第6章 月が欠けはじめる夜に
冬のはじまりを告げる風が、街を吹き抜けていた。
吐く息が白く溶けて、空の向こうに月が細く滲んでいる。
紬はマフラーを首に巻きながら、いつもの坂道をゆっくりと歩いた。
少しの階段が、前よりも息を切らせる。
胸の奥が時々、波打つように痛む。
でも、それを表に出すことはなかった。
――まだ、歌える。まだ、大丈夫。
ポケットの中のスマホが震えた。
〈蒼真:明日の練習、放課後いつもの公園で〉
紬は小さく笑い、短く返信する。
〈了解〉
その絵文字のひとつひとつに、言葉にできない想いを込めた。
***
翌日の放課後、公園のベンチに座ると、冬の空気が頬を刺すように冷たかった。
蒼真はギターケースを開け、弦の音をひとつひとつ確かめている。
その姿が、どこか穏やかで、少し切なかった。
「最近、声の調子どう?」
「んー、ちょっと乾燥してるけど平気!」
「無理してない?」
「してないしてない、大丈夫だよ」
紬は笑いながら、マイクを握る手を少し強く握った。
その手が、わずかに震えていることを、彼は気づかなかった。
音が響く。
冬の空気の中、彼女の声が淡く広がる。
まるで凍てついた世界を溶かすように。
だが、途中で――声が途切れた。
「……っ」
喉の奥がひりつき、視界が滲んだ。
音が出ない。息が吸えない。
それでも、紬は笑おうとした。
「ごめん、ちょっと咳が……」
蒼真がすぐに水を差し出す。
「大丈夫?」
「うん、少し風邪気味かも」
蒼真は信じた。
彼女の笑顔があまりにも自然だったから。
だが、その夜、紬は一人、病院の待合室で診察を待っていた。
> 「症状が進んでいます。
> 無理をすれば、声帯を……失う可能性があります」
医師の言葉が遠くで響く。
世界の音がゆっくりと、遠ざかっていくようだった。
(まだ歌いたいのに……)
(彼と、あの月の下で、もう一度だけでも……)
***
数日後、紬は“風邪”という言葉を盾にして休んだ。
蒼真は心配そうにメッセージを送ってきた。
〈無理すんなよ。声、ちゃんと休めて〉
〈うん。ありがとう〉
紬は返信しながら、スマホの画面に映る月のアイコンをじっと見つめた。
その夜、彼女は歌を録音した。
ひとりきりの部屋で、灯りを落として。
息が続かなくても、声が震えても、
それでも――想いを込めて歌った。
> 「届かなくても、あなたに歌う
> 声が消える、その瞬間まで」
歌い終わると、涙が頬を伝った。
喉の痛みよりも、胸の奥の痛みのほうがずっと深かった。
***
翌日、蒼真が彼女の家の前まで来た。
「少しだけ顔、見せて」
メッセージを見て、紬は鏡を見つめた。
顔色は少し青白く、唇が乾いていた。
それでも、笑顔をつくってドアを開けた。
「お見舞い?」
「当たり前だろ。心配するなって言われても無理だよ」
蒼真が手にしていたのは、ギターではなく月の形をしたペンダント。
「これ、お守り。
次のライブ、これつけて歌ってよ」
紬はそれを見つめて、小さく笑った。
「……ありがとう。大事にするね」
彼が帰ったあと、紬はそのペンダントを胸にかけ、窓の外の月を見上げた。
欠け始めた月が、静かに彼女を照らしていた。
「ねぇ、月。
あとどれくらい、私、歌えるかな」
夜風がカーテンを揺らす。
その向こうで、遠くに彼のギターの音が聞こえた気がした。
> ――声が届くまで。
紬は目を閉じ、その音にそっと微笑んだ。




