第1章 月の下の少女
夜風が、街のビルの隙間をすり抜けていく。
スマホの画面を見つめながら歩く人たちの流れの中で、ひとりの少女が立ち止まっていた。
駅前のロータリー。
ネオンとテールランプの光が交錯する中で、彼女だけが少し違う空気をまとっていた。
肩までの髪が風に揺れる。
小さなポータブルアンプと、古びたギター。
――紬。
彼女はスマホのストリーミングアプリを立ち上げ、配信ボタンを押した。
「今夜も少しだけ、歌います」
そう小さく呟き、ピックを弦に当てる。
最初の一音が夜に溶けていく。
ロータリーのざわめき、バスのブレーキ音、誰かの笑い声。
そのすべてを、紬の声が包み込むように流れていく。
> 「ねぇ、聞こえる?
> どこか遠くの誰かに、届いてるといいな――」
歌声はまっすぐで、やさしく、でもどこか切ない。
配信のコメント欄が流れ始める。
> 「声がきれいすぎて泣ける」
> 「また月の下だ」
> 「今日も来てよかった」
紬はふっと笑い、夜空を見上げた。
ビルの谷間から覗く月が、少し滲んで見える。
それが光のせいなのか、彼女の瞳のせいなのかはわからない。
その光を、少し離れたベンチから見つめる青年がいた。
黒いパーカーに、背中のギターケース。
彼の名は蒼真。
音楽を、もうやめようと思っていた。
かつてバンドで全国を目指した。けれど、仲間との軋轢、夢の崩壊、裏切り。
“音”が怖くなってから、ずっとギターに触れていなかった。
そんな彼の耳に、紬の声が刺さった。
まるで誰かの心臓に手を伸ばすような――そんな歌だった。
「……誰だ、あの子」
声を出した瞬間、自分でも驚いた。
ずっと沈んでいた心の奥に、小さな熱が灯る。
スマホを取り出し、配信画面を検索する。
「#月の下で」
タグを見つけた瞬間、画面に映る彼女の姿。
――同じ光の下で歌う、まっすぐな目。
その歌に、コメント欄がざわめく。
> 「今日の月、やばいくらい綺麗」
> 「月と紬、セットで好き」
> 「なんか泣ける」
蒼真はスマホを握る手に力をこめた。
こんな風に人を惹きつける声が、まだこの世界にあったのか。
そして、自分がもうずっと遠ざけていた“音の熱”が、また身体の奥で息を吹き返していくのを感じた。
紬は最後のコードを弾き、少しだけマイクに顔を寄せた。
「今夜もありがとう。またね」
そう呟くと、配信を切り、ギターをそっと抱えて空を見上げた。
月が、彼女の頬を静かに照らしていた。
その光はどこか儚くて、痛いほどに美しかった。
蒼真はただ、その背中を見つめていた。
声をかけることもできず、ただ立ち尽くして。
その夜、彼の胸に残ったのは――
あの歌声と、月の光。
そして、言葉にならない違和感。
彼女の歌には、“終わり”の匂いがした。
まるで、何かを残そうとする人のように。
けれどその意味を知るのは、まだ少し先の話だ。
月は静かに輝きながら、二人の運命を見つめていた。




