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第十五章 ――遠い声(エピローグ)

朝。旗は輪の真ん中で金の糸を立て、風はやさしく通る。

 門の内側、あぜは二枚増え、井戸は水面を澄ませ、避難路の石は踏まれて角がまるくなった。

 子どもは縄の上を飛んで遊び、若いのは網の結びを競い、ミレイは杖で「結び目、甘い」と三度言って二度褒める。

 泣き声は――ない。代わりに、鍋の蓋がこつんと鳴る音。


「王さまー!」

 小さな子が走ってきて、俺の腰に抱きつく。

「王じゃない。――“アーデン”で」

「じゃ、アーデン王!」

「強い」


 ユウゴが紙束を抱えて転げ込み、のけぞる。「書類ぃぃ! “見張り番の交代表”“畑の当番表”“冗談の担当表”――最後なんだ」

「重要職だろ」

「ぼくの首が飛ぶ!」

「首は飛ばさない」

 笑いながら受け取って、印を押す。印は輪と糸。

 押すたび、胸の下で輪が小さく鳴る。


「……アーデン、髪」

 ふっと、耳の奥で声。蜂蜜の光の温度。

『前髪、右に一本。寝癖。王の寝癖、かわいい』

「条項」

『守ってる。“アーデンだけ、きれい”。――それと、今日は肉、焼きすぎないで』

「了解。寝てなさい」

『寝てる。――でも、しゃべるのは反則じゃない』


 塔の麓の聖域せいいき

 薄いとばりの奥、フィアは眠っている。

 幼い輪郭のまま、胸は静かに上下し、髪は光の糸にほどけて布に流れている。

 眠りは重い。けど、声は、ここに届く。


『ねえ、アーデン』

「ん」

『王妃、って、いつ決めるの』

「その話は君が起きてから」

『いま起きたことにしてもいい』

「寝てろ」

『ふふ。――“しっと”、今日はゼロ』


 フィアは“昇った”あと、一度だけ笑って、眠った。

 光の芯を太くするかわり、身体は休む。

 約束の通り、彼女は隣にいる。声で、糸で、手の感触の記憶で。



 正午。

 集会。輪の印の上で、人が座る。

 レーヴは地図を広げ、畦の次の筋を指で描く。「西の丘、開きたい。水がほしい」

「井戸の脈、一本分ける」

 俺が言うと、ユウゴが「“線”、太い。風上のにおいがいい」と即答する。

 ミレイが杖で印を打つ。「決まり。若いの、午後は杭を打つ」


 縄の向こう、玉座。

 黒は黒のまま、角だけ金の結びで留められている。

 ヴァレンはそこにもたれ、遠い空を見ている。

「兄さん。――退屈」

「寝てろ」

「寝つきが悪い体質でね」

 彼は指を一度だけ動かし、網の上の雷牙らいがを顎で示す。「弟子はどうする」

「弟子?」雷牙が笑う。「兄ちゃんの弟子はもういっぱいだろ」

「囚人は静かに」ミレイがぴしゃり。

 雷牙は素直に口をつぐみ、次の瞬間「でも、王の護衛の席が空いてる線」と小声で付け足す。

「まずは縄を解けること」

「その線、薄い!」


 ヴァレンは横目で俺を見て、口角をちいさく上げる。「王殺しの看板、まだ返さない。……いつ取りに来る」

「看板はいらない」

「礼はする。家族の礼」

 彼は静かに目を閉じ、「面倒な兄さん」と定型句を落として、鷹揚おうように眠ったふりをする。

 結びはやさしい。ほどけるけど、ほどかない。



 午後。

 門の柱の裏に“静かな梯子”を一本増やし、避難路の石に“戻る矢印”を薄く刻む。

 子どもに合図を復唱させ、ユウゴの声が輪に乗る。「二短一長! はい、“戻る”!」

 声は財産。国の声は、だれの口からも出せる。


『アーデン』

 眠りの帷の向こうから、ふっと笑い声。

『“笑いの当番”、今日は誰』

「ユウゴが自薦」

『うん、適任。……ねえ、もう一個反則していい』

「どうぞ」

『すき』

「三回目だ。ずるい」

『条項停止中』


 フィアの声を聞いていると、胸の輪が深く鳴る。

 “祝名いのりな”――彼女が縫い付けてくれた薄い輪は、名を落ち着かせる。

 黒い文字は滑り、貼り直そうとしても、笑い声の方へこぼれる。



 夕方。

 門の梁に小さな旗をもう一枚。

 輪の真ん中に、金の糸。

 下には簡素な板――“ルミナリア”。

 誰かが声に出して読んで、照れ笑いし、もう一度読んで、今度は胸を張る。


 畑では第一期の芽が顔を出し、井戸では水番が交代の印を木に刻む。

 各地から、少しずつ人が流れてくる。

 隣の谷の鍛冶、遠くの森の薬師、歌だけを持って来た旅人。

 誰も泣かない。泣きたいやつは、笑ってから泣く。


「王」

 ミレイが杖で俺の足を小突く。「“玉座”の位置、決めよう。門の正面じゃ落ち着かない」

「そうだな。――井戸の光が入る場所に。どこからでも声が届くほうがいい」

「椅子は?」

「硬いのでいい」

『柔らかいクッション、わたしがつくる』

「寝てろ」

『やだ。王の腰、大事』


 ユウゴが帳面に“臨時玉座:井戸の東・高さ一段”と丸い字で書き足す。

「ぼく、明日から“王の声”の練習も入れる。でかい声じゃなく、届く声」

「将来、うるさい王佐になるな」

「なる!」



 夜。

 火は小さく、旗は黒に溶け、金の糸だけが静かに立つ。

 見張りは三人一組。

 遠くの丘の上、黒い天蓋の影はもうない。ただ、星のない空が深い。

 玉座は地に残り、結び目はやさしく締まっている。


 縫いの部屋。

 フィアは眠る。

 椅子に腰をかけ、俺は掌を布に置く。温度は静か。呼吸は規則正しい。

 ユウゴがそっと入ってきて、囁く。「ぼく、明日も声、出す。王の代わりに。――アーデン、眠れる?」

「眠れる。……たぶん」

「嘘」

 ユウゴは笑って、紙を一枚置く。“泣かない国・当番表(改)”。

「“泣かない番”ってなんだ」

「子どもの夜泣き対策。泣いてもいい日にする係」

「それは重要職だ」

「うん」


 ユウゴは出て行き、部屋は静かになった。

 フィアの寝息と、輪の灯。

 俺は額を布に近づけ、小さく言う。


「――ここから、守る。ここから、増やす。ここから、笑う。泣かせない。

 君が起きる日まで。起きてからも、ずっと」


『うん』

 声は柔らかく返ってくる。眠っているのに、返ってくる。

『ねえ、アーデン。わたし、眠ってるあいだ、いくつか“道”を探す。――国が、笑って増える道。あなたの名を守る道。弟を、帰す道』

「任せた」

『任された。……キス、もう一回していい』

「寝てろ」

『ふふ、反則』

 息を合わせて笑う。

 金の糸が、小さく震え、ほどけずに立った。



 ――数日後。

 門の外、列が伸びる。

 荷車は軽く、顔は重くない。

 “泣かない”の噂は遠くまで届いた。

 旗の下で、名を名乗る声は、みな、少し誇らしい。


 臨時の玉座に座って、俺は書類と人の顔を同じ順番で見る。

 ユウゴは横で声を重ね、ミレイは杖で列を整え、雷牙は縄の中から「もっと効率!」と囁いてミレイに怒られる。

 ヴァレンは玉座の縁で半眼のまま、遠い風の匂いを嗅いでいる。


『アーデン』

 耳の奥で、やさしい声。

『“嫉妬”、今日は……一回』

「誰に」

『王座。――あなたを取られた気がして。変だね。椅子なのに』

「かわいい」

『条項、守ってる』


 夕刻、旗が金に染まるころ。

 丘の縁に、黒い影がひとつ。

 鈴も鳴らさず、ただ見て、去る。

 無玄か雪音か。あるいは別の“目”。

 俺は追わない。

 追うより先に、国の輪郭を太らせる。


 夜。

 井戸の面は星のない空を映し、畦は土を抱く。

 子が寝返り、火が小さく鳴り、旗がわずかに立つ。

 フィアは眠る。

 だが、声は、ここにある。


『アーデン』

「ん」

『“王妃”の件、ほんとに、起きてからでいい?』

「いい。……でも、起きたらすぐ、言わせる」

『言わせる?』

「“すき”。こっちから」

『反則返し。待ってる』


 胸の輪が、規則正しく鳴る。

 泣き声は、ない。

 けれど、泣いてもいい日も、きっとある。

 その日も、ここで止める。ここで笑う。ここで、名を守る。


「――アーデン王!」

 外で、子の声。

「はいはい」

 立ち上がる。

 旗が真っ直ぐ。

 “ルミナリア”の名は、土の底で、息をしている。



 ――遠い、遠い場所。

 光の届かないきざはしの奥。

 白でも黒でもない影が、ひとり、眠る小さな女神を眺めていた。

 とばりの向こうの、そのまた向こう。

 目は笑わず、口角だけが薄く上がる。


「――姉さま。ほんとうに、つまらない」


 その声は、どこにも届かず、しかし確かに、ここから始まる“別の糸”を鳴らした。

 誰も泣かない夜の、さらに奥。

 金の糸はほどけない。けれど、影は、笑う。


 次のページは、まだ白い。

 ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。

 そして――だれも、泣かせない。

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