銀の十字は森に眠り
森の中は、昼間でも夜のように昏い。
頭上を埋め尽くす葉の群れが、光さえ飲み込んでしまう。
私は細い獣道を踏みしめながら歩いていた。
籠の中のブラックベリーはまだ半分くらいしか溜まっていない。遠くからは宝石みたいなのに、摘もうとすると鋭い棘が指先を刺してくる。
『この籠いっぱいになるまで、帰ってくるんじゃないよ』
家を出る前、継母の唇が冷たく歪んだ。
籠を受け取る時に、一日では無理だと言ったら、その場で頬を張られた。
父はすぐ横にいたのに、何も言わなかった。いつものように、見ないふりをした。
母が死んで、家にやってきたのは、絵本に出てくるような意地の悪い継母と、その娘だった。
どこかで聞いたことのある物語の筋書き。
けれど、ガラスの靴も王子様も出てこない現実では、私は灰だらけの台所に押し込められたまま、ただ殴られて終わる。
分かっている。私は、目障りなのだ。
父にとっても。継母にとっても。義姉にとっても。
私は命じられるままに森に来る。逆らえば、また殴られる。
深い森は、どこまでも続いている。湿った土の匂いに冷たい苔。遠くで啼く鳥の声が、ときどき、赤ん坊の泣き声に聞こえて、背筋が冷たくなる。
顔を上げると、頭上の薄い光が、さっきより色を失っていて、夕方だということに気が付いた。思っていたより、長く森の中にいたらしい。
この森は、人の血を啜る化け物がいると言われている。
村人たちは、その噂を、怯えた声で、それでも少しわくわくした様子で語り合う。新月の夜には、血を吸う怪物が姿を現して、若い娘の喉を喰い破るのだと。
そんなの、子どもをおとなしくさせるための作り話だ。
そう思おうとするのに、薄闇が濃くなり、木々の影が絡みついてくると、胸の奥から冷たい何かが這い上がってくる。
私は首から下げた銀の十字架を握り締めた。
冷たく光るその銀だけが、私に与えられた、ただ一つの持ち物だ。掌にくっきり跡がつくまで握り締め、私は息を吸い込んだ。
……帰ろう。
そう決めて振り向いた時だった。
目の前の空気が、ぴんと張りつめたように変わった。さっきまで、何もなかったはずの場所に、一人の男が立っていた。
長い外套の裾が、風もないのにゆらりと揺れていた。彼の手の中ではカラスばたつき、狂ったように鳴きながら、もがいている。それを男は、躊躇いもなく喉元から噛みちぎった。
ぶつり、と肉の千切れる音がした。
血の匂いが、森の冷気に混ざって広がる。
男の唇の端から赤が零れ、白い顎を伝って滴り落ちる。それは、ブラックベリーの果汁よりも濃く、熱の色をしていた。
彼は顔を上げた。そこにあったのは、人形めいた美貌だった。
銀の髪が、闇の中でも淡く光を放っている。深い紅の瞳は、溶かしたガーネットをそのまま閉じ込めたようだ。頬にかかる髪の陰から、細く尖った耳の先が覗く。唇の間から覗く犬歯は、人間では、あり得ないほど鋭く長い。
伝え聞いてきた「吸血鬼」の特徴が、ひとつ残らず、そこに揃っていた。
私の手から籠が滑り落ちた。懸命に摘んだ実が土の上に転がっていく。
「……来ないで」
喉の奥が震えて、思ったほど大きな声にはならなかった。
それでも私は、銀の十字架を握り締めたまま、腕を突き出した。震える手の先で、十字架が小さく揺れている。
男は動かなかった。
双眸がじっとこちらに向けられている。その視線に、背筋が凍った。恐ろしくてたまらないのに、目が離せない。彼の赤い瞳が、ふっと細まった。
「……見つけた」
低く、柔らかな声だった。森の奥で水が湧くような、静かな響きで、言葉そのものより、その音の方が胸に刺さった。
「……ずっと探していたんだ……。やっと見つけた。ジルフリーダ」
「私の名前はジルよ。……ジルだけ。ジルフリーダなんて、知らない」
男は、静かに一歩近付いた。彼の腕からカラスの死骸がするりと落ち、湿った落ち葉の上を転がった。黒い羽が一度だけ、ばさりと揺れ、すぐに静まり返る。
「それ以上、近寄らないで!」
私は後ずさった。喉の奥がひゅっと縮む。
目の前にいるのは、人の血を吸う化け物だ。さっきまで生きていた鳥が、一瞬でただの死骸になった相手なのだ。怖いに決まっている。
「あなた、吸血鬼なんでしょう。この十字架は銀なのよ。これ以上近付いたら、きっと焼けるわよ」
「そうだね……。僕は吸血鬼だ……」
男は、少しだけ唇の端を上げた。笑ったのだと分かるまでに、時間がかかった。彼は言葉を続ける。
「僕の名は、ルシアン」
ルシアン。
その名前が、空気を震わせて私の耳に届いた途端、胸の奥で、何かがはじけた。
意味も理由も分からないのに、視界が滲み、涙が溢れ出した。喉の奥が焼けるように熱くなり、息がうまく吸えない。
知らないはずの名前なのに。
それなのにルシアンという音は、とても懐かしかった。
何度も何度も呼んだことがあるような。夜の中で、夢の中で、炎の前で、泣きながら叫んだことがあるような。そんな響きだった。ルシアンと名乗った彼は、ゆっくりと腕を伸ばした。
「ジルフリーダ」
「ジルだって言ってるでしょう……!」
咄嗟に私は十字架を握った手を、ルシアンへと突き出した。
銀が、肉に触れた瞬間。じゅっ、と油を引いた鍋に水を落としたような嫌な音がした。
「……っ!」
彼の腕が、みるみるうちに爛れていく。
白い肌が赤黒く変色し、皮膚がひび割れ、その間から光が漏れる。十字架が触れているところは、まるで本当に溶けた銀を流し込まれたみたいに、どろりと光っていた。
ルシアンは、身を引かなかった。
焼け爛れた腕で、私の肩を掴む。顔が苦痛に歪み、紅い瞳が縋るように細められる。押し殺した呻きがかすかに漏れた。それでも彼は一歩も退かなかった。
「離れてよっ……痛いでしょう、それ……」
「痛い」
ルシアンはあっさりと肯定すると、そのまま私を抱き締めた。
身体ごと外套の中に包み込まれ、胸に頬を押し付ける形になる。服越しに、ゆっくりとした鼓動が耳に響いた。すぐそばで、低い声が落ちる。
「だけど、それよりも、もう君を離したくないんだ。……やっとなんだ。やっと、また抱き締められた。銀の火傷なんて、いくつ増えたって構わない」
私の指から、銀の十字架が、するりと滑り落ちた。微かな音を立てて、苔の上に沈む。
その途端、脳裏で映像が弾けた。
ずっとずっと昔のこと。
私は十字架に縛り付けられていた。足元には焚き木が積まれている。
冷たい風の中で、遠くで鐘の音がする。「魔女め、炎に焼かれて地獄に落ちろ!」と罵声が降り注ぐ。
焚き木に火が点けられた。乾いた薪が一気に炎を上げ、熱と煙が顔を覆う。
喉が焼ける。皮膚が爛れる。骨と臓腑が露わになる。
熱い。痛い。怖い。悲しい。苦しい。助けて。
その中で、私は必死に彼の名前を呼んでいた。
――ルシアン。
炎の向こう側で、ルシアンの身体は銀の鎖で縫いとめられていた。紅い目が、泣き叫ぶように見開かれている。「ジルフリーダ」と、何度も名を呼ばれて、私は涙と煙に咽びながら、彼の名前を返した。
そうだ。思い出した。私はかつて「ジルフリーダ」と呼ばれていた。
魔女と罵られて火刑にされた女、それが私だ。そして、炎の向こうで泣いていたルシアンは、あの時の私の恋人だった。
私は息を詰めて、ルシアンの胸元を掴んだ。頬を伝う涙は止まらない。
ルシアン私の頭を大きな手で包んでくれた。片方の手はまだ、銀の痕をじりじりと燻らせながら。
「ジルフリーダ……。僕は君が生まれ変わる日をずっと信じていた。いつかまた、どこかで、君に会えると。どんなに時が経っても、必ず探し出そうと決めていた。やっと見つけた……。今度は、もう離さない」
「……さっき、炎の中の女のことを少しだけ思い出したわ。あのジルフリーダって呼ばれていた人は、きっと私なんだと思う。だけど、全部を覚えている訳じゃないし、今の私が、本当にあなたの知っているジルフリーダと同じだって、自分でも言い切れない」
「魂が覚えているから大丈夫。心配はいらないよ。それに僕が全部、話すよ。これから何度でも、何度でも。飽きるほど、聞かせてあげる」
ルシアンは、少しだけ体を離して、私の顔を覗き込んだ。
紅い瞳が嬉しそうに笑っている。
そうしてから彼は手を差し出した。焼け爛れた皮膚はまだ赤く、ところどころ、銀の粉をすり込んだように内側から鈍い光が滲んでいた。
「ジル。僕と一緒に来てくれる? あの時みたいに、人間たちに君を奪われるなんて、もう二度と耐えられない。人が生きる昼の世界から離れて、僕の生きる夜の側へ来て欲しい。……お願いだ、今度こそ、何があっても君を離したくはない」
人間たちに。その言い方が、少し不思議に聞こえた。
私は今、人として村で暮らしているのに、ルシアンの口ぶりだと、最初から「人間」と「私」は別のものみたいだ。
けれど、火刑台の群衆や継母たちを思い出せば、その区別もどこか納得できてしまう。
私だって人間の側にいるはずなのに、心の底から恐ろしく感じるのは、いつも人のほうだった。
目を閉じれば、日常がすぐに浮かぶ。
継母の冷たい眼差しに、義姉の嗤う口元。何も見ていないふりをする父の横顔。
冷たい台所の床。薄い毛布。空腹と、痛み。
天秤にかけるまでもなかった。
片方には、殴られても黙って耐えるしかない日々。もう片方には、銀の火傷を代価にしてでも、私を抱き締めようとする吸血鬼。
もちろん怖さは、あった。ルシアンが生きてきた世界が、どんな姿をしているのか、今の私にはまったく想像できない。
だけど、それでも。
「……行くわ」
私は、差し出された手に、自分の手を重ねた。ルシアンは、安堵したように微笑んだ。
「ありがとう、ジル。これからはずっとずっと一緒だね」
手を取り合って、一歩踏み出す。森の奥へ。さらに濃い闇へ。村へ戻る道とは、まるで逆の方角へ。
振り返れば、土の上で、小さな光がひとつ、きらりと煌めいた。
首飾りとしての役目を終えた、銀の欠片が、最後の抵抗みたいに冷たい光を投げかけていた。
私は、もう一度だけ、その光を目に焼き付ける。そして、二度と振り返らなかった。
銀の火傷は彼の腕に刻まれ、その痛みごと私を抱き締める。
私とルシアンは、もう離れない。
人の生きる世界からそっと離れて、誰の声も追ってこない方へ。
ずっと一緒だと、誓いながら歩いていった。
FIN.




