第五章 ――聖域
朝。白い塔の影が短くなる前に、俺たちは街を出た。
地図の端、フィアが丸をつけた“廃聖域”。道はない。草原と低い岩丘が続く。
「右に三歩で小さな穴。落ちると足首、捻挫コース」
ユウゴが前を見たまま言う。
「助かる」
「あと、今日の昼は雨じゃない。雲の色が“固い”。風上から肉の匂い、ゴブリン十。……いや、八。二匹は寝坊」
「寝坊に優しい世界でよかった」
フィアは俺の袖を握って、こくりと頷いた。「眠いなら、今寝る? 肩、貸す」
「君が先に寝る顔してる」
「……じゃ、あとで肩」
そう言って笑うと、金の粉が一粒、朝に溶けた。
丘を二つ越えると、地面の色が変わった。草が薄く、灰の粒が混じる。
風が、墨を少し溶かした匂いを運ぶ。魔律。だけど薄い。古い。
「ここだな」
岩の壁に、半分埋まったアーチ。祠の大きい版。
入口の上に、擦れた文字。ユウゴが指でなぞって目を細める。
「“泣かぬ土に、水を通せ”。……合言葉?」
「泣かぬ土?」フィアが小首を傾げる。「土は泣かない。泣くのは人」
「“泣かせない場所を作れ”の婉曲かもな」
アーチの前に、丸い皿がある。水は干上がっている。
フィアがそっと手をかざすと、皿の縁が金に灯った。
「入っていい?」
「待って。罠」ユウゴが即答する。「一歩下がって、右へ半歩、そこに触れると“開く線”。でも同時に左の天井から――」
上を指さす。ひびの入った岩。
「了解」
俺は皿に指を添え、右へ半歩。光が輪になり、アーチが低い音で割れた。
同時に左の天井が崩れる。俺は手を伸ばし、崩落の“芯”だけを神律で撫でて砂に変えた。音は消え、埃だけが舞う。
「はい、観光名所。安全に」
冷たい空気。内側は細い廊下が続き、壁に古い線刻。
人の背丈より少し高い天井。足音がよく響く。
「“泣かぬ土に、水を通せ”。」ユウゴが呟きながら、壁絵を追う。「畑の溝、井戸、結界の柱……これ、設計図の“読み方”だ」
「ルールが先にあるの、好き」フィアが壁に手を置く。「つくりやすい」
曲がり角。床の石が微妙に浮いてる。
「三、二――いま」ユウゴの声に合わせて跨ぐ。後ろの石がぱたんと沈み、矢が横を走った。
矢の羽が頬をくすぐる。
「アーデン、肌、きれい」
「条項」
「わかってる。“他の女の子に言わない”。アーデンには言う」
廊下の先に円形の広間。中央に円盤が埋め込まれている。
円盤の周りに四つの柱。柱頭に刻まれた記号――水、土、風、光。
床の隙間から、冷たい風が吸い込まれる音。
「中心、触ると“動く線”。でも――」ユウゴが顔をしかめる。「外から来る線も増えた。二……いや、四。速い」
骨鈴の微かな音。黒外套の影が入口のアーチに一瞬だけ立ち、消える。
「魔王軍の目」
「急ご」フィアが円盤へ進む。
俺はその前に、四本の柱の根元を軽く叩く。神律が染みて、眠っていた回路に灯が通る。
フィアが円盤に両手を載せる。
彼女の光が、板の縁に静かに広がった。
「……あ」
フィアの目が少し潤んで、笑う。「やさしい」
線が浮かぶ。円盤の表面に無数の細い道、点、印。
街の設計、用水の流れ、畑の格子、結界の張り方。
そして中央に、名がひとつ。
「“ルミナリア”」ユウゴが息を呑む。「国の名……?」
「音が、帰ってくる」フィアが小さく繰り返す。「“光”と“人の間”。――泣かない国の名前」
胸の奥で、輪がひとつ強く灯った。
五百年分の癖が、骨の芯で頷く。
俺は円盤の縁に指を添え、刻まれた線を撫でた。
水はこう引け、畑はこう広げろ、住は風の通りに合わせろ、城は最後でいい。
守りたいものを真ん中に置け。
言葉ではなく、触れた指に、そう伝わる。
「持ち出せる?」
「うん。写し取れる。――でも、その前に」
骨鈴の音がはっきりする。影が四。
入口の闇から、黒い糸が床を這い、円形の縁へ伸びた。
魔律の“縫合糸”。触れたものを縫い止め、引き剥がす。
「フィア、下がって」
俺は指で床を弾く。光が細く走って、黒糸の根を断つ。
一つ二つは切れたが、三つ目が速い。壁から別の糸が伸び、フィアの足首に絡む。
フィアの肩がびく、と跳ねた。
糸の向こう、アーチの影で、誰かが笑う。低く、乾いて、訓練の笑い。
「“光”、戴く」仮面の声。
「会釈が先だろ」
俺はフィアを抱き寄せ、絡んだ糸の“記憶”だけを摘んで抜いた。形は残るが、意味が消える。
糸はその場で自重に負けて、土に落ちた。
「ちっ」
影の一人が前に出る。身の丈は低いが、指が速い。糸が風の筋を縫い、俺の手首を狙ってくる。
「右上」ユウゴの声。「つぎ、左下、二連」
俺は呼吸一つで手を返し、指を当てる。
光が、白い縫い針みたいに一本。黒糸の交点だけを留め、反転させた。
糸は自分の根へ戻り、送り手の指へ絡みつく。仮面が短く呻く。
「報告優先」
俺は入口の上に目をやる。梁の影に、もう一人。弓ではない。槍。細く、雷の匂い。
――雷牙じゃない。もっと下。若い兵の“真似”。
稽古の槍先が、こちらを試すみたいに震えた。
「外へ出す」
俺は円盤の縁を一度叩き、回路の灯りを“休止”に落とした。
線は暗くなるが、消えない。眠らせただけだ。
フィアが頷く。掌に小さな板が浮かぶ。円盤の“写し”。
「コピー完了。紙より軽い」
「便利」
出口へ後退。
影が追う。
「三体、右壁に跳ぶ。床、二枚目が落ちる」
ユウゴの声に合わせ、俺は床の板を先に外しておく。影は空振りして穴に落ち、糸が乱れる。
廊下を折れ、最初のアーチへ。
背後で骨鈴が強く鳴る。
「増えた。八」ユウゴが息を呑む。「外から二、回り込み」
「出口で挟むつもりか」
「うん。右の崖に別の穴。そこからも来る」
俺は外光の縁に立ち、片手を岩に当てる。
古い聖域の“柱”の根がどこにあるか、骨でわかる。
そこへ光を一本、差し込む。
崩すのではない。回す。
岩肌の“歯車”がごとりと動き、外の地面が一尺沈んだ。
回り込んできた二人が、沈んだ縁で足を取られる。
「退路、確保」
フィアが俺の袖を引く。「アーデン、行こ」
「ユウゴ」
「すでに外へ“線”。左側、風が通ってる小道!」
「任せた」
三人で外へ飛び出す。
低い草の斜面を滑り、岩の影に身を入れる。
背後で、聖域の入口に黒外套が集まる。
仮面がこちらを向き、鎖の先の鈴を一度だけ鳴らした。
――追撃はしない合図。報告を優先か。
空の高いところで、ひゅっと細い電光。笑い声は、まだ降りてこない。
「ふう……」ユウゴが腰に手を当てる。「こ、ここまで来たら、追ってこない“線”。でも、見てる」
「見せたいものは見せた。見せたくないものは――」
俺はフィアの持つ小板に触れ、薄く覆いの光を落とした。「内緒」
丘の陰で息を整え、遅い昼をかじる。
干し肉を小さく裂いて、フィアに渡す。
フィアは一口食べて首を傾げ、俺の手元のパンを見て目を輝かせた。
「それ、交換」
「交渉に強いね」
「アーデンの食べてるの、いつもおいしそうに見える」
パンの半分を渡し、代わりに干し肉を受け取る。
ユウゴはその横で、写し板を覗き込みながら、指で空に線を引いた。
「ここが水の心臓。ここが畑。ここが住。で、ここが――“泣かない場所”の中心」
指が止まった場所は、丘と川が抱き合う盆地。
風の通りが柔らかく、土の色が濃い。
「行ける距離?」
「三日。道を作らないなら五日。魔王軍の線を避けると七日」
「七日か」
「でも、ぼく、近道の線も見える。夜に半日、川沿いを“静かに”行けば、一日縮む」
「夜の川は危ない」
「アーデンがいる」フィアが当然みたいに言う。
そう言われると、背骨の神律がまっすぐになる。
「決まりだ」
写し板を布に包み、胸の輪に触れる。
輪は規則正しく灯り、指先が少し熱い。
「名、先に決めちゃう?」フィアが笑う。「“ルミナリア”。呼んでみたい」
「呼ぶのは自由だ。看板は……勝ち取る」
「勝ち取る、すき」
フィアが俺の肩にこつんと額を当てる。軽い。
ユウゴがにやにやしながら、こそこそと“国名案”を紙に書き始める。
「候補:ルミナリア、泣かない国、きらきら王国――」
「最後は却下で」
「ですよね!」
陽が傾き始めたとき、丘の上で骨鈴がまた鳴った。
仮面の影が二つ、遠巻きに立っている。
報告は済んだ顔。距離を測る眼。
空の縁で、雷が細く一本、笑いの形に曲がった。
「来る」ユウゴが呟く。「“速い線”。若い。焦ってる」
「雷の槍」
指先に、乾いた電の匂いが触れる。
今日は来ない。投げた視線だけ置いていく。仕掛けるのは――明日か。
「なら、今夜は先に進む」
俺は立ち上がり、二人の手を取った。
フィアの手はあたたかく、ユウゴの手は少し汗で滑る。
丘の影から川沿いへ出る。群青が濃く、金の雲が低い。
歩きながら、フィアが小さな声で言う。
「……アーデン」
「ん」
「さっきの円盤、たくさん“守りたい”って言ってた。畑、水、家、道、光、笑い声。――ぜんぶ、守れる?」
「全部は無理でも、“いまここ”は守る」
「いまここ」
「そうやって、増やす。点を線に。線を面に。泣かない場所を、地図に増やす」
フィアは目を細めて、うん、と頷いた。
「じゃあ、泣かない。……でも、アーデンが倒れたら、泣く」
「倒れない」
「うん。倒れても、起こす。つくるのは得意」
ユウゴが前を向いたまま、手を上げる。
「左側、石の橋。古い。三人同時は危ない。順番――ぼく、最後」
「順番守るの偉い」
「ぼく、命を大事にするタイプ!」
橋を渡り、葦の間を抜ける。
夜の鳥が一度だけ鳴き、風が川面を撫でる。
遠くで、雷の笑いがまた細くひとつ。
俺は振り向かない。
振り向くより先に、前の線を太らせる。
川べりの砂地で、短い休憩。
ユウゴが火を起こしかけて、慌てて手を止める。「あ、だめだ。火、見える」
「偉い」
「代わりに、星の話する?」
「この空、星が“深い”から、話が長くなる」
「じゃ、短く。“明日も、生きる”」
「それでいい」
フィアが俺の肩に寄りかかって、目を閉じる。
金の粉が、夜気に混じって、すぐ溶ける。
泣き声はない。
胸の輪が、静かに、でも確かに灯り続ける。
地図の上で、まだ名前のない盆地が、うっすらと光った気がした。
そこに、笑い声を置く。
そこに、初めの畑を。
そこに、帰る灯りを。
――ルミナリア。
呼んでみるだけで、背骨がまっすぐになる名前だった。




