第8章 声が届くまで
春のはじまりを告げる雨が降っていた。
街を濡らす透明な粒が、街灯を滲ませる。
その中を、蒼真は傘もささずに歩いていた。
胸の奥がざわついている。
携帯の画面には、最後に届いたメッセージが光っていた。
〈ごめんね、今日、ちょっと行けないかも〉
〈でも、次の月が満ちる夜に、会おうね〉
それが、紬から届いた最後の言葉だった。
***
数日後、紬の家の前に花束が並びはじめた。
蒼真は何度も信じたくないと思った。
それでも、現実は静かに胸を突き刺した。
彼女の声は、もうどこにもなかった。
通夜の夜、彼は一人、あの公園のベンチに座った。
冷たい風が吹き抜け、月が薄い雲の隙間から顔を覗かせる。
「嘘だろ……。お前、また俺を騙してるんだろ」
声が震えた。
ギターを取り出し、あの曲を弾く。
音が震えて、涙で指先が濡れる。
彼女がいない夜に、彼女の歌が蘇る。
音が、空気を震わせ、月の光が微かに揺れた。
> そのとき――スマホが震えた。
ディスプレイには「紬」という名前。
手が止まる。心臓が跳ねる。
震える指で再生ボタンを押すと、静かな声が流れた。
> 「……蒼真。もしこの音を聴いてるなら、きっと、もう私はいないんだと思う。
> でもね、悲しまないで。
> あなたと過ごした日々が、私の歌だった」
雨の音に混じって、紬の息づかいが聴こえる。
> 「あなたと出会って、初めて“声”が生きるって思えた。
> だから、これが私の最後の歌」
そして、かすかなギターの音が流れる。
その旋律は、二人で作った曲だった。
> 「もし、私の声が消えても――
> 月を見上げて。
> そこに、私がいるから」
録音はそこで終わった。
蒼真はスマホを胸に抱きしめた。
声が出なかった。
ただ、こぼれ落ちる涙が頬を伝い、ギターの弦に落ちて音を立てた。
***
季節が巡った。
春の風が、少しだけ優しくなったころ。
蒼真は紬のマイクとギターを抱えて、あのステージに立った。
そこは、二人が最後に歌ったライブハウス。
今日は、紬の追悼ライブだった。
照明が落ち、静まり返った空気の中、
蒼真はゆっくりとマイクに口を寄せた。
「今日は、ひとりじゃない。
彼女と、一緒に歌います」
ギターを弾く。
音が会場を包み込む。
スピーカーから、紬の歌声が流れはじめた。
> 「届かなくても、あなたに歌う――」
録音された声が、まるで生きているように響く。
その声に、蒼真のギターが重なる。
観客の中には涙を流す者もいた。
月の形をしたライトが、天井に投影されている。
それはまるで、彼女がそこにいるようだった。
歌い終えた瞬間、会場は静寂に包まれた。
蒼真はマイクを見つめ、囁くように言った。
「……紬。届いたよ。ちゃんと、届いた」
空気が揺れた。
風が、彼の頬をそっと撫でた。
ステージの上、ライトがふっと強く瞬く。
その光の中で、
彼は確かに“声”を聴いた気がした。
> ――ありがとう、蒼真。
彼は顔を上げる。
天井のスクリーンに、満ちた月が映し出されていた。
それは、あの日、紬と約束した“月”と同じ輝きだった。
「……これからも、歌うよ。お前の声と、一緒に」
ギターの音が、優しく響く。
月が光り、空に滲む。
声が、まだそこにあった。
永遠に届き続けるように――。




