あたしたちも奴らから情報を買ってる。そこそこな金額で。
貴族や農民あたりにはわかんないだろうけど、正確的確な情報は値千金なの。
「焔羊節二日青曜日、クレンヘルゲルの、ロインデルト港から、聖印の旗を掲げた、商船が東へ、出港した、そうです。はい」
「二週間前、か」
おそらく、っていうか、間違いなくそれは巡礼軍の兵站――補給が目的なんでしょうね。時期が時期だし、馬鹿正直に聖印だなんて神聖同盟らしいっちゃらしい。
「ねぇ、フォルシ?」
「はい、船長」
エルヌコンス領内に入って初めての補給船。これはツバつけとく価値ありあり。
「それ、ペーヌシャント沖で捉えられる?」
西方同盟アンプロモージ王国の王都ペーヌシャント。航路から考えるに、そこが兵站の中継地だろうから、目と鼻の先で掠奪してやれば、敵の補給の動きは今後確実に、鈍る。
「明後日の、卓越風を掴まえて、飛べば、できますです。はい」
時間的な余裕はない、か。
決断は、今。
「……今から出航、急いで」
「はい、船長」
って命令しても、フォルシ・キペーランは自分の仕事しかしない。全員に出港準備させるにはあいつに命令しないと。こういうのは全部まとめて掌帆長の仕事だし。
「ベリスカージ!」
部屋の外にも聞こえるように声を張り上げる。
「今すぐ出航! ぐずぐずしない!」
※表記を修正しました。