第十四章 ――昇華
空の黒がほどけ、玉座が遠くへ引こうとする。
胸の真ん中に刺さった“名の針”が、呼吸のたびにひゅっと鳴る。
旗の金糸は細く立ったまま、風もないのに震えていた。
「“声3”――『ここで止まる』!」
ユウゴの喉が掠れる。輪の下で、人の足がじん、と踏む。
縄の中の雷牙が顔だけ上げる。「兄ちゃん、生きて! 次、もっと楽しく!」
「もちろん」
笑いは間に合ったが、体は半拍遅い。
黒い譜面が、また胸の名を舐める。息が浅くなる。
そのとき――指先に、蜂蜜のぬくもり。
フィアの手が、俺の手をぎゅっと掴む。泣き顔じゃない。
幼い輪郭の奥で、光だけが古く、深く、静かに増えていく。
「アーデン。――“上へ”行く。すぐ戻る。約束」
「迎えに行く」
「うん。……条項、今は停止。反則する」
「反則?」
「すきって言う」
彼女は笑って、指をほどく。
髪が一筋ずつ金の糸に変わり、旗の金糸と絡み合って天へ伸びた。
輪が、空ごと息を吸う。
フィアの身体はほとんどそのままなのに――“音”が変わる。
足音が消え、かわりに、水や土や人の呼吸がぜんぶ“彼女の方”へ自然に寄っていく。
「――戻った。わたし、“本来”の音」
声は小さいのに、盆地の底まで届いた。
幼さも残る。けれど、目の奥に“年代記”が灯っている。
玉座の帷が、わずかにきしむ。
ヴァレンが指を鳴らし、黒い文字で空の譜を塗り替えようとする。「やめなさい、“芯”。君の光は、僕の譜でも鳴る」
「鳴らさない。――返す」
フィアの指先から、金の糸が一本、まっすぐ降りた。
俺の胸の“針”にふれる。
ふれただけで、針が痛みを思い出して震え、すぐ、外へ。
胸の中の“アーデン”という名に、薄い金の輪が一つ、書き足される。
「――“祝名”。あなたの名は、あなたのもの。わたしが保証する」
輪が、胸の下で深く鳴った。
肺がひらく。目の前が近い。土の匂いが、やさしい。
ヴァレンの目が、初めて少しだけ細くなる。「面倒くさい」
「幼い頃から、面倒見るの好きなんだ」
俺は笑い、フィアに顔を向ける。「行ける?」
「行ける。――最後に、反則もうひとつ」
彼女は片足で地を蹴り、俺の頬へ、すっと背伸び。
軽い口づけ。
名を縫い止める印みたいに、短く、やわらかい。
蜂蜜の香り。
「アーデン。すき」
「知ってる。――俺も」
輪が、はっきりと“面”にひろがった。
旗、門、井戸、畦、避難路、人の手、人の声――ぜんぶが一本ずつ紐で結ばれる。
フィアの金糸がその紐を持ち、俺の骨に渡す。
“泣かない国”が、俺の足に速度をくれた。
「兄さん」
ヴァレンが笑って片手をあげる。「じゃ、奪う量を増やす」
玉座の脚が地の“名”を丸ごと掬い、盆地の輪郭が一度浮く。
黒い譜面が“人の声”を引く。怒鳴り、恨み、泣き――遠い街の“濁り”がここへ呼ばれる。
「“声3”!」ミレイが杖で印を打つ。「『ここで止まる』!」
ユウゴが続ける。「『ここで止まる』! ――“声は財産”!」
輪が踏ん張る。
濁りは来る。けれど、留まらない。旗の金糸が音を選ぶ。
フィアが指をひらりと動かす。「“泣き”は、ここじゃ食べさせない。――“笑いの方へ”」
黒い譜面が、いくらか滑った。
ヴァレンは舌打ちをひとつ落とす。「じゃ、手」
帷の陰から、無玄が半歩。
槌が“意味”を抜こうと下がり、雪音が杖先で温度を奪う。
が――その前に、雷牙が縄の中で叫ぶ。「兄ちゃん、“右上”! 空の角、捻られてる!」
「助言、感謝。囚人の特権だな」
俺は旗から井戸へ“紐”を掛け、紐を足にして玉座へ跳ぶ。
掌で黒い譜面の角を“元の色”へ戻し、槌の軌道は“記憶”ごと遅らせ、氷の名はフィアがひと撫でで春へずらす。
「ひとつずつ、返す」
俺はヴァレンの正面、玉座の前に立つ。
「兄弟喧嘩のやり方、覚えてるか」
「もちろん。――最初に名前を取る」
ヴァレンが指を弾く。
黒い文字が、俺の肩口に吸い寄せられる。
だが、肩の上で“祝名”がぴんと立ち、金の輪が弾く。
文字は滑り、土へ落ちて、ただの影になる。
「じゃあ、今度は僕の名を使う」
ヴァレンは自分の胸に手を当て、淡々と言った。「“イツキ”。名を、喰わせる」
黒い譜面が玉座の脚から滲み、盆地の“姓”へと絡みつく。
――ルミナリアの音が、一瞬だけ曇った。
「返す」
俺は指を鳴らし、輪の灯を胸に落とす。「“返名”――名は持ち主へ」
“祝名”の輪が少し大きくなり、盆地じゅうの姓がそれぞれの喉で呼び直される。
ミレイ、レーヴ、子どもたち、ユウゴ、フィア――ひとつずつ。
名は戻る。
ヴァレンの目の奥に、わずかな苛立ち。
「兄さん、ほんとに面倒」
「誉め言葉だ」
間合いが近い。
俺は掌で玉座の縁を押し、ほんの一拍、座りを浮かす。
フィアの糸がその隙に絡み、脚へやさしく結び目を作る。
“ほどけるけど、ほどかない”結び。
玉座が、はじめて音を立てた。
「――落とす」
俺は呼吸をひとつだけ置き、“面”の速度で前へ。
穂や槌ではない。掌と、指。
黒い文字の周りだけを撫でて“無かったこと”にし、奪った名の糸だけを逆さに返し、ヴァレンの足の置き場をごっそりやめさせる。
玉座の前縁で、兄弟の影が重なる。
「降りろ、ヴァレン」
「やだ」
拳がくる。拳の形をしていない、言葉の拳。
“裏切り者”“兄殺し”“光泥棒”。
ぜんぶ、かつて浴びた音。
でも――輪の下で、別の音が勝つ。
「アーデン!」
門の内側から、声。素の声。訓練じゃない。
泣き声はない。ただ、まっすぐ。
俺は笑い、拳に“名前”を持たせない。
名前のない拳は、ただの風。
風は、胸を撫でて通り過ぎた。
「兄さん」
ヴァレンの笑い方が、昔の“遠慮がちな笑い”にほんの一瞬だけ戻る。「……やっぱり邪魔」
「そうだ。邪魔しに来た」
玉座の背に足をかけ、俺は全身で押す。
旗の金糸がぴんと立ち、門、井戸、畦、人の声――全部が“押す側”に回る。
フィアの糸が結び目を増やし、ユウゴの声が「今!」を重ねる。
雷牙が網の中で全身を使ってふんばり、囚人のくせに「押せ押せ押せ!」と笑う。
――玉座が、揺れた。
ヴァレンの足が半歩、地を失う。
彼は空へ手を伸ばし、遠い“泣き”をもう一度引こうとする。
その手首に、金の細い輪がひとつ、ちり、と灯った。
「“誓い”」フィアが静かに言う。「“泣かせない”って、ここで決めた。だから――あなたも、ここで止まる」
輪が、手首から肘、肩、胸へ、やさしく広がる。
鎖じゃない。結び目。
ほどけるけど、ほどかない。
ヴァレンの指先の黒い譜面が、そこでやっと滲んだ。
「無玄」ヴァレンが短く呼ぶ。
無玄は槌を下ろさない。代わりに、静かに言った。「座は、傾いた。――今日は“負け目”」
雪音が睫毛を伏せ、冷たい息を落とす。「うるさい」
「戻る?」ヴァレンが問う。
「戻る」無玄。
「後始末は、わたし」雪音。
帷がすっと揺れ、座所の黒が薄くなる。
けれど――今回は、完全には上がらない。
玉座の脚に、フィアの結び目。地に、輪の紐。
ユウゴが紙を握り、涙声で笑う。「“線”、ここに縛り付いた!」
「じゃ、兄さん」
ヴァレンは肩を払って、やっと拳をつくった。普通の拳。
「形だけ、終わらせよう」
「了解」
俺は一歩、前。
速くない。深いだけ。
掌で兄の拳を受け、手首を返して、肩をゆるめさせ、足の置き場をやめさせる。
昔、剣を抜く前の稽古で、何度も繰り返した“手”。
玉座の前で、兄弟の手が、昔と同じ順番で絡み、外れる。
「――捕縛」
ミレイの声が、静かに落ちる。
輪が、玉座の周りにやさしい鎖を編む。
ヴァレンの肩から肘、手首へ、金の結び目が増える。
俺は最後の結び目に指を置き、短く言った。「“名を食わせない”」
黒い文字が、そこで止まった。
ヴァレンはしばらく黙ってから、ふっと笑った。
「兄さん。――“王殺し”の看板、返しに来るといい。玉座で待つ」
「玉座は、ここで、借りとく」
「なら、座り心地をよくしておけ。……次は、泣かせに来る」
「泣かせない」
フィアが一歩出て、蜂蜜色の目でまっすぐ言う。「――約束」
ヴァレンは瞼を一度だけ閉じ、結び目の中で視線を落とした。
帷の向こう、無玄と雪音の影が薄れ、座所の黒はただの影になる。
輪の下で、土が深く息を吐いた。
◇
静けさ。
誰も叫ばない。誰も泣かない。
でも、みんなの目が濡れている。
ユウゴが紙に丸い字で書く。“魔王、拘束”。その下に、小さく“兄弟げんか、勝ち”。
ミレイが杖をとん、と地に当てる。「王、立て」
「王?」
フィアが頬を赤くして、袖をきゅっと掴む。「保留だったけど……今日、ね」
「条項、どうする」
「“アーデンだけ、きれい”は継続。――王妃は、あとで考える」
彼女は言ってから、また、こっそり背伸び。
今度は頬へ、ちょん、と触れるだけ。
「反則、終わり。……すき」
「俺も。――ありがとな」
「ううん。いっしょ、だから」
縄の中の雷牙が、わざとらしく咳払い。「おい囚人の前でイチャイチャすんな」
「囚人は静かに」ミレイが容赦なく結び目をひとつ増やす。
雷牙は肩をすくめて笑い、「兄ちゃん、次はもっと速くなって来るから」とだけ言った。
旗が、金の糸をまっすぐ立てる。
井戸の面は、星のない空を静かに映す。
畦は、よく眠った土の匂い。
ヴァレンの結び目は、やさしい。
ほどけるけど、ほどかない。
彼は目を閉じ、玉座の縁にもたれて、小さく笑った。
「兄さん。――やっぱり、面倒」
「誉め言葉だ」
輪が、胸の下で規則正しく鳴る。
泣き声は――ない。
けれど、胸の奥が詰まって、目頭が熱くなる。
ミレイがそれを見て、鼻で笑った。「泣きたきゃ、泣いていい」
「泣かない」
フィアが小さくつつく。「泣いてもいい。止めるの、わたしの仕事」
「俺の仕事でもある」
笑いが、輪の端から端へ走る。
ユウゴが旗を見上げ、にやっとする。「“ルミナリア”、今日、ちゃんと“国”だ」
「うん」フィアが頷く。「ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う」
そして、誰も泣かせない。
約束は、結び目になって、夜風にもほどけなかった。




