第四章 ――契り
白い塔のふもとの市は、昼の音でいっぱいだった。
魚を揚げる音、鍋の蓋が踊る音、商人の声。泣き声は――やっぱり、ない。
ただ、誰かが笑いそうになる直前の、少しだけ弛んだ空気。
「ごはんっ」
フィアが屋台の匂いに引っ張られる。手は離さない。
串焼きを二本。片方を渡すと、フィアは一口で半分なくして、目を丸くした。
「……おいしい。アーデンの世界のより、おいしい?」
「地球の屋台は油が勝つ。ここは香草が勝ってる。勝負にならない」
「勝ってるのは、いま。じゃあ、いまの方が好き」
あっさり言って、にこっと笑う。金の粉が、串の先でぽんと弾けた。
食べながら広場の端、塔の影に入る。人目が少ない。
フィアがぺたんと石段に座り、俺の袖をちょんと引く。
「ねえ、アーデン」
「ん」
「契約、しよう。――約束。あなたがわたしを守る。わたしがあなたに、つくる力を渡す。二人で、泣かない場所をつくる」
石段の冷たさが、少しだけ減った気がした。
俺は隣に座り、指を組む。
「簡単に言うね」
「簡単が好き」
「俺も」
フィアが胸に手を当て、そっと目を閉じる。
神律が、彼女の内側でやわらかく鳴る。春の音。水の音。
次の瞬間、俺の手首に温かい輪がひとつ刻まれた。見えない輪。触ると、少しくすぐったい。
「これで、つながった。あなたの光、前より強くなる。つくる計画、やりやすくなる」
「計画?」
「うん。町よりも大きい“場所”。泣かない国。名前はあとで考える」
「急いで決めるもんでもない」
言ってから、俺はもう一度、輪の感触を確かめた。
骨が軽い。呼吸が深い。世界の輪郭が、半歩近くなる。
「代わりに」
俺はフィアを見る。「君は俺の後ろに隠れる。無理はしない。泣きたくなったら、泣いてもいい。泣き止むのは俺の仕事」
「……うん」
フィアはこくんと頷き、すぐに首を横に振った。「でも、今は泣かない。契約したから。……それから」
「それから?」
「アーデンは、他の女の人に、あんまり“きれい”とか“好き”とか言わないこと」
「契約条項、増やすの早くない?」
「重要。――だって」フィアは俺の腕にぎゅっと抱きつく。「わたし、すぐ、こうなる」
「自覚があるのは強みだな」
腕に乗った重みは軽いけど、離れない。
塔の影が少し動いて、昼が午後に寄る。
そのとき、広場の向こうで悲鳴。
人垣がざわっと割れて、少年が転がり出た。
背の半分くらいの本を抱え、片手に木の杖。額に汗。目は――やたら先を見ている。
「右二歩下がって!」少年が叫ぶ。
次の瞬間、屋根の上から石が落ち、少年がいた場所で砕けた。
人垣がひゅっと引く。
石と一緒に、緑の影が三つ降りてくる。ゴブリン。市場の匂いに釣られたか、あるいは――
「囲まれる。三、二、――いまだ、左!」
少年は自分で言いながら、反対に走って樽にぶつかった。「痛っ!」
フィアが袖を引く。
「助ける?」
「もちろん」
俺は少年とゴブリンの間に入り、最初の一匹の手首だけを軽く弾いた。槍が回って地面に刺さる。
少年の声が背中で続く。「その槍、次に拾うのは一番右の個体。そこ、足払い」
「了解」
言われた通りに足を滑らせると、右端の一匹が自分の槍に絡まって転んだ。
残りの二匹が同時に突く。
「同時は――同時に受けない」俺は肩をずらし、二つの刃の間に指を入れて、互いの刃をぶつけた。金属音。
ゴブリンは目を白くして、尻もちをつく。
少年が本を抱え直し、こちらに頭を下げる暇もなく、屋根の上から別の影。
「上、二つ。跳ぶ前に、左の瓦がずれる。――あ、ずれた!」
足場が崩れ、影が自分で落ちる。俺はその着地点だけ、指で押さえて柔らかくしておいた。
「助かった!」少年が息を切らす。「やっぱりいた! “光のひと”!」
「観光客だよ」
「観光じゃない。運命の分岐点。さっき視えた」
少年はまばたきを早くして、フィアを見て――目を丸くする。「小さ……神さま?」
フィアは胸を張って、しかし腕は俺に絡めたまま。「うん。フィア」
「ぼ、ぼく、ユウゴ・アマセ! 悠悟のユウゴ!」
「悠悟、いい名前」
「ありが……はわっ、後ろっ!」
見なくても、背中の空気でわかる。
振り向かずに手を伸ばし、来た影の鼻先をつつく。光が点る。影は眠る。
市場の警備が遅れて駆けつけ、残りのゴブリンを縄で引きずっていく。
人垣が少しずつ戻り、屋台の音がまた増えた。
「君、視えるのか」
俺が問うと、ユウゴはこくこく頷いた。「ときどきだけど、未来の“線”。神律のにおいが強いと、線が濃くなる。だから――あなたのそば、すっごく濃い」
「鼻がいいのか、目がいいのか」
「両方! でも足はついていかない!」
言った直後、転びそうになって、フィアの手を掴んで持ち直す。
フィアは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。「うん。かわいい。採用」
「採用?」
「うん。アーデンの“国づくり”に、案内人がいる。未来を少し先に読む目。――ユウゴ、来る?」
「い、いいの!? ぼく、役に立つ? あ、でも、荷物持ちなら超自信ある。重たい本も毎日持って……」
「戦いは?」
「か、掛け声は得意!」
そこは胸を張るところじゃない。
俺が苦笑すると、ユウゴは慌てて続けた。「でも、ぼく、逃げ道とか、近道とか、“勝ち目のある方角”はわかる! 視えた“線”を繋げるの、得意!」
「なら十分」
「やったぁ!」
ユウゴが喜んだ瞬間、塔の影がかすかに震えた。
空の高いところで、ひゅっと光。細い槍の線。雷の匂い。
誰かが、早口で笑う。
「……見られてる」ユウゴが小声で言う。「“線”の上から。雷の人。落ち着きない、若い声」
「大丈夫」フィアが俺の腕にぎゅっと巻きつく。「アーデンがいる」
「過信はだめ。でも、守るよ」
俺は塔の上を一度だけ見て、視線を戻す。
見上げるばかりだと、足元をすくわれる。
「じゃ、まずは宿。次に地図。――あと、君の本の入る鞄」
「うん! あ、ぼく、お金ちょっとだけある!」
ユウゴが腰の袋を誇らしげに叩く。じゃら、と鳴る。「銅貨十五枚!」
「頼もしい資本家だ」
三人で路地へ入る。
歩幅は俺、半歩後ろにフィア、さらに半歩後ろにユウゴ。
フィアがときどき足をもつれさせ、俺の袖を引く。離れない。
ユウゴはそのたびに「左に段差」「次、猫」「角、魚臭い」などと実況して、たまに自分で猫に驚いて尻もちをつく。
宿の前で、ユウゴが急に真面目な顔になる。
「……ねえ、アーデン。その契約、ぼくも入っていい?」
「ユウゴ」
「ぼく、視えたんだ。ちょっと先の道。三人で歩いてる“線”は、太かった。二人のは、もちろん綺麗だけど、三人の方が――あったかかった」
フィアが俺を見る。俺もフィアを見る。
答えは、最初から決まってる。
「条項は簡単」俺は手を差し出した。「俺が守る。君は前を指す。ときどき背中を押す。逃げる時は大声で言え」
「ぼく、叫ぶのは得意!」
「あと、夜更かしはしない」
「がんばる!」
「それから――」
横から、フィアの手が俺の手に重なった。「アーデンは、他の女の子にあんまり“きれい”って言わない」
「そこは強いな」
三人分の手が重なる。
瞬間、胸の奥で神律がひとつ重なり、宿の看板がきい、と鳴った。
世界の輪郭が、もう半歩、近くなる。
「契約」フィアが小さく宣言する。「三人。泣かない国、はじめます」
宿に入る前、通りの向こうで、骨鈴の小さな音。
黒い外套の影が二つ、角を曲がって消えた。魔王軍の“目”。
ユウゴが眉をひそめる。「追ってくる線、細いけど、切れない」
「切ればいい」俺はドアを押し開ける。「切り方は、飯のあとで考える」
木の匂い、煮込みの匂い、湯の音。
部屋を借り、荷物を置き、地図を広げる。
白い塔から広がる街道、その先の荒地、さらに先の廃墟。
フィアが指で廃墟に丸をつける。「ここ。昔、“聖域”。つくる設計図、眠ってるかも」
「設計図?」
「うん。国の。結界とか、水路とか、畑の広げ方とか。――つくるの、得意だけど、ルールの方は、昔の方が詳しい」
「じゃ、そこだな」
行き先が一つ決まるだけで、部屋の空気が軽くなる。
ユウゴが地図の隅にちいさく“泣かない国”と書いた。字が丸い。
夜。
窓の外で、雷が遠く一度だけ鳴った。
誰かの笑い声は、もう聞こえない。
宿の静けさの中、フィアは俺の腕に頬をくっつけたまま、すうっと寝息を立てた。離れない。
ユウゴは床の本に顔を突っ伏して眠っている。よだれで字がにじむ。
俺は起こさないように、そっと布をかけた。
胸の輪が、規則正しく灯っている。
五百年ぶりに――何かが、はっきりと「始まった」と思えた。
「――ここからだ」
窓の外、群青は深いまま。けれど、金の雲がひとかけら、夜の端に浮かんだ。
泣く音は、もうどこにも、なかった。




