表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/15

第十四章 ――昇華

 空の黒がほどけ、玉座が遠くへ引こうとする。

 胸の真ん中に刺さった“名の針”が、呼吸のたびにひゅっと鳴る。

 旗の金糸は細く立ったまま、風もないのに震えていた。


「“声3”――『ここで止まる』!」

 ユウゴの喉が掠れる。輪の下で、人の足がじん、と踏む。

 縄の中の雷牙らいがが顔だけ上げる。「兄ちゃん、生きて! 次、もっと楽しく!」


「もちろん」


 笑いは間に合ったが、体は半拍遅い。

 黒い譜面が、また胸の名を舐める。息が浅くなる。


 そのとき――指先に、蜂蜜のぬくもり。

 フィアの手が、俺の手をぎゅっと掴む。泣き顔じゃない。

 幼い輪郭の奥で、光だけが古く、深く、静かに増えていく。


「アーデン。――“上へ”行く。すぐ戻る。約束」

「迎えに行く」

「うん。……条項、今は停止。反則する」


「反則?」

「すきって言う」


 彼女は笑って、指をほどく。

 髪が一筋ずつ金の糸に変わり、旗の金糸と絡み合って天へ伸びた。

 輪が、空ごと息を吸う。

 フィアの身体はほとんどそのままなのに――“音”が変わる。

 足音が消え、かわりに、水や土や人の呼吸がぜんぶ“彼女の方”へ自然に寄っていく。


「――戻った。わたし、“本来”の音」

 声は小さいのに、盆地の底まで届いた。

 幼さも残る。けれど、目の奥に“年代記”が灯っている。


 玉座のとばりが、わずかにきしむ。

 ヴァレンが指を鳴らし、黒い文字で空のを塗り替えようとする。「やめなさい、“芯”。君の光は、僕の譜でも鳴る」


「鳴らさない。――返す」


 フィアの指先から、金の糸が一本、まっすぐ降りた。

 俺の胸の“針”にふれる。

 ふれただけで、針が痛みを思い出して震え、すぐ、外へ。

 胸の中の“アーデン”という名に、薄い金の輪が一つ、書き足される。


「――“祝名いのりな”。あなたの名は、あなたのもの。わたしが保証ほしょうする」


 輪が、胸の下で深く鳴った。

 肺がひらく。目の前が近い。土の匂いが、やさしい。


 ヴァレンの目が、初めて少しだけ細くなる。「面倒くさい」

「幼い頃から、面倒見るの好きなんだ」

 俺は笑い、フィアに顔を向ける。「行ける?」

「行ける。――最後に、反則もうひとつ」


 彼女は片足で地を蹴り、俺の頬へ、すっと背伸び。

 軽い口づけ。

 名を縫い止める印みたいに、短く、やわらかい。

 蜂蜜の香り。

「アーデン。すき」

「知ってる。――俺も」


 輪が、はっきりと“面”にひろがった。

 旗、門、井戸、畦、避難路、人の手、人の声――ぜんぶが一本ずつ紐で結ばれる。

 フィアの金糸がその紐を持ち、俺の骨に渡す。

 “泣かない国”が、俺の足に速度をくれた。


「兄さん」

 ヴァレンが笑って片手をあげる。「じゃ、奪う量を増やす」


 玉座の脚が地の“名”を丸ごと掬い、盆地の輪郭が一度浮く。

 黒い譜面が“人の声”を引く。怒鳴り、恨み、泣き――遠い街の“濁り”がここへ呼ばれる。


「“声3”!」ミレイが杖で印を打つ。「『ここで止まる』!」

 ユウゴが続ける。「『ここで止まる』! ――“声は財産”!」


 輪が踏ん張る。

 濁りは来る。けれど、留まらない。旗の金糸が音を選ぶ。

 フィアが指をひらりと動かす。「“泣き”は、ここじゃ食べさせない。――“笑いの方へ”」


 黒い譜面が、いくらか滑った。

 ヴァレンは舌打ちをひとつ落とす。「じゃ、手」


 帷の陰から、無玄が半歩。

 槌が“意味”を抜こうと下がり、雪音が杖先で温度を奪う。

 が――その前に、雷牙が縄の中で叫ぶ。「兄ちゃん、“右上”! 空の角、捻られてる!」


「助言、感謝。囚人の特権だな」


 俺は旗から井戸へ“紐”を掛け、紐を足にして玉座へ跳ぶ。

 掌で黒い譜面の角を“元の色”へ戻し、槌の軌道は“記憶”ごと遅らせ、氷の名はフィアがひと撫でで春へずらす。


「ひとつずつ、返す」

 俺はヴァレンの正面、玉座の前に立つ。

「兄弟喧嘩のやり方、覚えてるか」

「もちろん。――最初に名前を取る」


 ヴァレンが指を弾く。

 黒い文字が、俺の肩口に吸い寄せられる。

 だが、肩の上で“祝名”がぴんと立ち、金の輪が弾く。

 文字は滑り、土へ落ちて、ただの影になる。


「じゃあ、今度は僕の名を使う」

 ヴァレンは自分の胸に手を当て、淡々と言った。「“イツキ”。名を、喰わせる」


 黒い譜面が玉座の脚から滲み、盆地の“姓”へと絡みつく。

 ――ルミナリアの音が、一瞬だけ曇った。


「返す」

 俺は指を鳴らし、輪の灯を胸に落とす。「“返名かえな”――名は持ち主へ」


 “祝名”の輪が少し大きくなり、盆地じゅうのがそれぞれの喉で呼び直される。

 ミレイ、レーヴ、子どもたち、ユウゴ、フィア――ひとつずつ。

 名は戻る。

 ヴァレンの目の奥に、わずかな苛立ち。


「兄さん、ほんとに面倒」

「誉め言葉だ」


 間合いが近い。

 俺は掌で玉座の縁を押し、ほんの一拍、座りを浮かす。

 フィアの糸がその隙に絡み、脚へやさしく結び目を作る。

 “ほどけるけど、ほどかない”結び。

 玉座が、はじめて音を立てた。


「――落とす」


 俺は呼吸をひとつだけ置き、“面”の速度で前へ。

 穂や槌ではない。掌と、指。

 黒い文字の周りだけを撫でて“無かったこと”にし、奪った名の糸だけを逆さに返し、ヴァレンの足の置き場をごっそりやめさせる。

 玉座の前縁で、兄弟の影が重なる。


「降りろ、ヴァレン」

「やだ」


 拳がくる。拳の形をしていない、言葉の拳。

 “裏切り者”“兄殺し”“光泥棒”。

 ぜんぶ、かつて浴びた音。

 でも――輪の下で、別の音が勝つ。


「アーデン!」

 門の内側から、声。素の声。訓練じゃない。

 泣き声はない。ただ、まっすぐ。

 俺は笑い、拳に“名前”を持たせない。

 名前のない拳は、ただの風。

 風は、胸を撫でて通り過ぎた。


「兄さん」

 ヴァレンの笑い方が、昔の“遠慮がちな笑い”にほんの一瞬だけ戻る。「……やっぱり邪魔」


「そうだ。邪魔しに来た」


 玉座の背に足をかけ、俺は全身で押す。

 旗の金糸がぴんと立ち、門、井戸、畦、人の声――全部が“押す側”に回る。

 フィアの糸が結び目を増やし、ユウゴの声が「今!」を重ねる。

 雷牙が網の中で全身を使ってふんばり、囚人のくせに「押せ押せ押せ!」と笑う。


 ――玉座が、揺れた。

 ヴァレンの足が半歩、地を失う。

 彼は空へ手を伸ばし、遠い“泣き”をもう一度引こうとする。

 その手首に、金の細い輪がひとつ、ちり、と灯った。


「“ちかい”」フィアが静かに言う。「“泣かせない”って、ここで決めた。だから――あなたも、ここで止まる」


 輪が、手首から肘、肩、胸へ、やさしく広がる。

 鎖じゃない。結び目。

 ほどけるけど、ほどかない。

 ヴァレンの指先の黒い譜面が、そこでやっと滲んだ。


「無玄」ヴァレンが短く呼ぶ。

 無玄は槌を下ろさない。代わりに、静かに言った。「座は、傾いた。――今日は“負け目”」

 雪音が睫毛を伏せ、冷たい息を落とす。「うるさい」


「戻る?」ヴァレンが問う。

「戻る」無玄。

「後始末は、わたし」雪音。


 帷がすっと揺れ、座所の黒が薄くなる。

 けれど――今回は、完全には上がらない。

 玉座の脚に、フィアの結び目。地に、輪の紐。

 ユウゴが紙を握り、涙声で笑う。「“線”、ここに縛り付いた!」


「じゃ、兄さん」

 ヴァレンは肩を払って、やっと拳をつくった。普通の拳。

「形だけ、終わらせよう」


「了解」

 俺は一歩、前。

 速くない。深いだけ。

 掌で兄の拳を受け、手首を返して、肩をゆるめさせ、足の置き場をやめさせる。

 昔、剣を抜く前の稽古で、何度も繰り返した“手”。

 玉座の前で、兄弟の手が、昔と同じ順番で絡み、外れる。


「――捕縛」

 ミレイの声が、静かに落ちる。

 輪が、玉座の周りにやさしい鎖を編む。

 ヴァレンの肩から肘、手首へ、金の結び目が増える。

 俺は最後の結び目に指を置き、短く言った。「“名を食わせない”」


 黒い文字が、そこで止まった。

 ヴァレンはしばらく黙ってから、ふっと笑った。

「兄さん。――“王殺し”の看板、返しに来るといい。玉座で待つ」

「玉座は、ここで、借りとく」

「なら、座り心地をよくしておけ。……次は、泣かせに来る」


「泣かせない」

 フィアが一歩出て、蜂蜜色の目でまっすぐ言う。「――約束」


 ヴァレンは瞼を一度だけ閉じ、結び目の中で視線を落とした。

 帷の向こう、無玄と雪音の影が薄れ、座所の黒はただの影になる。

 輪の下で、土が深く息を吐いた。



 静けさ。

 誰も叫ばない。誰も泣かない。

 でも、みんなの目が濡れている。

 ユウゴが紙に丸い字で書く。“魔王、拘束”。その下に、小さく“兄弟げんか、勝ち”。


 ミレイが杖をとん、と地に当てる。「王、立て」

「王?」

 フィアが頬を赤くして、袖をきゅっと掴む。「保留だったけど……今日、ね」

「条項、どうする」

「“アーデンだけ、きれい”は継続。――王妃は、あとで考える」

 彼女は言ってから、また、こっそり背伸び。

 今度は頬へ、ちょん、と触れるだけ。

「反則、終わり。……すき」


「俺も。――ありがとな」

「ううん。いっしょ、だから」


 縄の中の雷牙が、わざとらしく咳払い。「おい囚人の前でイチャイチャすんな」

「囚人は静かに」ミレイが容赦なく結び目をひとつ増やす。

 雷牙は肩をすくめて笑い、「兄ちゃん、次はもっと速くなって来るから」とだけ言った。


 旗が、金の糸をまっすぐ立てる。

 井戸の面は、星のない空を静かに映す。

 畦は、よく眠った土の匂い。


 ヴァレンの結び目は、やさしい。

 ほどけるけど、ほどかない。

 彼は目を閉じ、玉座の縁にもたれて、小さく笑った。


「兄さん。――やっぱり、面倒」

「誉め言葉だ」


 輪が、胸の下で規則正しく鳴る。

 泣き声は――ない。

 けれど、胸の奥が詰まって、目頭が熱くなる。

 ミレイがそれを見て、鼻で笑った。「泣きたきゃ、泣いていい」

「泣かない」

 フィアが小さくつつく。「泣いてもいい。止めるの、わたしの仕事」

「俺の仕事でもある」


 笑いが、輪の端から端へ走る。

 ユウゴが旗を見上げ、にやっとする。「“ルミナリア”、今日、ちゃんと“国”だ」

「うん」フィアが頷く。「ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う」


 そして、誰も泣かせない。

 約束は、結び目になって、夜風にもほどけなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ