第7章 最後のステージに向かって
冬が深まり、街の灯りが少し早くともる季節。
イルミネーションの並ぶ商店街を、蒼真はギターケースを背負って歩いていた。
胸の中には、あの夜の紬の笑顔が焼き付いている。
「……元気になってきてるといいけど」
彼はメッセージアプリを開きかけて、すぐ閉じた。
毎日連絡を取っていたのに、最近、紬からの返信は少し遅れるようになっていた。
でも、それが“冷めた”のではなく、何かを抱えているように感じられた。
(もしかして、俺が何か気づいてあげられてないだけなのか?)
彼は胸の奥に小さなざらつきを抱えたまま、ポケットからスマホを取り出した。
そして一言だけ送る。
〈月がきれいだよ。見てる?〉
数分後、既読がついた。
〈見てる。あなたも?〉
〈もちろん〉
短いそのやり取りの間に、冷たい夜風が頬をなでた。
空の上で、満ちかけた月が静かに微笑んでいた。
***
数日後。
紬はようやく体調が少し戻り、久しぶりに外に出た。
空気は透き通っていて、頬に刺さるような冷たさがむしろ心地よかった。
「ただいま、冬の街」
小さく呟いて笑う。
その瞬間、スマホが震いた。
〈蒼真:紬、次のライブ、決まった。
一緒に出ないか? この冬、最後のステージ〉
紬は目を見開いた。
心臓がどくんと跳ねる。
胸の奥の痛みが再び顔を出し、それでも、彼女の心は震えるほど嬉しかった。
「……出たい。歌いたい。彼と、もう一度だけでも」
医師の忠告が頭をよぎる。
> 「声を酷使すれば、取り返しがつかなくなりますよ」
でも、紬の中では答えは決まっていた。
> ――声を失ってもいい。
> 彼となら、歌いたい。
***
ライブ前夜。
公園のベンチで、二人は並んでいた。
吐く息が白く、街の灯りが遠くで瞬いている。
「本当に無理してない?」
「うん、大丈夫。私、ちゃんと歌える」
蒼真は信じた。
彼女の声に嘘はなかったから。
「なぁ、紬」
「ん?」
「お前と出会ってから、俺……初めて音楽が“誰かのため”になるって思った」
「……それ、ずるい言い方」
「ずるくていい。だって本気だもん」
紬は少し俯いて、手袋の上から自分の手を握った。
「私もね、蒼真に出会って、音楽が“生きること”と同じになったんだ」
その言葉を聞いて、蒼真は何かを言いかけたが、喉の奥で言葉が溶けた。
ただ、そっと彼女の頭を撫でる。
月の光が、二人の影を寄り添うように照らしていた。
***
ライブ当日。
ステージに立つ二人を、観客の光が包み込む。
冬の夜空の下、月が丸く輝いていた。
蒼真のギターが鳴り響く。
そして――紬の声が、夜空を震わせた。
> 「届かない夜も あなたの声を探してた
> 何度も何度も 月の下で――」
その歌声は、あまりにも美しく、
あまりにも切なく、
まるで夜空が泣いているようだった。
蒼真は弦を弾きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(この声……どうしてこんなに、切なく響くんだ)
曲が終わると、観客から拍手が沸き起こった。
紬は笑顔で手を振った――その笑顔の裏で、喉の奥が焼けるように痛んでいた。
ステージのライトが落ちたとき、
彼女の目の前が一瞬、白く霞んだ。
支えるように蒼真の腕が伸びる。
「……紬?」
「ううん、大丈夫。ただ、少し力が入らなかっただけ」
そう言って笑うその瞳に、月の光が映り込んでいた。
***
帰り道。
二人は夜空を見上げた。
満月に近い月が、穏やかに輝いていた。
「今日の月、すごく綺麗だね」
「うん。紬の声みたいに」
紬は微笑み、ペンダントを指でなぞった。
「ねぇ、もしもさ――私の声が、どこかで消えても」
「……そんなこと言うなよ」
「ううん。もしもの話。
その時は、月を見上げて。
私も、同じ月を見てるから」
蒼真は黙って彼女の手を握った。
冷たかったけれど、確かにそこに“生きている温もり”があった。
月の光が二人を包む。
その夜の歌声は、やがて伝説のように語られることになる。
――まだ、誰も知らない。
この夜が、紬の最後のステージになることを。




