第二章 ――彷徨
朝、空は群青のままで、雲だけが薄金に流れていた。
眠ってはいない。地面に横になって、星のない空を一晩見てただけだ。
「地図なし、宿なし、所持金ゼロ。観光ってやつだな」
立ち上がって草を払う。風が匂いを運ぶ。水、樹、土。それから少し――血。
丘を降りると道があった。石畳じゃない、踏み固められた獣道。車輪の跡が新しい。
叫び声。
前方で、壊れた荷車が横倒し、緑の影が五、六、いや十。短い槍、黄の瞳、尖った耳。
「ゴブリン。どこの世界にも就職先はあるか」
荷車の裏で男が盾を構えていた。女の子を庇って震えている。
影の一匹が跳んだ。俺は一歩だけ出る。
「順番」
指先が軽く鳴る。ぱちん。
光が細く走って、跳んできた一匹の顎が空で止まる。静かに地面へ倒れた。
「お、おまえ……」
「通りすがり」
俺は肩を回し、続く群れに向き直る。「では、一列にどうぞ」
短い息。足音。
十数歩の間に、影は土へ変わった。神律が骨に染みている。力む必要はない。
最後の一匹が槍を投げる。風を切る音。俺は首を少し傾けて、それを後ろの大木に預けた。
「怪我は」
「な、ない……娘も」男が女の子の頭を押さえる。「助かった。あ、あんた……光ってる?」
「朝日が似合うタイプで」
冗談を置いたら、男の顔が引き攣った。女の子が父の袖にしがみつく。
「魔族か? いや……でも、その目……」
男は腰の小袋を掴み、銅貨を三枚、俺の足元へ投げた。「これで……」
「いらない」
俺は手を振る。「荷車、直そうか?」
「近寄るな!」男が叫ぶ。
女の子もつられて泣き出し、俺を見ないまま、森へ駆け込む道を選んだ。男も追う。
草の擦れる音が消え、風だけが戻る。
「……そうなるよな」
足元の銅貨が朝の光で赤くなる。拾わず、荷車を立て直し、道の脇へ寄せてから歩き出した。
五百年。人に歓声で呼ばれた時間より、こういう沈黙の方が長かったのかもしれない。
昼。川沿いに出る。
水面は鏡みたいに静かで、俺の顔を薄く歪めた。
そこに映るのは、肩に泥、頬に小さな切り傷、目だけがやけに冴えている男。
「王殺しの裏切り者、ね。肩書きは派手だ」
石を拾い、指で弾いて水切りする。跳ねた波紋が重なって消えた。
視界の端に、昔の顔が流れる。大剣の男、聖女、弓手。笑っていた頃。
その向こうに――弟。
静かな目、よく本を読む、一歩引いて支えるやつ。名前を呼ぶと、いつも少し遅れて振り向く。
『兄さん、正面を見て。背中は、ぼくが見てるから』
声が胸を擦る。
ヴァレン。いまは別の名を持つ男。
「魔王か」
空へ吐き出す。声は風に薄く切れた。
午後、草原を抜け、小さな村に着く。
石垣と木の柵。門は半分壊れて、煙の匂いが残っている。
柵の内側で、影が蠢いた。ゴブリンより背が高い、灰色の皮膚、骨の槍。牙が黄色い。
二十。家の中にもいる。泣き声はない。生きてる気配は――ひとつだけ、地下。
「騒がしくするなよ」
俺は門柱を蹴った。木が軋む音に、灰色の影がこちらへ振り向く。
次の瞬間、柵の上に乗っている俺と、影の首筋に伸びた指。
神律が指先で点る。点が線になり、線が輪になる。
輪が閉じると、影が崩れた。
「…….」
残りは走る。
俺は走らない。踏み込み、肩をずらし、腕だけで風を切る。
土と灰が混じって跳ね、音だけが忙しくなる。
最後の一匹を地面に寝かせ、耳を澄ます。地下で、誰かが喉を押し殺している。
「大丈夫」
床板を捲る。階段。湿った空気。
降りる前に、家の前へ米袋と乾いた毛布を置いた。台所から拝借。生きてるなら、腹は減る。
地下の扉を叩くと、棒が外れる音。
覗いた瞳が俺を見て、すぐ消えた。
扉の向こうから、くぐもった声。「……神さま?」
「いや、通りすがりの観光客」
扉を半分開け、姿を見せないように食べ物の場所だけ告げる。「外は片づけた。出るのは日が落ちてからの方がいい」
「あなたは?」
「俺は行く」
「……ありがとう」
扉がまた閉まる。
その音に、少しだけ胸が軽くなった。けど、村の別の家の窓の隙間から、鋭い視線が刺さる。
黒いものを見る眼。
俺は何も言わず、門を背にした。
道を南へ。
夕刻、風の色が変わる。乾いた草の香りに混じって、墨を溶かしたような匂い。
魔律。
この世界の闇の理。空気にうっすら混じるだけで、鳥が飛ぶのをやめ、虫が鳴くのをやめる。
「兄弟で趣味が違いすぎる」
匂いを追って、崖の上へ出る。下は窪地。焚き火。粗末な旗。黒地に白い縦線。
ゴブリンが群れ、骨の槍を揃えて訓練している。号令を出すのは、背の高い影。人型。仮面。
魔王軍。
なるほど、組織されて動いてる。
俺は崖から飛んだ。
足が土を踏む音と同時に、焚き火が消える。
風が止まり、影だけが多くなる。
仮面の指揮役が手を上げると、地面から黒い棘がせり上がった。魔律の杭。
俺は手を伸ばし、光を一本、杭の根に差し込む。
黒が白に変わり、杭は砂になって崩れた。
「魔術に白砂糖を足すと、甘すぎるんだよ」
誰にもわからない冗談を一つ置いて、俺は群れを散らした。
終わるまで、数も時間も数えない。数えたくなるような戦いじゃない。
仮面の男だけが最後に残って、こちらを見た。
仮面の内側から、低い声。「……光の理。報告する」
「上司は大事にね」
男は背を向け、影に溶けた。
追わなかった。追えば繋がる。繋がれば、兄に近づく。
まだ、胸の中で何かが固まっていない。
俺は焚き火の跡に火を戻し、窪地を出た。
夜。
川のほとりに腰を下ろし、星のない空をもう一度見上げる。
この世界には星がないわけじゃない。ただ、雲がいつも薄金で、群青が深すぎて、光が目に届きづらい。
――ぽつん。
耳の奥で、水音。
涙が落ちる音に似ている。子どもの、浅い息。
昼間も、門を出る瞬間にも、確かに聞いた。
「どこだ」
立ち上がって音の方へ歩く。森の入り口。白い樹皮の並ぶ小さな道。
足元に丸い石が三つ。誰かが並べて置いた祈りの形。
指で触れると、温かい。
掌に、金色の粉が一粒、ふわりと乗った。光る。
手を離すと、風に溶けるように消えた。
「……幻覚でも、質がいい」
森の奥から、枝の弾ける音。
走る。
狼の群れが飛び出す。普通の狼じゃない。背に骨の棘、目が暗紫。魔律が皮膚の下で泡立ってる。
俺は地面を蹴り、最初の一匹の額に軽く指を当てた。
光が点。
狼は眠るみたいに崩れた。
「道、借りるよ」
群れは道を開けない。だから俺が作る。
草と骨の匂いを切り分け、樹と樹の間を真っ直ぐにつなぐ。
森の奥、石の祠が見えた。半分崩れて、蔦が絡む。
祠の前に、古い布が一枚。その上に、ちいさな足跡。裸足。
しゃがんで、指を添える。温度が残っている。
さっきの金の粉が、また一粒、空から降りて、俺の親指にとまった。
笑っている顔が、脳裏に薄く浮かぶ。金色の髪。涙で潤んだ瞳。
だが、姿はない。声だけが、森の息の中に混じって消える。
「泣くな……って、言えたら楽なんだけどな」
祠の上に、夜が降りてくる。金の雲が枝に絡み、群青が深くなる。
俺は祠の前で背を壁に預け、目を閉じた。眠らない。目を閉じると、音がよく届くから。
川の音、木の鳴る音、遠くの梟。
そして、もう一度――ぽつん。
涙の音。
「明日、会えるか」
問いは夜に吸われ、答えは来ない。
でも、胸の神律が静かに頷いた気がした。
誰かがいる。
この世界のどこかで、小さな誰かが、泣きながら、それでも光をこぼしている。
――守る。理由はいらない。俺にはそれしかない。
夜明け前、森の向こうで、雷のような唸りが一度だけ鳴った。
大きな何かが近づいている。魔王軍か、野生の竜か。
俺は立ち上がり、祠の布をそっと整えた。
「行ってくる。すぐ戻る」
誰にともなく言って、森を出る。
東の空が薄く明るむ。群青が一段、淡くなる。
遠くの丘の上に、白い塔がまた見えた。尖端に、金の糸。
昨日と同じ、でも少し近い。
丘を駆け上がる。
見下ろす谷に、黒い旗と甲冑の列。角笛。魔王軍の斥候が村を囲んでいる。
村の柵は別の村。昨日の場所とは違う。煙はまだ上がっていない。間に合う。
「さて」
俺は両手を軽く振り、息を整えた。
心臓の奥で神律がひとつ脈打つ。
五百年分の癖が、また背骨に戻る。
「もう泣かせない」
誰かのために言った言葉は、風の中ですぐ薄くなった。
でも、薄くなる前に、ちゃんと届いた気がした。
――金の粉が、朝日に混じってきらめいた。




