第十一章 ――揺らぎ
朝。風はやさしいのに、空の縁だけが針の先みたいに落ち着かない。
旗は輪の真ん中で金の糸を立て、縄の中の雷牙は、よく寝た顔で目を開けた。
「おはよ。“国”」
「囚人の朝は静かに」ミレイが杖で結び目をとん、と叩く。
「了解」雷牙は素直に両手を上げ、湯気の立つ芋の汁をうまそうに飲んだ。「甘い。光の子の味」
「条項」フィアが眉を寄せ、俺の袖にぴとっと張り付く。
「……はいはい。褒め先は俺限定でお願いします」
「了解」雷牙が笑う。「兄ちゃん、今日の顔も頼りになる」
頼りになる顔、ね。
門のそばで縄の修繕をしていた若い男が、ちらっとこちらを見て、すぐ目を逸らした。
井戸の縁で水を汲む女も、手の止まる時間が昨日より少し長い。
ユウゴが地図と帳面を抱えて走ってきた。「“線”がざわついてる。外から三組、流民の列。うち一つ、噂が強い」
「どんな噂」
「“光の勇者が魔王の手先だ”“雷の将を生け捕りにするのは魔族のやり口”。――言い方、いくつか」
ミレイは鼻で笑った。「口は軽い。手は重く」
でも、輪の下で土の息が、すこしだけ揺れた。
◇
昼前。
川沿いの小道に、人の列が現れた。女、子ども、男、荷車。
先頭の男が両手を上げて近づく。顔に疲れ。目は鋭い。
「助けがいる。ここが“泣かない国”だと聞いた」
「名前は?」
「レーヴ。西の集落の世話役。――あんたが“光”か」
男は俺を頭から足まで見て、声を落とした。「噂も聞いた。王を殺したとか、魔王の兄だとか」
フィアの指が俺の袖をきゅっとつまむ。ユウゴの喉が小さく鳴る。
「噂は、噂」
俺は笑って肩を竦めた。「“泣かない”の方は本物だ。列を進めて。水と鍋、すぐ回す」
列が門をくぐる。
その背で、レーヴの仲間がひとり、わざと大きい声で言った。「光が強すぎると、人は焼けるってな」
門の内側の若い衆の目が細くなる。フィアの手がほんの少し震えた。
「音、やわらげる」
彼女の光が、ざわめきの縁を撫でて丸くする。
でも、丸くした音は、消えない。残る。
◇
午後。
縄の中の雷牙は網目越しに空を眺めながら、ふと真顔になった。
「兄ちゃん、“上”は人の“泣き”を束ねる。怖いのは、外からの刃より、内側のざわざわ。――ここ、今それが“線”で増えてる」
「見えてるの?」ユウゴが身を乗り出す。
「匂いでわかる。雷は音の前に匂う。泣きも同じ」
「具体的に、何が来る」
「“声”。それから、“誰かの手”。上から来る手じゃない。中から伸びる手。――兄ちゃんの名を汚す手」
俺は縄越しに、雷牙の視線を受け止める。「忠告、感謝」
「礼はいらない。オレ、ここ好きだし。旗、かわいい」
「条項!」フィアが食い気味。
「了解」雷牙は笑って、顎で門を示した。「あ、来た」
門の外、商隊の旗。
荷車を引く老人が、笑顔を作って近づく。「香辛料と情報、どっちも売り物」
ミレイが睨む。「情報に砂は混ぜるなよ」
「砂は入れてない。――“王殺しの勇者”、見学に参った」
周りの空気が一瞬、固くなる。
老人は肩を竦めて続けた。「王都の言い草だ。罪状に“神の光を盗む”も追加された」
ユウゴが横合いから低く言う。「“線”、わざと混ぜてる。真実と嘘を半分ずつ」
「お代は払う」俺は銅貨を一枚、男の手に載せる。「香辛料は一袋。情報はひとつ。――ここでは“泣かない”。それだけ持って帰って」
「やるねえ」老人は肩をすくめ、素直に頷いた。「言葉がうまい。……お気をつけなされ。“名”は食われる」
◇
夕方、井戸のそば。
小さな子が桶を倒して、足を切った。
俺がしゃがむと、子の父親が反射的に腕を引いた。「触るな! 光が強すぎると――」
子がびくっと震える。フィアの肩がぴくっと跳ねる。
父親はすぐ顔をしかめ、「……すまない」とうつむいたが、目は揺れたまま。
「俺の手は熱くない。ほら」
俺は自分の掌を当てて見せ、指先でそっと子の傷縁を撫でる。
光は丸く、ごく薄い。子は痛くない顔をして、すぐに目を丸くした。
「なおった」
「うん。次からは桶、両手で持つ」
子がうなずき、父親がぎこちなく頭を下げる。
背を向けるとき、別の男がひそひそ。「触れずに直すの、魔術か……」
ミレイがいつの間にか横に来ていて、俺の肘を小突いた。「顔、固いよ」
「固い?」
「固くなる前に笑いな。笑うのは“名乗り”だよ」
笑う。
笑うたび、旗の金糸が、少しだけ立つ。
けど、笑い声の縁で、何かがかすかに擦れた。
◇
夜の手前。
畦の角で若い連中が梁を上げていたとき、結び目がほどけ、積んだ木が傾いだ。
子が一人、下敷きの線。ユウゴが叫ぶ。「左、二歩! ――間に合わない!」
俺は走る。
輪が灯って、門から井戸、井戸から畦へ、一本の紐が背骨に通る。
身体が間に合う前に“間に合わせる”癖が勝手に仕事して、木は金の紐で支えられ、子は草に座った。
「セーフ」ユウゴの膝が抜ける。
みんなが息を吐く。
……静けさのあと、誰かがぽつり。「人じゃない」
すぐ別の声。「助かったんだ。黙ってろ」
また別の声。「いや、すごすぎる。怖い」
フィアが俺の袖をぎゅっと握る。
「アーデン、人だよ。いちばん“人”」
「大丈夫」
言ったけど、胸のどこかが静かに冷えた。
――玉座の間で石が飛んだ日の、あの冷えに似ている。
◇
夜。
焚き火は小さく。旗は黒に溶けて、金の糸だけが細く揺れる。
縄の中の雷牙は、しゃがんだ姿勢のまま、真面目な声で言った。
「兄ちゃん、“無玄”が来る線。――声、少ない。足音も少ない。かわりに“空っぽ”。近くで、遠い」
「空っぽの槌」ユウゴが小さく復唱する。
「うん。怒らせるのがうまい。怒りは音が大きい。食いやすい」
「俺は怒らない」
「兄ちゃんはね。――国は、どうだろ」
輪の灯が胸の下で小さく鳴る。
ミレイが見張り台から降りてきて、短く言った。「会合。声を揃える」
◇
集会。
門の内側、輪の印の上。人が円になって座る。
最初に口を開いたのは、昼に来た世話役のレーヴだ。
「ここは助かる。水も、飯も、道も。子も笑う。――だからこそ聞く。光の勇者、あんたは“どこまでやる”」
「どこまで?」
「“国”の名のためなら、俺たちを捨てるか。雷の将を生かして、“上”を怒らせるのか。――“名を食う”連中相手に、俺たちは盾か」
輪の縁で、息がひとつ固くなる。
フィアが立ち上がりかけ、俺の袖を掴んだまま止まる。
ユウゴが紙を胸に当てて、小さく深呼吸。
「答える」
俺はゆっくり立って、みんなの顔を見た。
「捨てない。盾にもさせない。雷牙を生かしたのは、怒らせるためじゃない。――“戻す道”を見てるからだ」
「戻す?」
「うん。雷牙は、笑うとき、ちゃんと前を見る。戻る“線”がある。……戻れないやつもいる。だからこそ、戻れるやつは戻す」
レーヴの目が細くなる。「綺麗事だ」
「綺麗事が好きだ。――それと、俺は“名”を食わせない。名は俺が名乗って、俺が守る。国の名は“ルミナリア”。旗に縫った通り」
輪の中の誰かが、小さく笑った。別の誰かが、まだ疑いの目を残す。
レーヴは少しだけ肩の力を抜き、「口がうまい」と繰り返した。
「口じゃない」ミレイが杖で地面を叩く。「手だよ。今日、倒れた梁を持ち上げた手。水の心臓を開けた手。泣く子を抱いた手」
沈黙。
沈黙の縁で、糸が一本だけ鳴った。
――旗の上。黒い紙が、風もないのに、すっと降りてくる。
ユウゴが走って受け取り、顔色を変える。「“文”。魔律。――開くと、食われる」
紙は自分で開いた。
黒い文字が、地に落ちずに、空で音になる。
『光を差し出せ。雷牙を返せ。旗を下ろせ。三つのうち、ひとつ選べば、今日は泣かせない』
ざわ、と輪の中の息が揺れた。
フィアの指が震え、俺の袖に食い込む。
雷牙が縄の中から顔だけ上げ、苦笑い。「ほらね。声、来た」
「返事は」ミレイが杖を握り直す。
ユウゴが俺を見る。フィアも、俺を見る。
俺は旗を見上げ、短く言った。
「――“泣かない”は、こっちの言葉。借りさせない」
黒い紙がくしゃりと折れ、灰になって消えた。
輪の下の土が一度だけ低く鳴り、旗の金糸がぶるっと立つ。
◇
集会はまだ終わっていない。
疑いは残る。恐れも残る。
誰かがささやく。「光が強すぎる」「人じゃない」「でも助かった」
反対に、誰かが静かに言う。「泣かせなかった」「手でわかる」
ユウゴが小さく手を上げる。「“声”を作る。ぼくの声じゃなく、国の声。――“逃げ道”“避難の呼吸”“戻る合図”。ぜんぶ、だれでも言えるように」
「いい」ミレイが頷く。「声は財産。名も財産」
レーヴが最後に言った。「明日、俺の人間を二十、畦に出す。逃げ道も覚える。――怖いまま、やる」
「ありがとう」
輪が解け、夜の空気が戻る。
人々が散り、旗だけが立つ。井戸の面は星のない空を映し、縄の中の雷牙は欠伸を噛み殺した。
「兄ちゃん」
「ん」
「“兄ちゃん”って呼ぶの、今は失礼?」
「いいよ。……悪くない」
雷牙は小さく笑って、目を閉じた。「じゃ、おやすみ。“国”」
◇
夜更け。
見張り台に上がる。風は弱い。雷の匂いは薄い。
遠くの丘の縁で、空が一度だけ暗く凹み、すぐ戻った。――空っぽの槌が息を吸ったみたいな気配。
「来る」ユウゴの声が静か。「明日じゃない。――“間”に」
「間?」
「寝息と寝息の“あいだ”。怒りと不安の“あいだ”。一番食べやすいところ」
フィアが俺の腕に頬を押し当て、目を閉じた。
「さっき、ちょっと泣きそうになった。――でも、泣かなかった。ね、アーデン」
「うん」
「明日、もし泣いたら、いっしょに笑って」
「笑う。約束」
旗の金糸が、風もないのに、すっと立った。
輪の灯が、胸の奥で、土の底で、同じリズムで鳴る。
“人じゃない”と言われても、笑って返す準備。
“名を食われる”と言われても、名を呼ぶ準備。
ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。
揺れるなら、輪ごと揺れて、また立つ。
――明日、戦の声が来る。
でも、泣かせない。
そのために、今夜、耳を澄ます。




