第一節 乗船
素早い影に気づいて見上げると、カモメがまばゆい青空を舞っている。
思えば、故郷――クロンヌヴィル侯領は内陸にあるから、カモメの鳴き声というのも初めて聴いた。どことなく、ネコさんっぽいなって思う。もしかしたら、ウミネコと混同しているのかも知れない。間違いだと恥ずかしいから黙っておこう。
私たちは今朝、エルヌコンス南東部、南方洋に面した港町クトリヨンに入った。クトリヨンは国内最大の貿易港であり、戦線からも遠く、景気が良いらしい。南方洋沿岸特有の温暖な気候も相まって晴れやかな賑わいを感じる。埠頭や桟橋には各国の商船が停泊し、人足たちは船荷の積み卸しに余念がない。
「プラニエ様、あちらです」
老齢の侍従ソワーヴ・モーヌ・ルバーベルが厳かに告げる。荷運びや船乗りの大声に負けず、私の耳にしっかり届くのはさすがだと思う。かつて、父と共に戦った豪傑の逸話は幼い頃から聞いている。
「あちらに見えるのが三月のウサギ号にございます」
爺や――ソワーヴが示したのは桟橋の先、三本檣の立派な帆船。ヴァンサン平野で見かけた空飛ぶ船。
今日は空ではなく海に浮かんでいる。例のウサギさんの海賊旗も掲げていない。
「ほほう! 三本の檣に浅い吃水。砲列は二列。船体はキャラックよりもスマート――ガレオンってやつか。船首楼も船尾楼も小ぶりで、可愛らしいお上品な淑女ですな」
陽気な声を挙げたのは騎士ルードロン・レスト・ミエードガール。連れてきた家臣団の中では一番格上で腕も立つ。あと、思いの外、博識のようだ。船にまで詳しいとは思わなかった。いや、だからこそ父に選ばれたのか。
「うむ……」
船についても淑女の評価についても詳しくないのもあって曖昧に返事してしまった。せめて威厳を保とうと古風に応じてみた。
ヴァンサン平野での初陣の記憶が蘇る。誇らしげに名乗ることもできず、敵に敵として認められなかった屈辱。
これからは努めて騎士らしく振る舞わねばならない。
「私掠船、三月のウサギ号が船長殿に申し上げる!」
海のないクロンヌヴィル侯領で育った私は乗船の儀礼なんて知らない。けれど、武人として騎士として相手の領地に入れてもらうわけだから、城塞に開門を願うのとだいたい同じでいいだろう。
「余は、万神の加護厚き偉大なるエルヌコンス王の忠臣クロンヌヴィル侯爵ジュリアル・ダルタン・ランサミュラン=ブリュシモールが娘!」
あの日名乗ることのできなかった数百年の歴史を持つ武門の家名。私の肩にはまだまだ重いけど、何としても背負わなければならない。
「プラニエ・ファヌー・ランサミュラン=ブリュシモールと申す!」
戦場でなければ名乗れる。それもまた情けない。だけど、まずは一歩。今日この場所から始めよう。
「クロンヌヴィル侯の命により罷り越した! 我が一党の貴船への乗船をお頼み致す!」
船員だけでなく、港の荷運びたちの視線までも引きつけている。場違いなのかも知れないけど、私たちが騎士であることはどこに行ったって変わらないはず。自信を持って続けなければ。
恥ずかしいだなんて思っちゃいけない。これっぽっちも思ってないったら!
頬が赤くなるのを自覚した頃、あの日見かけた女船長を船尾楼甲板に見つけた。大きな眼鏡が日の光を反射して表情は窺い知れない。
確か、名は北方風の――リツカ・ヒューゲリェン。
「ご返答や如何に!」
彼女の体には明らかに大きい外套を肩に羽織り、腕を組んでこちらを見下ろしている。ヴァンサン平野で大胆な戦法を見せつけた女海賊はどんな声をしてるのだろう?
「うるさい、馬鹿」
呆れた声でそう言われてしまった。
突然の、思わぬ、素っ気ない罵倒に上手く反応できない。でも、いきなり馬鹿は酷いと思う。
「軍艦じゃないんだから、がたがた言ってないで早く乗れば?」
あ、いや、確かにそれはそうなんだけど。彼女は海賊かも知れないけど、私は騎士なわけで。これは騎士として当然の礼節で。だいたい初対面の相手にそういう態度ってどうなわけ?
うーん。
「では、失礼する!」
少し悩んだけど、我が道を貫くことにした。相手がどんな態度を取ろうと関係ない。
騎士の象徴たる金の拍車を鳴らしながら渡り板を進む。ちょっとわざとらしいかな、って思うけど、荒くれ者の海賊たちに馬鹿にされたくないし。
そう、彼女たちと違って私たちは誇り高き騎士――
「あ、鎧兜は全部置いてきなさい」
「え?」
思わず地声で聞き返してしまった。
「そんなもん、何の役にも立たないんだから」
太陽は東から昇る、みたいな当然のことのように告げるヒューゲリェン船長。
「な、何を言う!」
私より早く反論したのは同乗する家来のひとり、ヴァンサン平野でも一緒だったリック・ラビネーゲ・ルバーベルだった。ちなみに、彼はソワーヴの孫にあたる。
「この船の主とはいえ、我ら騎士の誇る武具にまでとやかく言われる筋合いはないぞ!」
まったくもってその通りだ。
武具というのは先祖から受け継いだり、主君から下賜されたりした武勇の象徴。単なる道具なんかじゃない。リックの言う通り、私たち騎士の誇りだ。
私やリックだけでなく、ルードロン含む十人の騎士が女船長を睨み付ける。
「馬鹿」
ぼそりとそれだけ言うと船長は船室に引っ込んでしまった。
「お姫様や騎士様にゃあお解りいただけやせんか」
話を引き継いだのは隻眼の大男だった。態度を見るにおそらく、彼が船長の右腕なのだろう。
「重い鎧なんぞ着て海に落ちれば死んじまう。お嬢はそう仰せでさぁ」
まったくもってその通りだ。
言われてみれば理にかなっている。私たちは海の上や空の上で戦うことに慣れていない。ここは彼らに従うのが合理的ではある。でも、だからといって、武具は騎士の誇り。
気合い入れて来たのに、どうにも調子が狂う。
従うべきか、否か。
結局、私はヒューゲリェン船長に従うことにした。私やリックよりだいぶ年嵩で博識博学のルードロンも、口には出さないまでも不満そうな貌をしていた。
そんな顔しないでよ。
私だって不満いっぱいだもん。