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第十三章 ――玉座

 昼と夕の“間”。

 風は止まり、旗の金糸だけが細く立つ。

 空が――音もなく、へこんだ。


 見張り台の上でユウゴが紙を握りしめる。「“座所ざしょ”。来る。……線が、空から直で落ちる」


 井戸の面が黒くなり、空のひだがめくれる。

 降りてきたのは石でも城でもなく――椅子。黒い天蓋の玉座。

 四方に薄いとばり。帷の中から、乾いた笑いが一つだけ落ちた。


「――ようやく“国”になったね、あにさん」


 帷がほどけ、男が立った。

 背は高くない。歩かないのに、地が勝手に道を作る。

 ヴァレン・イツキ。仮面はしない。目は静かで、笑い方だけが昔のまま――人の背中で笑うやつ。


「ここは“観光は予約制”だ」俺は門の前に出る。

「してある。僕の名は、ここにもう“書いた”」

 玉座の脚が地面に触れた瞬間、草の一本にまで黒い文字が薄く滲む。

 名を食う気配。輪の下の土が、身をすくめた。


 フィアが袖をぎゅっとつまむ。音は明るいのに、手は冷たい。「いや。……“書き換え”、きらい」

「大丈夫。――声、合わせ」

 ミレイが杖で印を打つ。「“声1”準備。“逃げ道”“戻る”“締め”、いつでも」


 ヴァレンは手をひらりと振った。「緊張しないで。僕は親切だ。選択肢を持ってきた。“雷牙らいが”を返しなさい。“芯”を渡しなさい。“旗”を下ろしなさい。――ひとつ選べば、今日は泣かせない」


「同じ手紙、さっき灰にした」

「灰は、また読める。名が残るから」

 ヴァレンは目だけで旗を撫で、門、畦、井戸を順に数えるように見た。「輪郭は悪くない。音が澄みすぎているのが欠点だ。人間は濁りの音でよく動く」


 縄の中の雷牙が網目に顎を乗せて、「兄ちゃん、あいつ、ほんとにそういうこと言う」と真顔で小さく頷く。

「囚人は黙ってろ」炎刃丸の声――ではない。今日は彼はいない。帷の縁に、無玄と雪音の影だけが薄く立つ。息の温度でわかる。


「質問」俺は一歩前へ。

「どうぞ、兄さん」

「王を殺したのは、お前だな」

「“王”の名は軽かった。だから、外した。――“勇者殺し”の名は重い。君に貼った。いい看板だった」


 門の内側で、誰かの息が詰まる。レーヴが歯噛みし、ミレイが杖の先をとん、と地に当てる。

 ユウゴの声がふるえかけて、すぐ整う。「“線”、乱される。――ぼくの声、乗せる」


「兄さん」ヴァレンがピンと指を弾く。黒い文字が地に走り、俺の足元で止まる。「“裏切り者”。君の名に足しておいてあげる」

「要らない」

「要るよ。名が増えると、人はよく泣く」


 俺は旗に触れ、輪の灯を胸にひとつ落とす。門、畦、井戸、避難路――全部が紐になって骨に結びつく。

 ヴァレンの指先で黒文字が増え、土の上の“アーデン”の影が薄くなる。

 フィアが一歩、前。声が細いのに、ぴんと通る。「――“アーデン”」

 金の粉が、指の間で弾けた。


 輪の下で、誰かが続ける。「アーデン!」

 子の声、大人の声、ユウゴの声、ミレイの声。

 薄くなった文字の上に、別の“呼び方”が重なる。

 黒は、そこでわずかに滲んだ。


「へえ」ヴァレンが目だけ笑う。「“名を呼び返す”。幼い頃から君は、面倒くさい」


「幼い頃から、お前は、ずるい」

「誉め言葉に聞こえた」


 帷がふっと揺れて、空気が半歩薄くなる。

 ヴァレンは歩かない。歩かないまま、突然、間合いが詰まっている。

 拳はない。刃もない。――言葉が刃だ。

「“光”。僕が源だ。芯の子は僕のでも鳴る。……見せようか」


 黒い譜面が空にほどけ、フィアの肩がぴくりと震えた。

 彼女の光が一瞬だけ、方向を失う。

 俺が手を伸ばす前に、ユウゴの声。「“右上”。黒い文字、落ちる。肩に乗る前に“払う”!」

 指を払う。金の粉が黒をはらい、光の方向が戻る。


「やるね、坊や」ヴァレンはユウゴに目を向け、すぐ興味を失ったみたいに俺へ戻す。「兄さん。遊ぼう。“名喰い(なぐい)”は痛くない。最初だけ」


 足元の土の“重さ”が抜けた。

 門の梁が、意味だけ外そうとする。井戸の面が名を忘れ、畦が呼吸を止める。

 無玄の気配がわずかに動き、雪音の杖先が冷たく鳴る。――三方向、同時。


「“声1”!」ミレイが怒鳴る。

 ユウゴが腹から響かせる。「右、畦の影、踏む! 左、井戸、縁に手! 中央、“戻る合図”二短一長!」


 輪の中の足が動く。

 フィアが俺の手をきゅっと握る。「――“いっしょ”で、やる」

「いっしょ」


 額を軽く合わせ、輪の灯を“面”に落とす。

 旗の金糸が立ち、門の結びが鳴り、井戸が深呼吸し、畦の土が笑ってほどける。

 “解放”――名を付けない力が、国いっぱいに走る。


「それ」ヴァレンが嬉しそうに目を細める。「君の悪いところ。――全部“自分の手”でやる」


「それが好きなんだよ」

「だから折れる。……折っておこう」


 空の譜面が深く沈み、黒い文字が俺の胸元に降りる。

 “アーデン”。

 “兄殺し”。

 “裏切り者”。

 文字が体に“貼られる”前に、俺は笑って言う。「――俺の名は、アーデン・イツキ。呼ぶのは、俺と、こいつら」


 門の内側で、声が重なる。

 それは訓練した“声”じゃない。素の声だ。

 子どもが、老人が、ミレイが、ユウゴが、フィアが――「アーデン!」

 輪の下の土が、ぐっと踏ん張った。

 黒い文字は、そこで滑った。


「興味深い」無玄が初めて言葉に温度を載せる。「“輪”を、声で固めた」

「うるさい」雪音が冷たく睫毛を伏せた。「声、嫌い」


「声は財産だよ」ミレイが杖を構え直す。「名はもっと」


「じゃ、別口から」

 ヴァレンが指を鳴らす。

 井戸の水面が、黒く丸く割れて――別の井戸に繋がった。

 遠い城の中庭。石畳。血の匂い。

 “王”が倒れている光景が、水の底で“今”として再生される。

 刃を抜いたのは、勇者の影。光具を持った腕。

 目撃の“名”が、粗く貼られる。


 門の内側の空気が、凍る。

 ユウゴが紙を握りつぶす。フィアの指が震える。雷牙が網の中で顔を上げ、苦い顔をした。


「見せたいものだけ、見せるな」

 俺は井戸の縁に膝をつき、水面へ手を差し入れる。

 映る“刃”に指を当て、触れた部分だけを“遅らせる”。

 刃の角度が一拍ずれて、王の胸からわずかに外れ――代わりに、黒い影の袖に欠けが出た。


「……兄さん」ヴァレンの口元がわずかに歪む。

「見えた?」

「うん。――君は、ほんとに、邪魔」


 帷が一度だけ膨らみ、空気が消える。

 声が届かない瞬間。

 ヴァレンはそこに“椅子を置く”。

 玉座が、俺とフィア、ユウゴ、ミレイ、旗、井戸――ぜんぶの真ん中に、いきなり座った。

 座られた場所だけ、名が薄くなる。


「アーデン!」ユウゴの声が遠い。「“線”、みえづらい! でも、右下……ひとつだけ、道!」


「借りる」

 俺は旗の金糸を指で弾き、門から井戸へ“紐”を掛ける。

 輪全体の速さで、玉座の“座り”を一拍だけ浮かす。

 その隙に、フィアが指を差し込む。

 彼女の光はやさしい。だからこそ、よく通る。

 玉座の脚の“名”を一本、ほんの少し傾けた。


 玉座が、かすかに揺れた。

 ヴァレンの睫毛が、初めて一度、動く。


「……おもしろい。じゃ、もっと使おう」

 黒い譜面が、空ぜんぶに広がる。

 遠い村の“泣き”。街の“怒鳴り”。誰かの“恨み”。

 知らない声が、ここへ引かれてくる。

 輪の縁で、誰かが息を詰める。


「“声2”!」ミレイが踏ん張る。「戻る合図は、二短一長!」

 ユウゴも叫ぶ。「“声3”! 締め! ――『ここで止まる』!」


 止まる。

 踏ん張る。

 輪が、いままででいちばん強く鳴った。


「兄さん、やっぱり強い」

 ヴァレンは小さく笑い――次の瞬間、姿が消えた。


 消えたのではない。

 “名”だけが、俺の背骨に寄り添って、耳元で喋った。

「“アーデン”。――はい、奪った」

 胸の輪が、ひゅ、と細くなる。

 足が半歩、遅れる。

 フィアの指が俺の手をつかむ――届く前に、黒い文字がふっと“手の名”を撫でた。


「いや」

 フィアの声は小さいのに、強い。

「“アーデン”は、わたしが呼ぶ。……“返して”」


 金の粉が、俺と彼女の指の間で弾けた。

 輪が少し戻る。

 でも、ヴァレンの声は耳から離れない。「“芯の子”。君は僕の光だ。――来い」


 黒い譜面がフィアの髪に絡んだ。

 ユウゴの声が掠れる。「“右上”。――違う、今のは“どこでもない”。……線、切られた!」


 俺は背中の声ごと、空へ手を突っ込む。

 指が黒い譜面を掴む感触。

 掴んだ瞬間、逆に“名”を引かれる。

 胸の輪の灯が、はっきりと減った。


「アーデン!」フィアが手を伸ばす。

 届く前に、黒い針が一本、俺の鎖骨の上を“なぞった”。

 血は出ない。――“名”だけが削られる痛み。

 世界が半拍、遠い。


「兄ちゃん!」縄の中の雷牙が叫ぶ。「顔、頼りになるやつの顔、忘れるな!」


「任せろ……」

 言葉が少し遅れる。

 ヴァレンの声が耳たぶで笑う。「“頼りになる”。――それ、名として美味しい」


「食うな」

 俺は旗の金糸を掴み、歯で引いた。

 金の味。

 輪がぐっと戻る。

 門、畦、井戸、避難路――ぜんぶが、もう一度、俺の骨に挿さる。


「――ここは“ルミナリア”」

 短く言う。

 フィアが頷き、涙をこらえる顔で笑う。「“ルミナリア”。――アーデンの国」


 輪が、鳴った。

 ヴァレンの声が、ほんのわずか遠のく。

「じゃ、次は――その“国”ごと持っていく」


 玉座が、地面の“名”を丸ごと掬う音を立てた。

 盆地の輪郭が一瞬、浮く。

 井戸の面が、空へ吸い上がる。

 畦の根が、地面から“外れる”。


「“声3”! 締め――『ここで止まる』!」ユウゴの喉が裂けるほどに叫ぶ。

 誰も泣かない。

 でも、全員の目が濡れている。

 足が踏む。手が掴む。声が、名を繋ぐ。


「足りない」俺は吐く。「“面”だけじゃ、今は足りない」


 フィアが俺の手を握り、胸に当てた。

 鼓動が速い。

 瞳が、蜂蜜色の奥で少し深く光る。


「じゃ――“上へ”。」

 フィアは息を吸って、笑った。「アーデン、約束。泣かない。かわりに、わたし、少し“お姉さん”になる」


「なる?」

「うん。――“本来ほんらい”の姿。……ちゅうとはんぱ、きらい」


 ヴァレンの声が、少しだけ低くなる。「やめなさい。“芯”」


「やだ」

 フィアはきっぱり言って、俺の額に額をこつんと当てた。「待ってて。すぐ戻る。――戻れなかったら、怒っていい」


「怒らない。迎えに行く」


「うん。……すき」

 小さく、それでもはっきり。

 金の粉が息に混じり――空に、立った。


 蜂蜜色の光が一段、濃くなる。

 旗の金糸がそれに呼応して震え、輪の紐が天へ伸びる。

 フィアの髪がふわりとほどけ、肩の上で光の糸に変わる。

 幼い輪郭のまま、目の奥だけが“古い”。


 ヴァレンが短く舌打ちした。「間に合わない、か」


 玉座の脚がさらに沈み、盆地の名を丸ごと掬いにかかる。

 無玄の槌の影が近づき、雪音の杖先が冷える。

 ユウゴが濡れた声で叫ぶ。「“締め、続行!” ――『ここで止まる』! 『ここで――』!」


 フィアが指を上げた。

 その指先から、金の糸が百、千。

 輪で結んだ畦、門、井戸、避難路、人の手、人の声――ぜんぶを一本ずつ拾い上げ、“落ちないように”紐をかける。


「……間に合わせる」

 フィアは笑って、目を閉じた。「アーデン。――見てて」


 光が、座所の黒を押し返す。

 玉座がほんの一拍、浮く。

 ヴァレンが、初めて顔をしかめる。


「兄さん。君、どうしていつも――」


「“いっしょ”でいるから」


 俺は旗の金糸を握り、輪の灯を胸に落とし、フィアの指先に自分の“速さ”を丸ごと渡した。

 世界が、半歩だけ明るくなる。


 ――そこで終わり、じゃない。

 ヴァレンの声が耳の奥に戻ってきて、冷たく笑う。「じゃあ、君の名は、後でゆっくり食べる」


 黒い針が一本、俺の胸骨の真ん中に、正確に、静かに“置かれた”。

 息が、ひゅっと狭くなる。

 視界が白く瞬き、輪の灯が一度、細くなる。


「アーデン!」

 フィアの声が、今度は震えた。

 金の糸が俺の胸で結ばれ、針がわずかに外れる。

 でも、地が遠い。声が少し遅い。


 ヴァレンが玉座の上で肩を払う。「続きは、上で。兄さん」


 帷が閉じ、座所がひと呼吸ぶんだけ上がる。

 旗が風もないのに、ぎゅ、と鳴った。

 フィアは目を閉じたまま、静かに息を吸う。

 幼い輪郭の奥で、光が――“成体”の形を選び始める。


「泣かせない」

 彼女は自分に言い聞かせるみたいに呟いて、笑った。「――次、わたしの番」


 ユウゴが涙の声で、それでも笑う。「“声3”。――『ここで止まる』!」


 輪が応える。

 井戸の面が震え、畦が踏ん張り、門が鳴る。

 雷牙が網の中で拳を握って、叫ぶ。「兄ちゃん、生きろ! 次、もっと楽しくやろう!」


「もちろん」

 言葉は少し遅れたが、笑いは間に合った。


 玉座は黒い空に薄く消え、フィアの金の糸がそれを追うように天へ立つ。

 旗は真っ直ぐ。

 泣き声は――ない。

 ただ、誰もが息を合わせている音が、輪の下で続いていた。


 ――戦は、まだ半分。

 次は、彼女の番。

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