第七章 ――芽生え
朝。盆地に白い靄、遠くで鳥が二度鳴いて、風がやわらかく回る。
仮の門は昨夜のうちに骨組みまで立ち、井戸は澄んだ水面を揺らしていた。土はよく眠り、起きる準備ができている。
「畦はこっち、二歩右寄り。そこ“線”が喜ぶ」
ユウゴが写し板と実地を見比べて、先頭の農具隊に声を飛ばす。
「喜ぶってなんだ」と若い男が笑う。
「倒れないってこと」ユウゴは胸を張る。「未来でへし折れてない“線”が見える」
ミレイが杖の先で印をつける。「じゃあ、若いの、印に沿って刻みな。深呼吸、息合わせ」
俺は門柱の根を撫で、柱の重みが土へ正直に落ちる角度を整える。
指先の輪が規則正しく灯り、骨の裏で神律が深呼吸する。
「アーデン、こっち、手伝って」
フィアが袖を引いて、笑う。目の下にうっすら影。昨夜、子どもたちを治して回って、少し寝不足だ。
「寝る?」
「あとで。“つくる”ほうが目が覚める」
彼女は指先を地へ滑らせ、小さな水路を一本、生ませた。
水が音もなく走り、畦の角で止まり、ふっと笑ったみたいに丸く広がってから落ち着く。
「うん、かわいい水」
「水にかわいいは新しいな」
「なんでもかわいいよ。――アーデン以外には“きれい”って言わないけど」
「条項、守れてるのえらい」
フィアは得意げに胸を張り、ついでに俺の前髪をぴょこんと摘まんで整えた。
金の粉が一粒、朝の光に弾ける。
◇
午前の作業の合間に、ユウゴの「基礎訓練」が始まった。見張り台の下、縄を円にして即席の稽古場。
「今日は、ぼくの“声”に合わせて動くやつ。目はつぶってもいい」
「盲目プレイは趣味に合わないけど、やってみよう」
俺は目を閉じる。
「右、半歩――いま」
足が草の起伏をきれいに避ける。
「前、肩だけ落として。左から来る棒、肩で滑らせて――下!」
子どもが振る丸棒が頭上をかすめる。俺は棒の尻だけ指で押して、地面へ優しく寝かせた。
「すご……」見物の子らがどよめく。
「調子に乗るなよ、俺」
「乗っていいよ」フィアが拍手する。「アーデン、かっこいい」
「ありがとう。――と、ユウゴ、次は?」
「いちばん大事なのは“息”。ぼくが数えるから――あ、数えないでいこう。アーデンはもう合ってる」
ユウゴは俺の動きに合わせて呼吸を刻む。
“線”に沿って声が落ちて、そのまま体に入ってくる感じ。
村の若い連中にも役割を振ると、ぎこちなさが取れていく。二人一組の動きが嘘みたいに揃った。
「ユウゴ、いい声だ」
「ほんと?」
「指揮官の声。将来はうるさいタイプだな」
「えっへん」
調子に乗ったユウゴが縄につまずいて前のめりになり、地面にダイブしそうになる。
フィアがひょいっと光の紗で受け止める。
「えへへ、セーフ」
「将来の指揮官、足元見ろ」
◇
昼。
鍋の番はフィア。彼女は「料理、つくるの得意」と胸を張った。
鍋に芋、草、少量の干し肉。最後に――光の粉をひとつまみ。
「それ調味料?」
「“やさしさ”の記憶。すこしだけ入れると、人の舌が安心する」
できた汁は、やさしい。やさしいが――ほんのすこし甘い。
「うまい。……けど、子どもが三杯いきそうな甘さだ」
子どもがすでに三杯目で笑っていた。
ミレイが匙をすすって、目を細める。「年寄りにも悪くないね。歯がなくても飲める」
「成功!」フィアが両手を上げる。
その勢いで帽子もないのに頭を押さえ、俺の袖に寄りかかる。「ご褒美、なで」
「了解」
頭を撫でると、彼女は目を細め――ふっと眉を寄せる。
「……胸、ぎゅってなった」
「どっちの?」
「え、胸って一つ? ――あ、気持ちのほう。さっき、アーデンがミレイさん見て“いい顔だ”って言ったから」
「それは条項に引っかからない」
「わかってる。でも、ぎゅ。これ、“しっと”?」
「たぶん嫉妬」
「嫉妬……覚えた。――やだな。やだって言っていい?」
「言っていい。で、隣に来い」
「もう来てる」
彼女は自分の心拍を確かめるみたいに、俺の袖をぎゅっと握った。
金の粉が小さく浮いて、すぐに溶けた。
◇
午後。
盆地の縁で、土の蜥蜴が群れているのをユウゴが見つけた。
「十六。うち六が突撃、四が回りこみ、二が吠えて脅す。残りは迷ってる」
「迷い組は俺に任せろ。吠え組は……フィア、音をやわらげられる?」
「できる。こわい音、光で包む」
見張りの若い二人には網。ミレイは合図役。
俺は正面に立ち、目を細める。
突撃の六。爪が低く、膝が高い。体が重い。
砂を一度蹴って、前に出る。
肩と肘だけで進路をずらし、互いの巨体をぶつけ、土に寝かせる。
脇で吠えが上がったが、フィアの光が鈴みたいに柔らかく鳴り、音は怖さを失った。
「右、二、落ち葉の下に穴!」
ユウゴの声に合わせ、俺は足を半歩引く。すぐ前を走った蜥蜴が穴に前脚を取られ、体勢を崩したところに、若い衆の網がかかる。
「やった!」
「声は小さく、足は早く」ミレイが合図で口をすぼめる。
回りこみの四は、ユウゴの指示で浅瀬に誘導して足を取らせ、子どもでも引ける軽さになる。
最後の“迷い組”は、俺が掌を見せて一歩近づくと、肩をすくめて逃げていった。
無理に追わない。逃げ道を覚えたやつは、次に争わないことが多い。
終わってみれば、誰も傷一つない。
歓声は出さないが、目と目で笑う輪がいくつも生まれた。
ユウゴが両手を高く上げる。「作戦成功! ぼく、指揮官むい――うわっ!」
また縄に足を引っかけて、今度は見事に転んだ。
フィアが手を伸ばすより早く、俺が襟首を摘んで持ち上げる。
「指揮官、まずは歩け」
「歩く! めっちゃ歩く!」
◇
夕方。
門の梁に仮の布を張り、旗の素を作る。
「国の印、決めよう」フィアが目を輝かせる。「“泣かない”の印」
俺は井戸の輪に触れる。「円」
「うん。輪。――それと“糸”。アーデンがくれた言葉、好き。“金の糸”」
「じゃ、輪の中心を一本の糸が通る。“つながる”“ほどけない”。」
「いい……!」
フィアは空中に光で線を描き、輪の中に金の糸を一本通した。
風に揺れても切れない感じ。見ているだけで肩の力が抜ける。
「王印にする?」
「王?」フィアが小首を傾げる。「アーデン、王する?」
「王、したら君は?」
「女神……えっと、“王妃”? ――あっ、ち、違う、いきなり飛ばした! 今の忘れて!」
「忘れない。重要議題だ」
真っ赤になったフィアが、俺の肩をぽかぽか叩く。「忘れて!」
「じゃ、保留」
「保留……(小声)でも、いやじゃない」
ユウゴが水路の弁の陰から顔だけ出して、「三歩下がって!」
俺とフィアが反射的に下がると、整えたばかりの水が勢いよく噴いて足元を洗った。
「助かった」
「ぼく、役に立つ!」
「立ってる」
◇
夜支度。
見張り台の上で、星のない空を見上げるミレイの横に立つ。
「昼の甘い汁、よかったよ」
「子どもに人気すぎて、貯蔵計画が狂ったな」
「贅沢な悩みだね」
静けさの底で、遠い雲の縁が細く光った。
乾いた電の匂い。
フィアが隣で指を握り直す。
「来る?」
「来る。――雷のやつ、足が速い」
ユウゴが台の下から地図を掲げる。「“線”は明日。夕方かも。焦ってる声」
焦って笑う声。
遠い崖の上、若い影が槍をくるくる回して、こちらの門を見下ろす。
雷牙はまだ名を名乗らない。ただ、速さに自信がある笑いだけ置いていく。
◇
火を小さくし、子どもの寝息が重なるころ。
俺は井戸端で手を洗い、輪に触れる。
フィアが横に座り、膝を抱える。
「今日、また“しっと”したけど、最後はふわって消えた。ね、アーデン」
「うん」
「たぶん、“自分の番がある”ってわかったから。――昼も夜も、手をつないで歩く番」
「君の番は、ずっとある」
フィアはにやっと笑い、俺の肩に額をこつん。
輪が規則正しく灯り、井戸の面に小さく二人分の光が揺れた。
「明日、門を本組みにする。畦をもう一枚。見張りは交代を短く」
俺は手を拭き、立ち上がる。「雷の槍は“音”で脅してくる。怖がっていい。怖がって、動きを早くする」
「了解」
ユウゴが眠そうに目をこすりながら、でも真剣に頷く。「ぼく、声を出す番、増やす。みんなが落ち着く声、練習しとく」
「頼もしい」
風が変わり、盆地の空気が少し涼しくなる。
泣き声は――やっぱり、ない。
でも、泣きそうな明日の気配はある。
それでも構わない。泣くのは悪くない。泣き止ませるのが俺の仕事だ。
「――もう、泣かせない」
小さく言って、門の影をもう一度確かめた。
遠い雷がひとすじ、笑う。
俺も笑い返す。
王でも、英雄でもいい。名前は何でもいい。
ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。
金の糸が、夜風の中でほどけずに立っていた。




