終わりへと歩き出すその前に
この物語はフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。
高校生というものは、比較的体力もあり、行動力もある。知性もそれなりにあるといっても過言ではないだろう。
『若い』というのは、一種の武器だ。
論理より直感、努力より才覚で物事を押し切る事が多く、完成された大人たちに比べて、驚くべき結果をだす事も少なくない。
また成人に比べて、無駄ともいえる程に物事に対して傾倒する集中力もある。
勉学は日本において義務教育が課せられているので置いておくとして、音楽、スポーツ、武道、ゲーム、現代の日本に於いてはやや娯楽の色が強いが、何かしら一つに触れ、興味を持つことは平和な国で生まれた若者の生活そのものだ。
しかし、その中で才能を見出し、開花させるのは一握りしかいない。
音楽の才能を持つものは毎週テレビで歌い、スポーツの才能を持つものは毎週テレビでボールを蹴り、武道の才能を持つものは毎週とは言わないが定期的にテレビで相手を殴り、ゲームの才能を持つものは毎週ばかりか毎日テレビの電源を入れる。
平和な、しかし当然な生活。
ただ、考えてみて欲しい。もし、この『平和で当然の生活』が根底から覆されたら?
なにか強大なもので今、「退屈である事が幸せだったー」なんて昨今の小説で使い古されたフレーズを、今まさに僕が考えているこの世界がなくなってしまうとしたら?
そんなスポーツやサブカルチャーがまったく役に立たない、純粋な『生存能力』が問われる、テレビの奥でしか見聞きできないような世界が降りかかってきたとしたら?
ありえない。
日本という国は相当恵まれている。まず、水がある。道端に置いてあって飲める。しかも無料。これだけで世界の3分の1以上の国より恵まれている。
経済大国アメリカでさえ水道水は基本的に飲まない。
飲むのは店で販売しているミネラルウォーター類だ。
さらに日本はインフラが整っているばかりでなく、10m歩けば自販機がある。30m歩けば飲食店がある。100m歩けばアパレルショップが、1km圏内には家電量販店、娯楽施設まである。
田舎となれば少し話しが変わってくるが、要は『望んだものが基本的に手に入る』ということだ。付け加えて言えば、コンピュータネットワークが世界で一番発展しているため、ネット通販などを利用すれば、更に敷居が下がり『死ににくさ』に拍車が係る。
別の視点で見てみる。
日本人であるというのも世界的に見てかなりのアドバンテージである。性格がいいとか思いやりがあるとか勤勉であるとかも確かにあるだろうが、圧倒的で日本という国に住む人を示すパラメータは『識字率』ほかない。
日本人にとっては『識字率』というより『読み書き』と言ったほうが分かりやすいかもしれない。ともかくこの『識字率』だが、日本に於いて異常に高いと思えるシュチュエーションを例に挙げてみる。
『駅前でホームレスが服を着て、甘酒を片手に新聞を読んでいる』
この光景は世界のおよそ7割の国で見ることが出来ない。日本人の生活水準を分類して、およそ最下層である浮浪者、ホームレスに字が分かる。それだけでも異常なのに、基本的に物乞いをしない。なぜなら、字が分かり自分のいる立場も把握でき断片的に世の中の流れも分かり「日雇い労働者募集!日当8千円!」のチラシも読む事が出来る。
『生きる』という大前提が諸外国のように、手探りではなくすでに答えが出ている。
形振り構わず生きようとすれば、おそらく世界でもっとも死ににくいであろうことは、日本の識字率は98%以上という数値をみても不思議ではないだろう。
ついでに、アメリカやヨーロッパ諸国なども識字率は90%を越えるが、日本のように学校で1人や2人外国人がいれば珍しい半鎖国的な国ではなく、移民など多種多様の人物で構成されているため、実際には「今住んでいる国の言葉や書面を理解できるか?」となると急激に下がって50%ほどになり、言葉を理解できない、字を理解できない、『字を理解する』という言場すら読めない、字を学ぶ教育機関さえ満足になく、スラム街に行けば字も満足に覚えないまま『アーメン』なんてザラだ。
またアフリカ諸国となるとまず2人に1人が普通に字を理解できない。
いや、理解する必要がない。
字よりも学ぶべき事は、その日を凌ぐ生活の知恵、宗教上の掟を一刻も早く理解する事と、7.62mmの弾丸を素早くマガジンに込め、碌に整備されていないAK47自動小銃の模造品の扱いに慣れて、宗教戦争に駆り出されることである。
そしてそれらの武器の価格が日本の相場で5000円以下。AK47の装弾数は30発で破壊力の高い7.62mm弾を使用しており、仮定ではあるが2発で人を殺害できるとすると、15人の前夜祭|(プロテスタントに於ける通夜の意)を準備しなければならない。
単純に計算してアフリカ諸国の『命の価値』は333円。
実際には撃ちもらしや制圧射撃(足止め、相手を逃がさないようにする威圧射撃)や、弾薬の値段も考慮して、1人1000円あたりだろう。
日本で少し良質な定食屋にでも入れば30分後には支払う料金で、ソフトドリンクなど頼めばもちろん足りなくなる。
それほど、命は軽い。
もし、発展途上国で巷を騒がせている『ケータイ小説』が配信されたとして、感動し泣く人がどれほどいるだろうか?|(日本ではこんなくだらない事で泣けるほど平和なのかと泣く事はあるかもしれない)
彼らは自分の国、街、村で世界が完結しており、比較対象がない。教えられない。字が読めない。信じられるのは自分の親が熱心に神にお祈りする『宗教』のみ。国の上層部もヘタに字を教えることなく国民の可能性を削いでゆく。
あるものは世界的なミュージシャンになれたかもしれない。あるいはプロサッカー選手になって世界を飛び回っていたかもしれない。
『努力する者に神は微笑む』等と言われてはいるが、日本ではギターを学びたければ1000円前後のギター教本を片手に努力すればいい。だが彼らは、『おおよそ全世界の半分以上の人間』は、字を知らないが故に、努力すら出来ない。努力のやり方を知らない。
出来るのはなんだかよく分からない『えらい人』の言う事を聞く事。『えらい人』が『えらくない人』になったら、5000円で買った玩具で『処理』する事である。
さすがに彼らの信仰する『神とやら』も、殺人以外で微笑むことが無くなって、今もアフリカの神は笑いっぱなしの生活を送っている事だろう。
そして恐ろしい事に「いや可笑しいだろ?」と思う方がマイノリティである事、発展途上国では当然(或いはしょうがない)の事として受け入れている事だ。
日本と比べてどちらが『恵まれているか?』など、飛行機と泥水を比べているぐらい滑稽だ。
そもそも前提が違う。思想が違う。感情が違う。国が、病気が、衛生が、建築物が、法律が、文化が、声が、肌の色が。そして戦場が違う。
彼らは未だに旧石器時代を引き伸ばしたかのような戦いを続けている。自分たちが信じているものを壊されないように必死に戦っている。
政治なんか関係ない。領土とかそんなものではない。そして自分たちは『おそらく人間』であると漠然に思いながら生活している。
それに比べて先進国に住む僕らは、法事なんて面倒なものだし、冠婚葬祭だって「何で金払わなくちゃならねーんだよ」とか思いつつ、ニコニコしながらおめでとう!と言い、ゲームでレアアイテムが出ない事に憤慨し、パソコンで無料AVを見ながら自慰を繰り返し、仕事で上司に叱られれば98%殺されることの無い国で「死のう」と呟き、さらに失笑を買うのがそこまで言っておいて結局死なない人間が大多数という、ずうずうしくも『命の価値』を高騰させすぎた現代の日本人だ。
今更、命を大事になどといわれても、事故か自殺か病死しか死ぬ手段がない先進国、特に日本に於いて
「そうだね、信号では右見て左見て、もう一度右を見てから渡ろう。車を運転する時も必ず法定速度を守るし、1kmでもオーバーしたら僕はその日から車を降りるよ、免許証を破り去って車はその日の内にスクラップ工場に持って行こう。飛行機や電車なんてとんでもない! 他人に命を預けるなんて恐ろしい事なんて出来やしない。それをするくらいなら部屋から出ないよ! 食事にも気をつけよう。ファーストフードやコンビニ等の食品は身体に悪いから食べないでおこう。毎日、無農薬野菜やちゃんと管理された安心のお肉を食べる事にするよ。ゲームも娯楽が無いと暇になっちゃうから、禁止とまではいかないけど、1日1時間で15分毎に遠くの景色を見ることにするよ! これなら目に負担は掛からないよね? 身体に悪いから寝る時間も気をつけよう。夜9時に寝て、朝6時に起きるんだ。うん、健康的だね! 君の言うとおり命を大事にすることにするよ!」
なんて『無理』である。
不憫な国には、支援すべき! という声は今も昔も変わらず存在した。
ただ、はっきりいって先進国にとっては『どうでもいい』話で、本心としてもいきなり言われても困るし、対岸の火事でもある。
国家として主張するなら、無為に介入すべきでもないし、むしろそうまで収拾不可能になったのは政府(機能しているかは別として)の指導が間違っているだけの話で、むしろ有能な人物や物資を送り、国を再生するとして
困るのは現地人の人でしょ? 半植民地化されてもいいの? 無論、助けるのは訳ないけど無料では支援しないよ? 当然、資源はごっそり頂くし、自分たちに都合のいいように法整備もするし、場合によっては宗教も変えるかもね。
それでもいいの?
それってもう『君たちの国』じゃあないよね。
だから僕たち寄付しか出来ないよ。金だけは善意の人や国から少し出してあげるから自分達で頑張ってね。
ゴメンね。
というのが先進国の所謂『都合』である。つまり、簡単に言えば、各々正しいと思った道を行き、正解だった国が先進国であり、間違った国が発展途上国だっただけの話で、テストの問題が分からないと嘆いている人に、「答えを教えてあげてもいいけど、自分の為にはならないよ?」言っているのと同じである。
しかも、テストのようにYES、NOで分けられるのなら、まだやりようがあるが答えは複数、しかも膨大な正解数がある。
それを「これが正解だ」「いや違うね」と未だに戦争という手段で戦い続けているのだから、これでは助けようが無い。
もうそういう段階ではないのだ。完全に国家が消滅するか、自力で復興するしか手が残されていない。武力や政治|(資源を巡っての介入は存在するが、言ってしまえば商売の範疇から出ない)などの介入は途上国の上層部は考えてやりくりしているのだろうが、恐らく国家の運営に携わる人は日本の学校の1クラス分にしかならないだろう。
それほど、切実で、無知であるのだ。
さて、字や他の国の事柄を長々とトリヴィアしたわけだが、結局のところ最初の問題に戻る。「もし、この『平和で当然の生活』が根底から覆されたら?」である。
識字率うんぬんというのは、貧富の差を再確認して欲しくて、言ったわけじゃない。
現代においてのアフリカ諸国レベルの識字率を、日本では文献によれば14世紀頃には既に習得していて|(正確な調査は明治時代に行われたものがあり、男89%女39%という結果。男尊女卑が当然の時代にほぼ仕事でしか使用しない字を、およそ女性の4割は理解していて、しかし字が必要な職を女性が選べた時代ではなかった、また職というのも現代みたく第三次産業、サービス業なんてあってないようなもので、もちろん主流は農業などの第一次産業が主流だった)、今日における日本の識字率の高さは、それに加えて江戸時代で培った土壌のおかげであり、文化は開国以来、急激発展してきた。
ここで注目して欲しいのが、つまりは字という物が『当たり前』になってから、最低でも200年は立っていることだ。
つまり、知ろうとすれば量や質には多少目を瞑っても『情報』は手に入るし、嘘か真か分からなくても後世に伝えることも出来る。
それが単純に人生50年として、4世代も正確に伝えることが出来る。そして量はより膨大に、質は輝くほどに良質になっていく。そこが他の国と決定的に違う差だ。
そんな国が、情報が出揃えば、後は金儲けに走るか、戦争を仕掛けて資源を奪うかの二択になり、日本は1945年を最後に、戦争を放棄した。刀を捨てる代りに、平和を手にした。
諸外国でニヤニヤされながら頭を叩かれても、「V-J Day!」(ヴィクトリーインジャパンデー)など言われても、笑顔を絶やさず、闘争は捨て、経済会で懸命に走りぬいてきた。その結果が現在の経済大国日本である。
わずか半世紀程、戦争を放棄した日本は確かに平和になった。もう殆ど戦争を知る者はいない。九段下の英霊の元へ酒を持って遊びに行ったのか、普通に地獄へ落ちたのかは分からない。
されど半世紀、戦争を捨てた国が、その世界最強といわれた戦艦や軍隊を次々となぎ倒し、「アジアの盟主」と言われた国が1945年にその牙を自ら粉々に砕き割り、それまで「お国のため」と命を散らしていった兵士に涙を浮かべて唾を吐きかける。
しかし、国民の為に資源も満足にない、他国に頼るしかない、莫大な借りをこれから返し続けなければならないと、ゲームでいう『詰んだ』状態のこの国の上層部は、拳銃を咥え引き金を絞るだけで、この苦悩から開放されるという、誘惑に何とか耐えてきた。
その判断は間違ってはいない。ただ、戦争を、戦うという事を忘れるのには十分だったという話だ。
そして今や手にするものは刀や銃ではなく、鉛筆やパソコンに変え、時代は変わっていく。
今では「FPS」|(ファーストパーソンシューティング、一人称視点射撃ゲーム)「TPS」|(サードパーソンシューティング、三人称視点射撃ゲーム)などの戦争ゲームで、「LV45、大佐になった!」と喜ぶ者や、口癖のように「死ねっ死ねっうざいんだよ」と呟きながらゲーム画面でアサルトライフルを連射する若者も珍しいものではなくなった。
日本は世界でも有数のゲーム大国でもあり、無論、ゲームも字が分からなければ理解するのにも時間がかかる。
つまり、日本にある殆どの施設、娯楽、仕事は、言うまでもなく字が大前提であり、前提として持ち上がるのもバカバカしいものがあると思うのは現代人の感覚として間違っていない。
字を学ばない事で相対的に可能性という物を削ぐという事は前述したが、それを踏まえて言えば今の日本は可能性の塊である。
国家としての成長は先進国諸国全体にいえる事で、軒並み頭打ち感があるのは否めないが、人間個人としての伸びしろ、成長性、将来性、経済大国としての国際的信用はやはり不況といわれる日本でも他の先進国に比べて頭1つ抜き出ている。
なにしろ、「勉強できない」なんて事がありえないのだ。調べれば幾らだって情報は転がっているし、自ら望まなくても、「宿題」というありがた迷惑なものも学校で完備している。
よく学校長や偉そうな人が「可能性は無限です!」等と講釈を垂れるが、日本では周りの人間が自分と近いスタートラインに立っていて、義務教育という日本人なら誰もが受けるコースを延々と9年間、最高学府まで行けば16年も皆が基本的に付かず離れずの距離を走っていて気付かないが、ある日「あれ? 皆で足並み揃える必要ないんじゃね?」と、気付くものがいる。
「可能性は無限」という言葉に触発されたか、はたまた自然に気が付いたかは分からないが、高校や大学などにも同じコース、殆ど変わらない速度で走っているのにも関わらず、何故かもう背中がぼやけている人が少ないが確実に存在する。
それを才能というのなら何と素晴らしいことであるか。そしてその背中を見つめたままボーっとしている人間が存在する事が大多数である事が、何と残念なことであるか。
ある意味、足並みを揃えて皆で渡ろう! という『平和の弊害』なのかもしれない。
競争より協調。
スタートラインが生まれたときから天と地ほどの差があり、一生掛かっても覆されないような壁が2枚、3枚ある事が、さほど珍しくない日本以外の国はとにかく走るしかない。
一歩踏み出せば即死亡に繋がる細い幻のような道を、後ろも見ずに走っていく。
いや、走るしかない。
止まれば死ぬしかない。
道を踏み外しても死ぬしかない。
才能を伸ばすなんて持っての外、前しか向けず、「生きるか死ぬか」を地で行く国と、「みんなからちょっと変な目で見られるけど走ってもいいのかな~?」などと心配する日本では、どちらが『生きる事が出来るか』もう一目瞭然だろう。
というわけで『もし、この『平和で当然の生活』が根底から覆されたら?』の答えは
『論じるまでも無い質問。この平和な国で平和ボケはあっても、これまで培った歴史がそう簡単に吹き飛ぶわけが無い。他の戦争を仕掛けそうなアメリカ、中国、ロシア等なら質問の意図、意味する所は理解できるが、日本で、しかも高校生の僕に言っても意味がない。ついでにオチもない』だ。
現実逃避を10秒ほどした所で、僕は再び、2階の教室の窓から校庭の様子を確認する事にした。
やはり現実だった。
とにかく、なんで平和な日本で? なんでこんな所で? なんで僕たちの目の前で? とかいろいろ考えながらも、僕は机に向って吐いた。