第一章 ――追放
――歓声に満ちたはずの玉座の間は、今日はよく響く。
石床に落ちる足音、鎧の擦れる音、誰かの舌打ち。目だけが刃だ。
「アーデン・イツキ。貴様を――王殺しの裏切り者と認める」
王座の前に立つ摂政が、冷たい声で言い切った。
左右に並ぶ元仲間たち――大剣の男、聖女さま、弓手。どの顔にも疲れと、少しの安堵が混ざっている。俺を見ない。視線が床を這う。
「へえ。俺が王を? それ、もっと頭のいいやり方でやるやつだよ」
俺は肩を竦めた。「まず、決定的な時間と場所。次に証拠。で、最後に――」
「黙れ!」大剣の男が一歩出る。「王の最後の言葉は『勇者に刺された』だった!」
「その勇者、名乗ったの?」
「……!」
聖女が震える指で聖印を掲げた。「神託は“黒”。あなたの心に、濁りがある」
「俺の心は毎朝ブラック。砂糖は入れない派だ」
そう言って笑ったら、誰も笑わなかった。だよね。
玉座の背後の壁に、巨大な魔法陣が浮かぶ。退魔師たちが円を囲み、白い粉を撒く。
――追放の門。二度と戻れない片道の門。罪人、異端者、災厄送り。
「アーデン・イツキ。称号“勇者”、剥奪」
摂政の号令が落ちる。同時に胸の紋章がじゅ、と焼けるように熱くなった。
光がひとつ弾け、俺の心臓の奥――神律が、きしりと鳴る。
五百年。
竜の骸の上で飲んだ雨の味、王都を包む鐘の音、あのとき肩を貸した少年の軽さ。
いま、その全部が遠のく音がした。
「最後に弁明はあるか」摂政。
「弁明?」俺は首を傾げた。「じゃあ三つだけ」
ひとつ、王は俺が刺してない。
ふたつ、俺の神律は誰よりも透明だ。
みっつ、――嫉妬が一番、人を濁す。
誰かが小さく息を呑む。聖女の唇が揺れた。「アーデン……」
「見なよ」俺は視線で示す。
玉座の横、緋の幕の影。摂政の指が震えてる。恐れじゃない。勝ちを確信したときの、あの――緩み。
あのときも見た。海の向こう、黒い塔の頂で。
“兄さん、勝ちを確信した顔って、好きじゃない”
ふっと、幼い声が耳に残った。違う。あれは――昔の弟の声だ。細くて静かで、人の背中に影のように寄り添うやつ。
「衛兵!」摂政が叫ぶ。「膝をつかせろ!」
槍の石突が床を叩く音。四人がかりで肩を押さえに来る。
俺は膝をつかなかった。かわりに息を吐いて、手首から手袋を外す。
布が床に落ちる――からっ、と軽い音。
彼らの掌が、俺の肩に乗った瞬間、半歩だけ後ろへ歩いた。
鎧の留め具が、ぱきん、と割れる。
力は使っていない。俺の身体は、ただの身体。五百年の癖が勝手に受け流しただけだ。
衛兵たちが揺れて体勢を崩す。彼らは悪くない。命令に従っているだけ。
「暴れる気はないよ」俺は両手を上げる。「俺、紳士だし」
聖女と目が合う。
涙で揺れた瞳に、俺が映っていた。
――信じないでいい。俺はそう小さく口の形だけで伝えた。
信じたいならいつでも、あとからでいい。生きていてくれれば。
「早く門へ!」摂政が急かす。
魔法陣の光が強くなる。白から青へ、青から紫へ。空間が折れていく。
向こう側に、知らない空の色が見えた。
ざわめき。
群衆の中から、石が一つ、飛んでくる。
俺は目を閉じて、受けた。こめかみに当たって、鈍い音がする。
痛みより、胸のどこかが静かに冷える。
「裏切り者!」誰かが叫ぶ。「偽物の英雄め!」
英雄。
ああ、そうだ。英雄は看板だ。誰のものでもない。掲げたやつが勝ち。
でも、俺の中にあるものの名前は、ちょっと違う。
――神律。
きれいに笑うときの光、誰かの手を取る温度、守りきったあとに残る無言の安堵。
それは、いつも俺の背骨にあった。誰に剥がされなくても、霞んだり、折れたりはするけど、きっと消えない。
衛兵が左右から肩を掴む。
「歩け」
「歩くさ」
門の前に立つ。
底の見えない井戸みたいな光。吸い込まれれば終わりだ――そう、誰もが思う。
でも、終わりは案外、始まりの顔をしている。
「アーデン」聖女が呼んだ。「……あなたは、笑ってるの?」
「うん」俺は頬を指で叩いた。「俺、笑顔が似合うって昔言われたから」
「誰に」
「一人だけ。本当のことを言うと、もう会えないと思ってる」
聖女の喉が鳴る。
摂政が苛立った足音で近づき、俺の胸の布を掴む。
「最後の言葉を言え。民草に向けて、悔い改めを――」
「悔いはない」
俺はその手をやんわり外し、門に片足を入れた。「……それから」
振り返らずに言う。
「泣くな」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
聖女かもしれない。石を投げた誰かかもしれない。
あるいは――五百年前、弟の頭を撫でながら言えなかった、あの一言。
光が足首を呑み、膝を、腰を、胸を呑む。
世界の音が遠のく。
そのときだ。
――ぽつん、ぽつん。
耳の奥で、水の落ちる音がした。
泣く子どもの声。小さくて、金色の髪が揺れる気配。
ありえない。門の向こうに誰かの気配なんて――
心臓が跳ねる。神律が光った。
俺は笑って、最後の一歩を踏み出す。
石床の冷たさが消え、風の匂いが変わる。草の匂い、土の匂い、どこか甘い花の匂い。
空が近い。空が――知らない色だ。
落ちる。
光と闇がねじれて、上下がなくなる。
白い線が千本、黒い線が万本。世界が編まれていく。
――ようこそ、って言われた気がした。
目を開ける。
空は深い群青、雲は薄金。遠くで吠える声。人ではない。
胸の奥で神律が震え、指先が痺れる。ここは、俺の世界じゃない。
風が頬を撫でる。
俺は地面に膝をつき、掌で草を掴んだ。湿り気。冷たさ。生きている感触。
そして、背後で――何かが、笑った。
牙の音。
振り返る。
黒い影が十、いや二十。獣? いや、違う。
紫の舌、黄色い眼。こちらの“常識”とは別の、敵の匂い。
「歓迎が派手だな」俺は立ち上がった。「……ヴァリスティア」
口に出した瞬間、名が腹の底に落ち着いた。
知らないはずなのに、なぜか知っている響き。
向こう側――門の縁に、まだ小さな光が残っている。
あの光の向こうに、誰か泣いている子が――
「待ってろ」
俺は指を握り、開いた。
神律が走る。光が走る。五百年の癖が、骨と筋に戻ってくる。
最初の一匹が飛びかかる。
爪が唸る。
俺は半歩、出た。
土が跳ね、草がちぎれ、黒い影が空で止まる。
「――泣かせない」
小さく呟いて、俺は拳を振るった。
光が、世界の縁を切り取った。
影は散り、風は鳴り、遠くの空に、白い塔が見えた。
その尖端には、金色の糸のような輝き。
子どもの泣き声は、もう聞こえない。代わりに、胸の神律が静かに歌う。
俺は息を吐き、笑った。
「よし。――ここからだ」
ヴァリスティアの風が、初めて俺の名を呼んだ気がした。




