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第九章 ――雷牙

 昼過ぎ、旗がやさしく揺れていた。

 輪の真ん中を一本の金の糸。風はおだやか、土は眠たそう――なのに、空だけが落ち着かない。雲の縁が針の先みたいに光って、乾いた匂いが盆地に落ちる。


「鈴、一。――“名乗り”」

 見張り台の上でミレイが短く言い、杖で印を打つ。

 ユウゴが顔を上げた。「“速い線”、一本。昨日の“若い笑い”。正面、門まで三十呼吸」


「来た」

 フィアが袖をぎゅっとつまむ。小さく吸った息が、指の金粉こなを震わせた。


 丘の上に影が立つ。黒外套、槍、肩に雷のにおい。

 若い。背は高くない。けれど、視線が常に先を走っている。

 外套を払って、笑う。


「どーも。“雷牙らいが”。魔王軍の四天将――の、末席」

 肩で槍を回し、ぴたりと止める。「昨日の“予約”、入ってるよね?」


「予約名、雷牙さま。棄権は不可?」

「不可。――試合形式は“正面から正直”。背中からは刺さない。観客は静かに、ごはんはあとで」


 門の内側で、子どもが息を呑む音がひとつ。

 俺は頷き、門から三歩だけ前に出た。「ここでやると、あぜが泣く」

「じゃ、舞台変更。――“雷道らいどう”」


 足元の草がさあっと寝て、一筋の道が丘の外へ伸びた。

 雷では焼けない。ただ、乾いた風が“ここを走れ”と教える。

 俺は旗を一度見上げ、フィアの手をそっと離す。


「すぐ戻る」

「うん。――アーデン、かっこよく戻って」

「努力する」


 門を離れる俺の背に、ユウゴの声。「右、三呼吸後に“見せ槍”。本命は四歩先の左足。――笑いが一拍、早い」


「了解」


 丘の外。

 雷牙が槍を立て、軽く礼。俺も礼を返す。

 空は群青、雲は薄金。旗の影は、もう見えない。


「確認」雷牙が指を一本立てる。「あの金髪の子、神さま。光の芯」

「たぶん、そう」

「オレは狙わない。今日のオーダーは“顔合わせ”。兄ちゃんの顔を、うえに持って帰る」


「兄ちゃん?」

「オレ、兄弟いないけど、呼びやすいのが“兄ちゃん”。――行く」


 雷の音は鳴らない。土が一度だけ低く鳴って、次の瞬間には槍が頬の横にいる。

 見せ槍。

 風だけが切れて、すぐ本命が足に来る。

 俺は半歩、先に置いていた“何もない”へ足を出し、刃を空振りさせる。

 雷牙の口角が上がる。「やっぱ速い」


「速いのは君だ」

「じゃ、もっと速く」


 槍が三、四、五。

 俺は掌でいなずまを受け、返し、逃がし、指先の神律しんりつで角度だけをほどく。

 雷牙は笑う。笑いながら、少しずつ深くなる。

 足裏が土を信用し始め、呼吸が“槍の長さ”にぴたりと合う。


「質問、いい?」雷牙が槍の尻で地面をこつん。

「どうぞ」

「“泣かない国”。あれ、ほんとにやるの」

「やる」

「ふうん。――じゃ、教えとく。魔王は“泣き”を使う」


 槍が沈む。

 言葉より速く、穂先が地面を撫でて火花を散らす。

 俺は膝を抜き、刃を空に遊ばせる。

 雷牙の声が、その間も軽い。


「“魔律まりつ”は黒いだけじゃない。泣き声、怒鳴り声、恨み言――ぜんぶ、糸。

 上はそれを束ねて、世界の“”そのものを書き換えるつもり。

 白を黒に、昼を夜に。――“光の芯”がかなめ


 フィア。

 胸の輪が、ひとつだけ強く鳴る。

 俺は息を吸って吐き、「上の名前は?」とだけ聞いた。


「魔王? “イツキ”。――名字しか知らない。上は“名”で呼ばせない」

 笑い方がほんの少し変わる。「兄ちゃん、顔が変わった。……そっか、知ってる顔?」


「昔の話だ」

 声が自分でも驚くほど静かだった。

 雷牙は首を傾げ、槍を立て直す。「怒っていいよ。怒った顔、速くなる」


「怒りは鈍る。――守るほうが速い」


「いいセリフ」


 雷牙が一足、踏み込む。

 槍が空で消え、俺の肩口に現れる。

 ユウゴの声が遠くで重なる。「右肩、上――“肩を空にする”。次、かかと!」


 俺は肩を置き場所ごと消し、踵を草の上に滑らせる。

 槍は空振りし、雷牙の足が半歩だけ重心を失う。

 そこを、指でつつく。

 ふっと、彼の速度が“等速”に戻る。


「今の、何?」

「癖を一つ、ほどいた」

「やだ、気持ちいい」


 雷牙は楽しそうに身震いし、槍を回す。「次、速くなる」

「望むところ」


 空気が薄くなる。

 彼の身体の“輪郭”が、騒がしくなくなる。

 ――本当に速いとき、人は静かになる。

 雷が一本、雲から落ち、土は鳴らない。

 穂先が眉間に近づく手前で、俺はそれを“別の明日”へそっと押した。

 穂先は俺の耳の向こうを通り、風だけが頬を撫でる。


「……たのしい」

 雷牙の声が素直だった。

「兄ちゃん、“光”、澄んでる。――“芯の子”と繋がってるから?」


「そうかも」

「じゃ、やっぱりオーダー通り。“芯の子”はいただく。方法は――」


「ない」

 俺は一歩、近づく。

 雷牙の槍を、穂先からへ、柄から手へ、手から肩へ――順番に“重くする”。

 力で押さない。ただ、彼の体がいま置いている“重さ”を、少しだけ現実へ戻してやる。


「っく」

 初めて、雷牙の足音に重みが乗った。

 彼は笑い、舌を打ち、槍を引く。「兄ちゃん、意地悪。――でも、覚えた」


「覚えていい。今度は君が誰かを守るときに使え」


「はは。オレが守るの、苦手」

 雷牙は肩を回し、視線を山の端に投げる。「ねえ、兄ちゃん。上に伝えていい? “光は澄んでた”“国の輪郭、すでにある”“旗、かわいい”“人間、強がりだが泣かない”。――あと、“兄ちゃん、顔が頼りになる”」


「最後は余計だ」

「重要。上は数字より顔を見る。――じゃ、もう一つ」


 雷牙は空に槍を掲げる。

 雲の縁が細く裂け、乾いた電が糸のように降りてきて、地面に“印”を置いた。

 焦げもしない、浅い輪。盆地へ続く道の、外側だ。


「“雷標らいしるべ”。――ここ、オレの“道”。次はそこから来る。他の連中も来る。火の剣とか、空っぽの槌とか、氷の杖とか」

 楽しそうに指を折る。「順番は未定。上の気分」


「全員まとめて、予約は後ろに回してくれ」

「無理。――オレ、待つの苦手」


 雷牙は一度だけ槍を深く構え、視線を俺から外さずに引いた。

 礼。

 俺も礼を返す。


「兄ちゃん、ひとつ忠告。上は“”を食べる。奪う。呼び方で縛る。――“国の名”は、先に自分で呼べ」

「忠告、感謝」

「じゃ、また明日――か、明後日。オレ次第」


 雷の匂いがすっと薄れ、若い笑いが雲の裏へ吸い込まれた。

 風だけが残る。輪の“雷標”が、草の上で静かにたたずんだ。



 門へ戻る。

 旗が見える。輪と金の糸。

 フィアが走ってきて、勢いのまま俺に抱きついた。軽い。


「おかえり!」

「ただいま」

 頬に少し汗。彼女はそれを指先で拭って、すぐ眉を寄せる。「“名を食べる”って言ってた。いや」

「うん。――だから、先に呼ぶ」


 俺は門柱に手を置き、みんなに聞こえる声で、短く言った。


「ここは“ルミナリア”。旗の名も、井戸の水も、畦の曲がりも、泣き顔の置き場所も――ぜんぶ、ルミナリアのものだ」


 空気が少し整う。

 名前は、骨組みに筋を入れる。

 子どもが小さく復唱し、大人が続く。ミレイが杖で印を打つ。「――ルミナリア」


 ユウゴが胸を張る。「“線”、太くなった。よかった」


「被害、なし。印、一つ」ミレイが“雷標”を見やって言う。「あれ、どうする」

「触らない。――だが、線をまたぐ道は作る」

 俺は印の手前に石を三つ置き、ユウゴに目をやる。

「右、静かな小道を一本。夜はそこを使う。日中は見せ道を使って“国のやり口”を覚えさせる」


「賛成!」


 作業に戻る。

 旗の下で、縄の結びを見直し、畦の角に薄い石標を立て、井戸の縁を磨く。

 フィアは鍋にやさしさを一つまみ、子どもの擦り傷をひと撫で、ついでに俺の前髪をまた整える。

「今日のアーデン、いつもより“きれい”」

「条項」

「守ってる。“アーデンだけ”」


 彼女は得意げに言い、すぐ真顔に戻った。「“譜を書き換える”って、怖い言葉だった」

「怖い。けど、譜は譜だ。――楽器がよければ、同じ譜でも違う音になる」

「うん。じゃあ、わたし、いい楽器にする。アーデンも」


「俺は打楽器で頼む」

「じゃ、太鼓。――夜は“どん”って鳴らして起こす」

「起こさないで」



 夕方、雷標の外側に低い石垣を回し、子どもに踏む順番を教える。

 ユウゴは地図の端に“名乗り一回目:雷牙”と丸い字で書いた。その横に、ちいさく“ルミナリア確定”も足す。


「雷の子、明日?」フィアが問う。

「明日か明後日。――どっちでもいい。畦をもう一枚。門の裏に“静かな梯子”。見張りは三人目をつける」

 俺が指を折っていると、ユウゴがぽん、と手を打った。「“冗談の担当者”も一人」

「重要職だな」

「ぼく、やる!」

 その直後、縄に足を引っかけて転び、フィアの紗にふわりと受け止められた。

「冗談、成功」



 夜。

 火は小さく、旗が黒に溶け、井戸の面に見えない星が浮かぶ。

 ミレイが見張り台で空を睨み、ユウゴは地図に“静かな道”の薄い線を足す。

 フィアが俺の隣で膝を抱え、ぽつりと言った。


「“名を食べる”。――アーデンの“名前”、誰にも食べられないで」

「食べられない。君が呼ぶから」


「アーデン」

 彼女はゆっくり呼び、笑う。「……うん。大丈夫」


 胸の輪が、規則正しく灯る。

 遠い雲の裏で、誰かが槍を磨く音がした。

 雷の匂いは薄い。けれど、約束みたいに残る。


「明日も、生きる」

 ユウゴが眠そうな声で言う。

「うん。――ここで」

 旗が、風のない夜に、すこしだけ立った。

 “ルミナリア”という名が、骨組みに筋を入れ、眠る土に静かな鼓動を置く。


 泣き声は、どこにもない。

 でも、明日のための耳は、もうここにある。

 雷牙。火の剣。空っぽの槌。氷の杖。

 誰が来ても、同じだ。

 ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。


 ――そして、二度と、泣かせない。

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