第2章 月の下の再会 ――声が届く夜
夜明け前、紬は静かに目を覚ました。
胸の奥に、微かな痛みと、昨日の歌の余韻が残っている。
昨夜、配信を終えたあとも、彼女の耳にはまだ「音」が響いていた。
自分の声が、遠く誰かの心に触れたような――そんな錯覚。
枕元のスマホの画面を開くと、無数のコメントが光の粒となって流れていた。
> 「声が優しくて涙出た」
> 「月の夜に聴くと、息が止まるくらい綺麗」
> 「君の歌に、何度も救われたよ」
紬は唇をかすかに動かす。
「……救ってるんじゃない。救われてるの、こっちのほう」
声に出して言うと、少しだけ喉が焼けるように痛んだ。
それでも彼女は小さく笑い、ベランダへ出る。
冷たい空気の中で、夜明け前の月がまだ空に残っている。
その光を見つめながら、紬は胸に手を当てた。
「今日も、歌えるね」
小さな声でそう呟く。
その一言が、彼女の日々の始まりだった。
***
昼下がり、蒼真は街の喧騒の中で立ち止まった。
イヤホンから流れるのは、昨夜聴いた紬の歌。
ギターの音色が消える直前に、かすかに息を吸い込む音――。
それが耳に残って離れなかった。
「こんな声……あったんだ」
音楽をやめてから、初めて“音が胸に刺さる”感覚を思い出した。
蒼真はスマホの通知を見た。
《#月の下で 夜20時より配信予定》
場所:川沿いの橋の下。
その一行に、なぜか心が震えた。
あの声の主に、会えるかもしれない――。
***
夜。
川辺の空気は冷たく、遠くの街の灯が水面に揺れている。
紬はいつもの小さなアンプをセットし、ギターの弦をひとつずつ確かめる。
マイクを通して息を整えると、
柔らかなリバーブの中で、彼女の声が夜に滲んだ。
「こんばんは。今日も、月の下から……歌います」
最初のコードが鳴った瞬間、空気が変わった。
月の光が彼女の頬に落ち、髪が淡く光を帯びる。
> 「ねえ 月が泣いてる夜は
> 私の声で あなたを包みたい――」
その声は、夜気に溶けていくようで、
でも確かに、聴く者の心を掴んで離さなかった。
橋の影に立つ蒼真は、息をするのも忘れていた。
音が、心に触れる瞬間の痛みに似た感覚。
それは、もう二度と戻らないと思っていた“生きる実感”だった。
紬の歌は続いた。
儚いのに強く、かすれるようで透き通っている。
ひとつひとつの言葉が、まるで祈りのようだった。
> 「届かない声でもいい
> それでも 空へ放つの――」
歌い終わると、観客たちは拍手もせず、ただ静かに聴き入っていた。
風が一度吹き抜け、川面が光る。
その時、紬がふと顔を上げる。
視線の先に、蒼真がいた。
驚いたように目を見開き、少し照れくさそうに笑う。
「……聴いてくれてたんだ」
蒼真は頷き、声を絞り出す。
「すごく……綺麗だった」
「月のせいかな」
紬が冗談めかして言うと、蒼真は首を振った。
「違う。君の声が、月より綺麗だった」
その一言に、紬の瞳が揺れる。
心の奥に、何かがふっと灯ったようだった。
沈黙の中で、月だけが静かに見つめている。
「……ギター、持ってるんだね」
紬が気づいて言う。
蒼真はケースを見下ろし、少し照れたように笑った。
「弾けないと思ってたけど……今は、弾きたい」
紬の目が優しく細まる。
「なら、今度一緒に弾こう。
次の満月の夜に」
「……約束する」
風が二人の間を抜け、
その音が、まるで二人の誓いを包むように響いた。
月明かりが、彼女の髪に淡く差し込み、
その下で紬は、静かに目を閉じて微笑んだ。
けれど――
その手の中のマイクがわずかに震えていたことを、
蒼真はまだ知らない。
夜空に浮かぶ月だけが、その震えを見つめていた。




