第八章 ――来襲
昼の少し手前。
見張り台の上で鈴が二回、短く鳴った。ミレイの合図じゃない。骨鈴の音だ。
「来る」ユウゴが地図を抱えたまま顔を上げる。「“速い線”。雷のにおい。門、二分」
空の端が針みたいに光った。乾いた匂いが盆地に落ちる。
俺は門の梁に触れ、結び目を一つ締める。柱の重みが土にまっすぐ降りる角度――よし。
「避難動線、確認」
ミレイが杖で地面にとん、と印を打つ。「子は井戸の東、火は落として、鍋は布で蓋。若いの、網と弓。年寄り、指示優先」
「フィアは?」
「“音”やわらげる」フィアは胸に手を当て、笑う。「怖くても、足が動く音にする」
ユウゴが息を整えた。
「ぼく、声出す。――右二列、下がって。左、畦の影に。中央、三歩前へ」
地面の空気がしゃくっと変わった。
丘の上、黒外套の列。灰色の皮膚、骨槍、仮面。十、二十……数えるのは途中でやめた。
列の先頭に、背の低い若者が一人。細い槍をくるくる回し、すぐあくびみたいに止める。
肩口で空がひゅっと光った。笑い方が早口だ。
「やあやあ。ここ、ほんとに“国”になるの?」若い声が風を滑る。「なら、試運転しよっか」
「試運転、事前予約制で」俺は門の前に出る。「本日は満席」
「へえ。いい声」
若者は槍の尻で地面をこつんと叩き、花火みたいな電が草の先で弾けた。
「オレ、待つの苦手なんだよね。――全軍、前へ」
骨鈴が短く鳴る。黒外套が波になって下りてくる。
ユウゴの声が重なる。「右から五、畦越えは二。左、三は囮。真正面――“速い”一本!」
真正面の一本。ほぼ槍だけがやって来る。尾を引く光。
俺は一歩、前。手のひらを上に向け、槍の電を“すくう”。
神律が掌で丸くなり、電がそこに“落ちた”。
音が鈍くなる。
「返すよ」
返した電が、空へ。
真上でしゅ、と散って、風の音に変わった。雷の匂いは残るが、脅しの牙が抜ける。
「ははっ」若者が笑う。「やっぱ“光”か。おもしろ」
両脇の列が迫る。
フィアの指先から薄い光の紗。音が柔らかく包まれ、足音が逃げ道を忘れない音に変わる。
ミレイの杖が鳴り、網が飛ぶ。若い連中の網は、昨夜より上手い。
畦の角で足を取られた影が二つ、三つ、草に寝た。
「中央、槍、二連。右肩の下」ユウゴ。
「了解」
俺は肩を落として刃をすべらせ、互いの槍をぶつけて地面へ寝かせる。
力は要らない。角度と、息。
若者が丘の上で槍を肩に担ぎ、こちらを見下ろした。
「へえ。筋がいい。……ねえ、教えて。“泣かない国”だっけ? 泣き顔の置き場所、ほんとに見つかるの?」
「見つけるんじゃない。つくる」
「つくる、か。――オレも得意」
若者は笑って、槍の切っ先を空に向けた。
次の瞬間、空の薄雲の中から、細い電が十本、雨みたいに落ちた。
狙いは門じゃない。畦。水路。骨を立てた角。
国の“輪郭”。
「いやだ」フィアの声が小さく震えた。
彼女の光が水路の上に走り、電はそこで鈍くほどけた。水は煮えない。土は焦げない。
光だけが、少し涙の形になって揺れた。
「嫉妬に似てる」フィアが唇を噛む。「“壊されるの、いや”」
「いい嫉妬だ。守りの形を覚えたな」
俺は彼女の手の甲に指を重ね、輪の灯を一度強める。
「ユウゴ、右の畦、空いてる線」
「ある! 畦の影を二本繋いで、落とし穴の上を渡る線!」
「渡るぞ」
俺は右手の若い二人に顎で合図し、畦の影を滑って敵列の脇へ回り込む。
網が一枚、もう一枚。
黒外套は鈴を鳴らさない。驚きを隠して、淡々と崩れる。
若者の声だけが楽しそうに跳ねる。
「ねえ、光の兄ちゃん。正面から来てよ。横はつまんない」
「いやだ」
「ははっ、正直」
若者が瞬きの間に消えた。
次に見えたのは、もう門の真ん前。
槍の穂先が、門柱の結び目へ、針みたいに吸い込まれていく。
「右、半歩――いま!」ユウゴの声。
俺は半歩、右。槍は結び目を外し、空を刺した。
若者の首筋に汗の匂い。
笑いながら、彼はさらに速くなる。
「いいね。やっと“速い顔”になった」
「顔褒めは条項違反だぞ」
「じゃあ、顔じゃなくて“手”。――手、すき」
槍が三度、四度。
俺は掌で電を受け、返し、すかし、逃がす。
若者の雷は軽くて、尖って、よく笑う。
けれど、根は浅い。
地がまだ、彼の足を信用していない。
門の内側から、子どもの泣き声――は、ない。
代わりに、鍋の蓋がこつん、と音を立て、誰かが深呼吸する音。
“泣かない”が、ここではちゃんと働いている。
「中央、三、崩れ」ユウゴ。
俺は若者の槍を一つ“遅らせ”、中央の列の足元を揺らす。
畦の影から網。ミレイの杖が鳴り、若い連中が声を飲んだまま走る。
倒れた影の骨槍が、門の根元でからんと転がった。
「ここまで」
俺は若者の槍先を指で“摘み”、穂先の電だけをほどいた。
槍の芯は空気を掴めず、若者の肩が初めてわずかに落ちる。
「へえ」
若者は槍を肩に担いで後ろへ跳び、丘の縁に軽く着地する。
笑っている。
でも、電の匂いが、ほんの少しだけ薄くなった。
「今日の課題、クリア。――“門、まあまあ”。“畦、よき”。“声、よし”。“光、かわいい”。」
最後だけ、遠慮がない。
フィアが俺の背にぴとっと貼りついた。「かわいい、言われた」
「条項、こちらの勝手に適用はできない」
「撤退線、太い」ユウゴが息を吐く。「追ったら逆に“戻る線”が切れる」
「追わない」
若者は槍の尻で土を一度叩き、こちらに手をひらひら振った。
「じゃ、今日はここまで。オレ、待つの苦手だけど――これは続きがたのしい。ね、光の兄ちゃん」
「観光客だよ」
「じゃ、明日も観光に来る。――予約、取っといて」
骨鈴が一度。
黒外套は波が引くみたいに薄くなり、雷の匂いも風にほどけた。
丘の上に若者だけが残り、空へ細い槍をひとつ投げ、雲の縁で弾ませてから、笑いと共に消えた。
◇
静けさが戻る。
誰も叫ばない。誰も泣かない。
でも、肩の力が一斉に抜けた音が、盆地のあちこちで重なった。
「被害、なし。怪我、擦り傷三。門、無傷。畦、すこし焦げの匂い」
ユウゴが手早く数え、最後に胸を張った。「ぼく、声、役に立った?」
「大いに」
「やった!」
フィアが畦の焦げ目を撫で、土の“痛い記憶”を少し取り除く。
土はすぐに平常の匂いを取り戻し、水は迷わず走った。
「“雷の槍”、若かったね」ミレイが杖をついて門に寄る。「速いが、軽い。――あれが全部じゃないのは、年寄りでもわかる」
「全部じゃない。今日は“挨拶”」
俺は門柱に手を置き、梁の結びをもう一度確かめる。「明日か明後日、“名乗り”に来る」
「名乗り、怖い?」フィアが見上げる。
「怖い。だから、いい」
「うん。怖いの、いまは半分。もう半分は――」
「“頼りになる顔が隣にいる”?」
「うん!」
彼女は俺の袖を握り直し、金の粉が一粒、昼の光に弾けた。
◇
午後はすぐに作業へ戻った。
“泣かない国”は、攻められた日ほど手を動かす。
畦を一枚延ばし、門の内側に避難路の目印を石で敷く。
子どもに石の順番を覚えさせ、ユウゴが「非常時の声」を三つ教える。
ミレイは若いのに網の縁の結び方を叱り、褒め、また叱る。
「旗、上げよう」フィアが目を輝かせる。
午前に描いた輪と金の糸の印。布に光で薄く下絵を写し、人の手で針を通す。
みんなで縫う。俺も縫う。
針は得意じゃない。でも、こういうのは下手でも混ざった方がいい。
夕方、門の梁に小さな旗が上がった。
輪の真ん中に一本の金の糸。
風で揺れてもほどけない。
「名前はまだ、看板はまだ」ミレイが目を細める。「でも、旗は旗。――わしら、ここで立つ」
その言葉に、輪の中の誰かが小さく笑った。
◇
夜。
火は小さく。見張りは二人一組。
ユウゴは地図の端に“来襲一回目:無傷”と丸い字で書いた。
フィアは俺の隣で、今日の“嫉妬”の数を指で数えて、「二回」と得意げに言った。
「減ってる」
「うん。――“国のこと、壊されたくない”ってやつと、“アーデンのこと、誰も傷つけないで”ってやつ。どっちも、いまは“守る”に入った」
「守るの、得意だよな」
「うん。つくると守る、どっちも」
遠くで、雷が一度だけ鳴いた。
若い笑い声は、今日は降りてこない。
けれど、空の縁で、誰かが槍を磨いている気配がした。
「明日、畦もう一枚。水路、枝を一本。門の裏に“静かな梯子”」
俺は指を折って数え、輪に触れる。「それから――“名乗り”に来たら、受けて立つ」
「うん」
フィアは俺の肩に額を預け、目を閉じた。「泣かない。……でも、もし泣いたら、アーデンはぜったい笑って」
「笑う。君が隣にいる限り」
井戸の水面が小さく揺れ、旗の糸が夜風にすっと立った。
“来襲”の夜は、静かに更ける。
泣き声は、どこにもない。
でも、明日のための息は、ここにある。
ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。
――続きは、明日。




