第十二章 ――宣戦
夜と朝のあいだ。
寝息と寝息の“間”。風は止まり、旗の金糸だけが細く立っている。
土の底で、何か大きいものがゆっくり息を吸った。
「――来る」
見張り台の上でユウゴが低く言う。「“空っぽ”。近いのに遠い。無玄の線」
空が、音もなく凹む。
凹みは穴じゃない。重みだけが抜けて、形だけ残った“空洞”。
門の梁が一度だけ鳴り、井戸の面が波を立てた。
「起きて」
俺は旗に手を当て、輪の灯を薄く走らせる。門、井戸、畦、避難路――全部を一本の糸でつなぐ。
フィアが俺の袖をぎゅっと握り、指先からやさしい紗を盆地にかけた。
「こわい音、やわらげる。……でも、“こわい”は消えない」
「消えなくていい。足だけ動けば」
凹みの縁に、影が立つ。
大きくない。立っているだけなのに、周りの音が減る男――無玄。肩に“空っぽ”の槌。仮面はない。眼は深く、怒ってない。
「――ここが“国”か」
声に起伏がない。にもかかわらず、輪の下の土が小さく身じろぎした。
「観光は予約制」
俺が言うと、無玄はわずかに首を傾げた。「なら、戦は指名制か」
槌が、静かに上がる。
空気が半歩、薄くなる。
次の瞬間、門柱の根から“手応え”が抜けた。
材木は折れてない。ただ、重力と名前だけが“外された”。
「――やめ」
フィアが走る。金の糸を一本、門の根に通す。
“名”を戻す。
抜け落ちていた手応えが、どすん、と現実に復帰して、柱が正しく重みを地へ返した。
ミレイが杖で結び目を叩く。「足元! 声は小さく、息は長く!」
無玄は表情を変えない。「上は言った。“顔を見ろ”。――見た。“国の顔”は、まだ薄い」
「上、ね。魔王」
「名は呼ばない」
そのときだ。
井戸の面が、黒い天を映した。
空に、幕が下りる。
黒布の端が風もないのにひるがえり、声だけが落ちてくる。
『――宣す。ルミナリアと、その“光”に』
低い声。乾いて、静かで、底で笑っている。
フィアが俺の袖を掴む指を強くする。
ユウゴの喉が鳴る。「“上”。――名は、まだ」
『雷牙を返せ。“芯”を差し出せ。旗を折れ。三つのうち一つでよい。……選ばねば、泣かせに行く』
黒い幕の内側で、椅子の肘掛けが軽く鳴る音がした。
『――兄さん』
輪の下で、土がびくっと震えた。
門の陰で、誰かが息を呑む。
ミレイだけが、杖をとん、と地に当てた。
「……聞いたな」
ユウゴが小さく言う。「全員」
俺は幕を見上げ、短く息を吐いた。「宣戦布告、受領」
声は静かに、盆地に落ちる。
「――返答。“泣かせない”はこっちの言葉。旗は折らない。芯は渡さない。雷は返すときに返す。……以上」
黒布がくしゃりと皺を寄せ、薄い灰になって、空に溶けた。
輪の灯が胸の下で規則正しく鳴る。
フィアが俺を見上げる。「“兄さん”、って言ってた」
「うん。……いい。ここで言わせる」
◇
宣戦の声が消えるのと同時に、丘が燃えた。
音は早い。熱は速い。
炎刃丸が、笑いながら旗を見下ろす。「やっほー、“国”! 火の挨拶、遅れて悪いな!」
反対側の谷に、霜が走る。井戸の面に白い花。
雪音が杖を傾け、無表情で言う。「静かに凍って。泣き声、よく響くから」
無玄は何も言わない。槌を肩に、ただ前に一歩。
盆地の“輪郭”を、三つの手が同時に引く。
「配置!」ミレイが短く怒鳴る。「若いの、網! 年寄り、声! 子は井戸の東を離れず――凍らせるな!」
「“声1”いくよ!」ユウゴが腹から叫ぶ。「右、火の道、逆。左、凍る線、踏むな。中央、“空っぽ”は結び目!」
俺は旗を一度見上げ、フィアの手を握る。「いける?」
「いける。……焼かせない。凍らせない。空っぽは“縫う”」
炎が畦に舌を伸ばす前に、フィアの紗が水の記憶を呼び、草の先に朝露を戻す。
氷が井戸の面に花を咲かせる前に、フィアの指が“温度の名”を思い出させ、氷はただの気配にほどけた。
「空っぽ」
無玄の槌が半歩だけ落ちる。音はないのに、門の梁から“意味”が抜ける。
俺は掌で梁の名をつまみ、輪の糸で“再命名”する。
呼び戻す。
名が戻る。重みが戻る。
無玄の眼が、わずかに細くなる。「手際がいい」
「そっちは、お行儀が悪い」
炎刃丸が空から落ち、肩で俺にぶつかる勢いのまま振り下ろす。「挨拶は拳で!」
俺は半歩、出た。
火の刃が触れる前に、角度だけをほどき、刃そのものの“熱の名”を少しだけ鈍らせる。
炎は火花を散らすが、畦は焦げない。
「硬ぇ!」炎刃丸が舌打ちし、「無玄!」と叫ぶ。
「空を貸せ」
無玄は応じない。代わりに、槌の影が地の形を“忘れ”させる。
足元の道が半歩消えた。
「足!」ユウゴの声。「右に“ない”! 左へ半歩!」
俺は左へ半歩。
炎刃丸の刃は空を切り、土へ火花を落として消える。
雪音の杖先が冷たく光り、畦の水路を凍らせようとした瞬間、フィアが人差し指でその“氷の名”を撫でた。
名前をひとつ、別の日の温度にずらす。
水は笑って流れた。
「やるじゃない」雪音の睫毛が一度だけ動く。「嫌い」
「そっちも嫌い」フィアはさらっと返して、俺の袖をぎゅっと握る。「条項、守ってる」
「今それ言う?」
火、凍、空。
三つの“手”が、輪郭を同時に引き剥がそうとする。
俺の背骨に、輪が通る。
門、井戸、畦、避難路――全部が一本の“紐”になって、骨に括りつく。
「――起きろ」
短く言って、輪の力をまた“面”に落とす。
“解放”と名を呼ばない。呼ばずに、つなぐ。
旗の金糸がぴん、と立ち、門柱の重みが正直に落ち、井戸が深呼吸する。
若いのの足がそろい、ミレイの杖の合図に、網が同時に飛ぶ。
「右、今! 左、三歩あと! 中央、槌、届く前に“無かったこと”に!」
ユウゴの声が、輪に乗ってよく響く。
無玄の槌が振り下ろされる瞬間、俺はその“軌道の記憶”だけを指で抜いて、槌はただの“空”を撫でた。
炎刃丸が歯ぎしりをし、雪音が無言で杖を打つ。
空の高いところで、雷標が細く光った。縄の中の雷牙が、網越しに叫ぶ。「兄ちゃん、“右上”! 火、回る!」
「助言ありがと」
「囚人の特権!」
火の道はユウゴの指示で逆に折られ、沼へ逃げ、凍る線はフィアの紗でほどかれ、空っぽは輪の紐で縫い留められる。
盆地全体が、ひとつの身体みたいに“息”を合わせ始めた。
「――“国”になりつつある」
無玄がはじめて言葉に温度を乗せた。
炎刃丸が舌打ち。「楽しくなってきたじゃねぇか」
雪音が冷たく笑う。「うるさい」
「戻る時間」
無玄が槌を肩に戻す。
「上は“宣戦”を済ませた。今日は“顔合わせ”。……次は“座所”を動かす」
座所。
ユウゴが息を飲む。「“玉座が、来る”」
「待ってろ」炎刃丸が剣先で空を差し、「燃やす順番、考えとく」
「凍らせる順番も」雪音が続ける。
三人は引く。
凹みが元の空に戻り、丘の炎は風だけを残し、霜は朝露に溶ける。
旗は風を受けて、金の糸を真っ直ぐに立てた。
◇
静けさ。
誰も叫ばない。誰も泣かない。
けれど、輪の縁に、息の揺れは残る。
雷牙が縄の中でごろりと寝返り、「戦、開幕」とだけ言って笑った。
「会合」ミレイが杖を掲げる。「声を揃える」
門の内側、輪の印の上。
人が座る。
昼に来たレーヴが、深く息を吐いた。「見た。火も、氷も、空っぽも。……生きてる。――で、どうする」
「宣言する」
俺は旗を見上げ、ゆっくり立った。
フィアの指が俺の袖をきゅっと掴む。ユウゴが紙と声を用意する。
「今をもって――ルミナリアは魔王国に“戦”を布く。
俺が矢面。俺が的。俺が門。
みんなは、“生きる”を選べ。逃げ道を覚え、息を合わせ、泣きたきゃ泣け。泣き止ませるのは、俺の仕事だ」
誰かが鼻で笑って、すぐ笑いの形に変わった。
ミレイが杖で印を打つ。「――宣った。王の言葉だ」
「王、って」
フィアが小声で頬を赤くする。
「保留だった?」
「うん……でも、いやじゃない。――王妃、って言うと“条項”に……」
「条項は俺にしか効かない」
「じゃ、いい」
笑いが輪の端に走り、ユウゴが声を重ねる。「“声”は三つ! “避難”“戻る”“締め”。だれでも出せる! ぼくの後、復唱!」
声が揃っていく。短く、落ち着いて、よく響く声。
旗が、その声で小さく揺れた。
「雷牙は?」レーヴが顎で縄を示す。
「ここに置く。食わせない。戻る“線”がある」
「信じる」レーヴはうなずき、顔を上げた。「明日、畦に四十出す。逃げ道も覚えた。……泣くのは、あとでいい」
「あとで、笑いながら泣こう」フィアが言う。
金の粉が、指の隙間でひとつ、弾けた。
◇
夕方。
門の梁の裏に“静かな梯子”が増え、畦の角に目印の石が並ぶ。
ユウゴは地図の端に丸い字で書いた。“宣戦布告:受領/布告”。
その下に、ちいさく、“無玄・炎刃丸・雪音:顔合わせ”。
雷牙が網目越しに空を見て、ぽつりと呟く。「兄ちゃん、“上”はすぐ来る。座所ごと。――空が凹む前に、笑え」
「笑う」
俺は旗に触れ、輪の灯を胸に落とす。
フィアが俺の手を握り、「嫉妬、今日はゼロ」と得意げに言った。
「えらい」
「うん。……でも、“怖い”はちょっとある。――明日、泣いたら、ちゃんと笑って」
「笑う。約束」
夜。
火は小さく、見張りは三人一組。
井戸の面は星のない空を静かに映し、旗は黒に溶けて金糸だけが細く立つ。
遠い丘の縁で、空がまた小さく凹み、すぐ戻った。
玉座が、こちらへ椅子を引く音だ。
ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。
宣戦は済んだ。
泣き声は――まだ、どこにも、ない。
なら、明日も、ないようにするだけだ。




