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第1章|黒いログが残った

境界の空は、いつも薄い。

雲があるわけでもなく、晴れているわけでもない。

灰色の膜が世界を包み込み、光だけが“許可された分”だけ落ちてくる。


瓦礫の地平線の向こうに、旧都市の骨格が見える。

崩れた高層棟、半分だけ残った橋脚、ねじ曲がった道路標識。

そこにはかつての生活の名残が、土と煤の層に埋もれながら残っていた。


――それでも、人は生きている。


「……風、止まってるな」


先頭を歩くユウが、低く呟いた。

足元の砂埃が舞わない。音もない。

耳に入るのは、装備の擦れる微かな音と、自分の呼吸だけだった。


ユウの背中には、回収者の多機能ツールを詰めたバッグがある。

軽装に見えるが、必要なものだけを残した結果の“軽さ”だ。

生き残るための軽さ。拾うための軽さ。


「嫌な空気です」


少し後ろ、シオンが答える。

彼の声は、冷えた金属のように静かだった。


観測監査官――。

それは本来、境界に立つべき役職ではない。

だが彼は、境界に立ってしまった。

救うと決めた瞬間に、選別してしまう矛盾を抱えながら。


「境界の静けさって、だいたい二択だよね」


三人の列の真ん中、アルトが手元端末を軽く叩く。

視線は瓦礫に向けたまま、淡々と続けた。


「敵がいないか、敵が“見えてない”か」


それは冗談の形をした、経験則だった。


――見えてない、が一番怖い。


ユウが前を向いたまま、肩だけで笑う。


「じゃあ今日は後者だな」


その言葉が終わるより早く、ノイズが走った。


「……ッ」


アルトの端末が、一瞬だけ黒く滲んだ。

映像が崩れ、数字がひしゃげ、画面の端が“裂ける”ように乱れる。


だが次の瞬間には、何事もなかったように戻る。


「今の……」


シオンが足を止める。

ユウも止まらない。止まること自体が危険だからだ。


アルトは眉を寄せて端末を見直す。

ログには、記録が残っていない。


「……通信ノイズ。範囲外の干渉かな」


口ではそう言った。

だが彼の目は、そう信じていない。


この世界でノイズは、“ただのノイズ”ではない。


管理機構《GENESIS》の監視網は、まだ生きている。

崩壊後の世界を再建したのは、人間ではなく管理だった。

人が立ち直るより先に、数字が立ち直った。


評価値スコア

登録。配給。治安。未来予測。


それらは境界の外にも、薄く伸びている。

いつでも回収できるように。

いつでも削除できるように。


だから、ノイズは怖い。


「……やっぱり後者っぽいな」


アルトは小さく息を吐いた。


その時――。


「足音」


ユウの一言で、全員の神経が切り替わる。


遠い。

瓦礫の谷の向こう、崩れた高速道路の下。

規則正しい金属音が、こちらに向かって増えていく。


「人間じゃない。……ドローン系」


シオンが視線を上げる。


ユウは、振り返らずに言った。


「救助対象の位置、確認できるか」


アルトが端末を操作する。

本来なら“確認できない”情報だ。境界の外側の命は、登録されない。

救助されるはずの人間は、数字には載らない。


だから、彼らは拾う。


「……座標、出た。旧医療区画。瓦礫の奥」


アルトが指差す先に、崩れた病院の壁が見える。

看板は半分消え、文字は読めない。

だが建物だけは残っていた。


「中にいるのは――二名。心拍、弱い。……ギリだな」


シオンが頷く。


「間に合う。行きましょう」


その瞬間、ユウが足を止めた。


「……来る」


空気が変わった。


砂埃が舞っていないのに、視界の端が揺れる。

音がないのに、耳の奥がざらつく。


――何かが、世界に“引っかかっている”。


アルトは端末を握り直す。

シオンは喉の奥で息を飲む。


三人の背後で、金属音がさらに近づいた。

監視ドローンの群れ。回収の足音。


「やるしかない」


ユウが短く言う。


この瞬間、彼らは分かっている。


これはただの救助ではない。

これは“追跡される戦い”の始まりだ。


そして――。


まだ誰も口にしない。

この世界の差分が、近づいていることを。


旧医療区画の入口は、半分だけ生きていた。

崩れた外壁の隙間から、内部へ続く暗い通路が見える。


シオンが先に滑り込む。

足音を殺し、壁に指先を当てる。崩落の兆候を確かめる癖がついていた。


「……中は生きてる。空洞が残ってる」


ユウが続く。

その動きは無駄がない。

歩くというより、瓦礫の間の“正しい点”を踏んで進んでいる。


アルトは最後に入った。

振り返り、外の光を一瞬だけ見てから――

入口の影に戻った。


「来る。……早い」


端末の音声解析が、金属の足音の増加を示していた。


監視ドローンの群れは、視線で探すタイプじゃない。

熱、動き、微細な電磁変化。

生き物の“痕跡”を集めて確率で刺してくる。


だから、隠れるだけじゃ逃げ切れない。


「ユウ。救助対象までのルート、最短は?」


アルトが問い、ユウは迷いなく指を差した。


「ここを抜けて、落ちた階段を使う。二階の崩れが穴になってる。

真っ直ぐ行くと、壁が死んでる」


「了解」


シオンが頷き、三人は走る。


通路は狭い。

左右に倒れた医療機器、崩れた棚、粉になった書類。

それらが、靴裏で潰れて音を立てる。


だが、音を抑える余裕はない。


早くしなければ――

救助対象が死ぬ。


「……シオン。心拍の波形、もう一回」


アルトが端末を見ながら言う。

シオンは横目で確認し、静かに告げた。


「一人は、もう落ちかけてる。たぶん出血。

もう一人は……息が薄い。低体温かもしれない」


「くそ……」


アルトの声は震えていた。

管理側の人間だった頃は、ここまで“個の死”に反応しなかった。

数字になっていない命は、判断の対象にならない。

そういう世界で生きてきたからだ。


だけど今、アルトはここにいる。


数字の外側で、生存を残すために。


――その時。


「止まれ」


ユウが片手を上げた。


三人の足が同時に止まる。

呼吸も止める。


耳に入ってきたのは、外の“金属音”ではない。


内部にいる。

もっと近い。

同じ金属――だが、軽い。


「内部ドローン…?」


アルトが小さく呟く。


「旧病院の残骸だ。医療用の自律機だろ」


ユウが低く答えた。


医療用ドローンは本来、治療と救助のために作られていた。

だが崩壊後、電源と命令を失い、ただ“動くもの”になった。

安全装置が壊れれば、それは救助ではなく害になる。


シオンが壁の影から覗く。


暗闇の先。

天井の梁にぶら下がるように、白い筐体が揺れていた。


ライトが死んでいる。

だが、目のようなセンサーだけが赤く点滅している。


「……動くものを検知してる」


アルトが囁く。


救助対象へ行くには、そこを通らなければならない。


「斬るか?」


ユウが言い、ブレードを握る。


「音が出る。外の監視に拾われる可能性が上がる」


シオンが冷静に返した。


一瞬、沈黙。


そしてユウは、最短の答えを選んだ。


「じゃあ――拾うか」


アルトが目を細める。


「拾うって、何を……」


「壊れてるなら、壊れてるままじゃ邪魔だ。

使える形にする」


ユウはそう言って、足元の瓦礫を指で弾いた。

小さな金属片。医療器具の破片。

そして、崩れた棚から転がり出た古いパック――

乾いた医療用カートリッジ。


「……これ、まだ残ってたのか」


ユウが手に取る。


その瞬間だった。


空気が、裂ける。


“拾う”という行為が、ただの動作じゃなくなる。


ユウの指先が触れたカートリッジが、

まるで最初からそこにあったかのように“正しい状態”で掌に収まった。


おかしい。


この病院は何十年も放置されている。

まともな医療カートリッジが残っているはずがない。

残っていたとしても、使えるはずがない。


なのに――


「……動いた」


シオンが息を飲む。


医療ドローンが、ユウの手元に反応した。


赤いセンサーが揺らぎ、

筐体がわずかに下を向く。


まるで――


“命令を待っている”みたいに。


ユウは思考しない。

考えた瞬間に、手が遅れる。

だから彼は、動く。


カートリッジを投げる。

壁の向こうへ。


――カンッ。


乾いた音。


医療ドローンが、音へ吸い寄せられるように旋回した。

そして赤いセンサーが“獲物”を追う。


「今だ」


三人は走った。


通路を抜け、崩れた階段へ。

足元の段差が半分壊れている。


ユウが先に飛び降りる。

シオンが続く。

アルトが最後――


その瞬間、外で爆ぜる音がした。


「ッ!」


監視ドローンが、入口を見つけた。


遅い。

侵入がバレた。


アルトの端末が、また黒く滲む。

数字が歪む。ログが裂ける。


――今度は、ただのノイズじゃない。


「……アルト、来るぞ!」


ユウが叫ぶ。


アルトは歯を食いしばり、端末を抱え込んだ。


“視線”が来る。


監視の計算が、ここに刺さる。


その瞬間、アルトの頭の奥で、何かが折れた。


正しさが成立する前に――

正しさそのものが崩れる。


アルトの喉が震え、短く言葉が漏れる。


「……Δ:評価崩壊ゼロ・ジャッジ


叫びではない。

宣言でもない。

ただ、“現象を呼ぶ”みたいな言い方だった。


次の瞬間。


監視ドローンの照準が、止まった。


止まったのではない。

“当てる判断に至れなくなった”。


数値が飛ぶ。

再演算が暴走する。

監視網が、無限ループに落ちる。


……だが同時に。


アルトの視界も滲んだ。


「……っ、やばい……」


足元が揺れる。

何が正しいかが分からない。

右か左かすら確信できない。


「アルト!」


シオンが腕を掴んだ。


その瞬間、また世界が歪む。


今度は“守る未来”が勝手に成立した。


シオンの胸の奥が冷える。

自分の意思じゃない。

だが確かに、線が引かれる感覚があった。


「……Δ:希望収束セイヴ・ライン


短い声。


次の瞬間、天井が崩れた。


――いや、崩れるはずだった。


落ちてくる瓦礫が、ほんの数十センチだけ軌道を変えた。

アルトの頭上を外して落ちる。

二人の間に壁ができるように砕ける。


“助かる未来”だけが残った。


だがシオンは知っている。


救える未来が残ったということは――

救えない未来も、同時に確定したということだ。


胸の奥に、ひどく重い何かが落ちる。


「……行くぞ」


ユウが前を向く。


三人は走った。


崩れた二階の穴を抜ける。

救助対象は、すぐそこだ。


そして――

その背後には、世界の裂け目が確かに追ってきていた。


救助対象は、そこにいた。


崩れた病室。

壁の半分が落ちて天井の配管がむき出しになり、

白いベッドだけが奇跡みたいに形を残していた。


その脇に、二人。


一人は大人の男。

腹を押さえてうずくまり、血が指の隙間から黒く滲んでいる。

もう一人は、十代に見える少年。

肩で浅く息をして、身体は冷え切っていた。


「……生きてる」


シオンが言った瞬間、

アルトが端末を握り直して近づく。


「心拍、まだある……でも限界だ。救助キット――」


ユウが黙ってバッグを開ける。

だが、そこにあるべき応急処置パックが見当たらない。


「……ない?」


アルトの声が硬くなる。


ユウは答えない。

代わりに、ほんの一瞬だけ視線を落とした。


足元の瓦礫。

崩れた棚の影。

使い物にならないはずの場所。


――そこに、見慣れた形が“ある”。


救助パック。


新品ではない。

砂と煤で汚れ、角が潰れ、外装も剥げている。

だが、封が切られていない。

使える。


ユウは何も言わず、それを拾った。


アルトの眉が動く。


「……なにそれ。さっきなかったよな」


ユウは肩で息をしながら、短く返した。


「拾った」


「拾ったって……」


説明する時間はない。


シオンが少年の首元に指を当てる。

脈は弱い。

だが、まだそこにある。


「止血と保温を同時に。急いで」


ユウが男に止血剤を当て、

アルトが包帯を引き、

シオンが少年に保温パックを押し当てる。


三人の手が噛み合う。


誰も指示していないのに、

“救える手順”だけが自然に成立していた。


――怖いほどに。


その時、外が震えた。


ズン、と空気の底が鳴る。

金属音が、入口から病室へ向かって一直線に近づいてくる。


「……追いつかれる」


アルトが端末を見る。

監視ドローンは再演算ループから復帰しつつあった。

システム側が“再同期”を開始している。


GENESISは賢い。

世界の正しさは、すぐに戻ってくる。


「時間、ない」


シオンの声は冷たい。

冷たいほど、焦りを抑え込んでいる。


ユウは救助対象二人を確認し、

すぐに背中のストラップを外して持ち上げた。


「運ぶ」


男は意識が薄い。

少年はほぼ無反応。


この二人を運びながら逃げるには、

戦う余裕などない。


「ユウ、出口は?」


アルトが問う。


ユウは迷わず言った。


「……ない」


その一言が、病室の温度を下げた。


「は?」


アルトが息を飲む。


「入口から来る。戻れば挟まれる。

上は崩落で塞がった。

横は壁が死んでる」


出口がない。


逃げ場がない。


境界で一番最悪の形だ。


シオンが、喉を鳴らすように息を吐いた。


「救える未来が……」


彼の目が揺れる。

無数の未来が分岐して、そのほとんどが折れていく感覚。

救助対象を連れて逃げる未来が、見えなくなる。


――救えない未来が確定する。


それが、恐怖だった。


「……」


ユウは黙って瓦礫を見た。

壁ではない。天井でもない。


床。


瓦礫の下に、黒く裂けた隙間がある。

その先は暗い。

だが、微かに風が通っている。


「……ここだ」


ユウが言った瞬間、アルトが首を振る。


「通路じゃない。崩落の穴だ。

そんなとこ、下に何があるか――」


ユウは答えない。

答えられないからだ。


彼は拾う。

拾えるなら拾う。


それしかできない。


世界の差分が“来る”感覚が、また背中を撫でた。


空気が裂ける。

音が歪む。

目の焦点が一瞬だけ合わなくなる。


ユウは息を吸い、

短く言った。


「……Δ:拾遺干渉リクレイム


叫ばない。

ただ、名前を落とすだけ。


次の瞬間――

瓦礫が、崩れた。


崩れたのに、落ち方が“都合よく”変わった。


床の隙間は広がり、

人一人が通れる穴になり、

下へ続く梯子が“たまたま”見える位置に現れた。


あり得ない。


梯子があるはずがない。

だが、そこには確かに鉄の梯子が固定されている。


まるで昔からそこが避難用の抜け道だったかのように。


「……嘘だろ」


アルトの声が掠れた。


監視ドローンの光が、病室に差し込む。

赤いレーザーの点が床を舐める。

回収命令の視線が、ここを刺す。


「降りる!」


シオンが叫ぶ。


ユウが先に穴へ滑り込み、

救助対象の男を背負ったまま梯子を降りる。


シオンが少年を抱え、続く。


アルトが最後に降りようとした瞬間――

上から金属の影が落ちてきた。


監視ドローン。


直接侵入。


「アルト!」


シオンの声が響く。

アルトが振り返った。


その視界に、ドローンの銃口。

照準。

確定した死。


アルトの思考が凍るより早く、

シオンの喉が勝手に言葉を吐いた。


「……Δ:希望収束セイヴ・ライン


次の瞬間、銃弾が逸れた。


逸れたのではない。

救える未来が残ったからだ。


銃弾はアルトの肩をかすめ、

背後の壁を撃ち抜いた。


壁が崩れ、

崩れた破片が監視ドローンの脚部を叩く。


ドローンの姿勢が一瞬だけ乱れる。


その“ほんの一瞬”で、アルトは穴に落ちた。


三人は暗い通路を走った。

息が詰まる。

肺が焼ける。

救助対象の重さが、現実の重さとして身体に乗る。


それでも走る。


走るしかない。


背後で、監視ドローンの光が揺れた。

照準が追ってくる。

だが、追いつけない。


ユウが拾った逃げ道が繋がっている。

シオンが救える未来へ収束させ続けている。

アルトの評価崩壊が、追跡の判断を遅らせている。


三つが噛み合っている。


だから――逃げられる。


だが。


通路を抜けた瞬間、

外の空気が冷たく刺さった。


瓦礫の谷の下。

廃棄された地下道路。

そこに出た。


そして、上空。


黒い点がいくつも旋回している。


監視網の目は、もう戻っている。


アルトが端末を見て、声を失った。


画面のログ欄に、見たことのない記録が残っている。


通常、Δのような現象は“記録できない”。

定義できないものは、ログに残らない。


なのに。


そこには、こう表示されていた。


――【UNDEFINED EVENT DETECTED】

――【FRAME GAP:0.12sec】

――【BLACK NOISE OUTPUT】

――【CORRELATED SUBJECTS:3】

――【PHENOMENON NAME:Δ(DELTA)】


アルトの指が震える。


「……残った……」


シオンが息を止める。


ユウは何も言わなかった。

言えることがない。


彼らは助けた。

救助対象はまだ生きている。


だが代わりに――


世界に、証拠を残してしまった。


管理が、定義してしまった。


この瞬間から、

彼らは“拾う側”ではなく、

“回収される側”になった。


そしてどこかで。


管理の中心で。


誰かが、このログを見て笑う。


――見つけた。


次の命令は、きっとひとつだ。


回収しろ。

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