第十章 ――解放
朝、旗が高く揺れた。輪の真ん中を一本の金の糸。
風は軽いのに、空の縁だけが針の先みたいに光っている。乾いた匂い。骨鈴が三度、別々の丘から。
「三方向。右は“囮”、左は“固い”。正面、“本隊”。門、五十呼吸」
ユウゴが地図を抱えたまま息を整える。
「配置」ミレイが杖で印を打つ。「子どもは井戸の東、鍋は蓋、火は落とす。若いの、網。年寄り、指示の声。泣きたいやつは、息を長く」
「泣かない。――でも、泣いてもいい」
フィアが笑って言い、指先に薄い光の紗を展ばす。「こわい音、やわらげる」
黒外套が丘を下りてくる。灰色の皮膚、骨槍、仮面。
列の先頭、細い槍を肩で回す若者が一人。昨日の笑い。雷の匂い。
「どーも。二回戦。“雷牙”。――今日は本番、って上が言ってる」
槍の尻で土をこつん。草の先で電が弾けた。「泣かない国、ほんとにやる気なら、最初の壁を」
「壁は予約制だって言った」
「だから予約してきた。ほら、あれ」
若者が顎で示す先、丘の稜線に黒外套の影がずらり。
骨鈴が鳴る前に、ユウゴの声。「右、五。左、八。正面、二十。――“速い一本”、真ん中」
「了解」
俺は門柱の結び目を指で撫で、輪の灯を一度強めた。
「観客は静かにー」雷牙が笑って両手を広げる。「始まり」
骨鈴。
列が波になる。畦へ、門へ、井戸へ。
フィアの光が水路の上に薄く走り、足音だけが柔らかくなる。
網が飛び、梁からロープが落ち、若いのが無音で走る。
ユウゴの声が“線”をつなぐ。「右の畦、影! 左、囮は踏むな! 中央、槍二本、角で交差、すぐ下!」
真正面の一本。雷牙の槍。
電の刃が笑いながら近づき、門柱の結び目を狙う。
俺は掌で“受け”、丸くして“返す”。
電は空へ散って、風の音に変わる。門は鳴らない。
「やっぱり“光”。よき」
雷牙は槍を回し、さらに深く踏む。
並走する黒外套が畦を蹴って跳ぶ――フィアの紗に受けられ、草へ優しく寝る。
網。縄。
ミレイの杖が鳴る。「声は小さく、足は早く!」
左の列の奥、仮面の一人が骨鈴を引いた。
音が低く、地を揺らす。
水路の角に、黒い“縫い糸”が這い寄ってくる。
フィアの踝がぴくっと震えた。
「いや」
彼女の指が地へ降り、金の糸が“縫い目”の上に一本、真っ直ぐ落ちる。
黒はそこで意味を失い、土に沈んだ。
「中央、押される。三歩下がって、右へ半歩。――“戻る線”確保!」
ユウゴの声で、若いのが畦の影へ散り、また集まる。
門前の空気が一瞬軽くなる。
「兄ちゃん」雷牙が槍の穂先を俺の頬の横で止める。「正面、やろ」
「畦が泣くから、ここで」
「じゃ、畦を泣かせないやり方で」
空が細く光り、雷が十本、雨みたいに落ちた。
狙いは畦と水路、旗の足。輪郭。
フィアの紗が走る。水は煮えない。土は焦げない。旗は震えず――代わりに、金の糸が少し涙の形になって揺れた。
「“壊されるの、いや”の嫉妬、覚えた」フィアが小さく息を吸う。
「いい嫉妬だ。守りの形は覚えた。――けど、押し返す形が、まだない」
正面。雷牙の槍がさらに速く、軽くなる。
俺の掌は受け、返し、逃がす。できる。
だが、列の底が増える。畦の端が少し削れる。門の梁に重みが乗る。
「兄ちゃん、“速い顔”になってきた」雷牙が笑う。「それ、それ!」
骨鈴。
左の丘から新しい波。右の影からも黒糸。
ユウゴの声が震える。「戻る線、細くなる」
ミレイが奥へ向けて手を回す。「子は井戸の東を離れるな!」
――足りない。
守れている。けれど、押し返す形が足りない。
ここは“面”。俺一人の速度の話じゃなくなってる。
「フィア」
「うん」
彼女が俺の手を握る。
胸の輪がひとつ深く鳴り、骨の裏で春が走る。
輪の灯は規則正しく――いや、今は“規則”を越えていい。
「君の光、少し借りる。名前は借りない。音だけ」
「貸す。――ぜんぶ。名は出さない。糸と音だけ」
額と額を、軽く合わせる。
金の粉が一粒、息に混じって、俺の背骨に落ちる。
「――起きろ」
小さく言って、旗に指を向けた。
輪が灯る。
門の結び、畦の角、井戸の面、避難路の石、子どもの短い息、ミレイの杖の印、ユウゴの声――ぜんぶが一本の糸で“つながる”。
神律が、国に“面”で流れた。
旗の金糸が風に立ち、地面の浅い印が光り、門柱の重みが土に正直に落ちる。
水が笑って走り、畦が呼吸して、空の電が“音”に変わった。
雷牙の槍の電は、俺の掌に落ちる前に“丸く”なる。
丸くなったものは、人の手でつかめる。
「――“解放”」
名は付けない。ただ、形だけがはっきりした。
「なに、これ」雷牙の目が素直に開く。「気持ちいい。速いのに、落ちる」
「落とした」
俺は一歩、前に出た。
個の速度じゃない。輪の速度。
旗、門、畦、井戸、避難路――ルミナリアの“骨”が俺の骨に挿さって、動きが軽くなる。
掌が一度、やわらかく鳴った。
正面の列の足裏が同時に迷い、網が二枚、三枚かかる。
「右、今!」ユウゴの声がぴたりと乗る。
若いのが影から出て、骨槍を引き、倒れた仮面を縄で括る。
ミレイが杖で鈴の手を叩き落とす。「報告はあとだよ、坊や」
雷牙が槍を深く下ろし、笑いを止めた。
速い。だが、輪の中は、もっと速い。
俺は穂先を“遅らせ”、柄を“重く”し、彼の足の置き場をごっそり“やめた”。
雷牙の膝が、はじめて地面に触れる。
「兄ちゃん、意地悪。……でも、嫌いじゃない」
「なら、これで終わり」
俺は旗の金糸を指で弾き、門から井戸まで一本の“紐”を掛ける。
フィアの光が紐に沿って薄く走り、ユウゴの声が“締め時”を告げる。
「いまだ、右! 次、左! 真ん中、三歩で網!」
網。縄。
若いのの動きが揃っている。
雷牙が笑いながら跳ぼうとして――紐に“引かれて”、草に寝た。
槍は俺の掌で丸くなり、電は水音に変わる。
「捕縛!」ユウゴが声を上げる。「縄、二重! 鈴は外す!」
「了解!」
子どもが走る。大人が結ぶ。ミレイが結び目を叩いて締める。
フィアが紗で雷の“棘”を撫でて丸める。
雷牙は地面で笑って、肩をすくめた。「やるじゃん、“国”」
「雷牙」
俺は彼の槍の芯だけを返し、手の届くところに置く。「命は取らない。――でも、名を貸すつもりもない」
「そりゃそう」
雷牙は目だけで空を見た。「上、喜ぶよ。“捕まった”。“面で押された”。“光、解放”。――次は、“空っぽの槌”“火の剣”“氷の杖”。順番、前後するけど」
「順番はこっちが決める」
「無理。上、待つの苦手」
彼は縄の中で小さく笑い、肩をすくめた。「兄ちゃん、伝言。――“玉座で待つ”。“名を返しに来い”。“家族の礼をする”」
胸の輪が低く鳴る。
フィアが俺の袖をつまむ。ユウゴが紙に何かを書きながら顔を上げる。
「撤退線、太い。追ったら“道が入れ替わる”。――ここで止めるのが正解」
「止める」
骨鈴が一度。
黒外套は波が引くみたいに薄れ、畦に掛かった網だけが草の匂いを残した。
雷標の外側に、遠い稲光。
旗が風に立ち、金の糸が輪の真ん中で静かに揺れる。
◇
夕方。
縄の中の雷牙は、水と芋の汁を“おいしい”と言って飲み、素直に目を閉じて寝た。
ミレイは結び目を二度見て、「ほどけない」と断言した。
俺は門柱の根を撫で、輪の灯を落ち着ける。
「アーデン」
フィアが袖を引く。「いまの、“解放”。――こわくなかった?」
「少し」
「わたし、こわかった。でも、うれしかった。国が“いっしょに”動いたから」
「俺も」
ユウゴが地図の端に丸い字で書く。“大規模来襲:撃退/将捕縛”。
その下に小さく、“解放(名なし)”。
「名、つける?」
「つけない」
俺は笑う。「名前は、食べられる」
「うん。じゃ、“輪の力”。――それでいい」
◇
――遠い場所。黒い天蓋の下。
塔の上、玉座。冷たい光。
四つの影が立つ。ひとつは座り、三つは立つ。
「雷牙、捕縛」
空っぽの目の仮面が、平板な声で告げた。無玄。槌を肩に。
別の影が舌打ちする。炎刃丸。肩から熱気。「やりやがったな、アイツ」
白い息がひとつ、笑いもせずに落ちる。雪音。杖の先に氷の花。
玉座の男は、指を一本だけ動かした。
影が、床にひざまずく。
「――行程を早める」
低い声。乾いた、静かな笑いが底にある。「“国”へ道を開け。誘え。泣かせ方は三通り置け。どれでも来る」
「承知」無玄の声は短い。
「火は先に燃やす」炎刃丸が肩を鳴らす。
「雪は最後に降らせる」雪音が冷たく目を伏せる。
玉座の男は、遠い方角を見る。輪の名を、まだ呼ばない。
“名を食べる”ためには、先に“呼ばせる”のが礼儀だと知っているから。
「――兄さん」
誰にも聞こえない声で、それだけ言った。
◇
夜。
ルミナリアは、静かに息を整える。
旗は輪の真ん中で金の糸を立て、井戸は星のない空を映し、畦は眠る土を抱く。
縄の中の雷牙は、いびきをかかない。いい寝顔だ。
「今日、泣いた?」フィアが小さく問う。
「泣いてない」
「わたしも。――でも、泣きそうになった」
「いい。泣いていい。止めるのは俺の仕事」
ユウゴが欠伸をしながら手を挙げる。「ぼく、明日、“声”の練習、もっとする。国の“輪”に乗る声」
「頼もしい」
旗が、風のない夜に、すこしだけ立った。
輪の灯が、胸の奥と、土の底で、規則正しく息をする。
名は要らない。
でも、ここには“名前のいらない力”が、もうある。
ここで、守る。ここで、増やす。ここで、笑う。
そして――捕まえた雷を、明日の灯りに変える。




