旅立ち
インターネットで見つけた秘湯の旅館へ、彼女の早苗と旅行に行くことになった颯太。その旅館は、最寄り駅から車で一時間、深い山奥へと向かわなければならない場所にひっそりと佇んでいた。普段はペーパードライバーの颯太だったが、この日は意を決してレンタカーを借り、ハンドルを握っていた。しかし、やはり慣れない山道の運転は過酷で、くねくねと曲がりくねる道に神経をすり減らし、旅館に到着した頃には、颯太はもう疲労困憊といった状態だった。
旅館に着いたのは午後三時過ぎ。まだ日が暮れるまでには時間があった。
「この後どうする」
早苗が颯太にそう尋ねたが、颯太は疲労の色を隠さずに、ただ「部屋で少し休みたい」と言った。
早苗は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、すぐ笑顔になった。
「じゃあ、私、ちょっと一人で散歩してくるね」
そう言うと早苗は部屋を出て行った。
颯太は畳敷きの部屋に横になると、すぐに深い眠りに落ち、規則正しい寝息を立て始めた。
どれくらい時間が経っただろうか。
微かな物音で颯太は目を覚ました。まだ意識が朦朧とする中で、自分が旅館の部屋にいることを思い出す。部屋の中はすでに薄暗く、夕暮れの気配が色濃く漂っていた。
再び、何かの物音が聞こえる。どうやら、部屋のドアをノックする音のようだ。手元にあった携帯の明かりを頼りに、重い体を引きずって起き上がり、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、旅館に着いたときに部屋まで案内してくれた、高梨という名の中年の女性従業員だった。
「お客様、失礼いたします。お休みでいらっしゃいましたか」
「ええ、不慣れな運転で疲れてしまって、つい。何かありましたか」
「いえ、先ほどお夕食は六時とお伺いしておりましたので、お支度を伺ってもよろしいかと」
颯太は手に持っていた携帯のディスプレイに目をやる。時間は午後六時を過ぎていた。
「あ、すみません、もうそんな時間...あれ...」
そこで颯太は、早苗が部屋にいないことに気がついた。
「あの、彼女、見かけませんでしたか」
「お連れ様でございますか?いえ、私どもは存じ上げませんが...」
高梨の返答に、颯太の胸に漠然とした不安がよぎる。
「旅館に着いて、俺が疲れてるから休むって言ったら、一人で散歩に行くって出て行ったきりなんです。まだ戻ってないみたいで...」
「散歩でございますか...」
高梨の表情に、微かな困惑と、ほんの少しの不安の色が浮かんだように見えた。
「この辺り、何か散歩できるような場所ってありますか」
「この旅館の他には、少し先に山寺があるくらいで、あとは山林が広がっているばかりでございます」
「山寺、ですか」
「ええ、この山道をもう少し登ったところに。ただ、今は住職もいらっしゃらない無人の寺でございますが」
「すみません、ちょっと彼女を探してきます。夕食は...少し待っていただけますか」
「かしこまりました」
そうして、颯太は早苗を探すために旅館を出た。
たしかに、車でこの旅館に来るまでの道は一本道で、道の両脇はびっしりと木々が生い茂り、他には何もなかった。もしかしたら、山林に入り込んで道に迷っているのかもしれない...。
旅館の前には、旅館まで通ってきた山道とは別に、さらに山を上へ登っていくための道が見えた。他には探しに行くべきところが思いつかない。颯太はとりあえず、その山寺を目指して歩き始めた。
周囲は街灯一つなく、漆黒の闇に包まれている。頼りになるのは、携帯のライトだけだ。しかし、充電していなかったため、電池の残量が少ないのが心許ない。
ただ、その道は一本道だったため、迷うことなく山寺に到着することができた。山道を十五分ほど歩いてきたので、少し息が上がっている。普段の運動不足のせいだ。
その山寺は、思いのほか大きな木造の建物だった。だが、やはり高梨が言った通り廃寺のため、壁や屋根の所々に破損が見られ、朽ちかけた様子が痛々しい。
颯太は早苗の名前を呼んでみる。「早苗ー」だが、何の物音もしない。やはり早苗はここにいないのか...。
一応、山寺の中も確認しておこうと、入口と思われる場所の扉に手をかける。鍵がかかっているのか、扉はびくともしない。
壁が壊れている箇所から中が覗けそうなので、携帯のライトを使い、その穴から中を覗いてみる。中は荒れ放題で、物がそこかしこに散乱している。やはり中には早苗はいないか...そう思い、携帯のライトをずらした、その一瞬。
穴の前を、何かが横に通り過ぎるのを颯太は見た。
颯太は咄嗟のことで「ひっ」と、喉から軽い悲鳴が漏れた。
なんだ、今のは...。
颯太は再び早苗と名前を呼びかけるが、返事はない。早苗ではない...。ならば、今の動いていたものは一体何だ。
すると再び動く影が目の前を横切る。それは猫を少し大きくしたような動物だった。
「狸...?」
人がいなくなった山寺は、どうやら野生動物の住処となっているようだった。
とにかくここには早苗はいない。もしかしたら、入れ違いに早苗が旅館に戻っているかもしれない。颯太は、とりあえず一旦旅館に戻ることにした。
旅館に着き、入口から中に入ると、先ほどの従業員の高梨が、別の初老の男性客と話しているのが見えた。高梨が颯太が帰ってきたのに気づいて、颯太に話しかけてくる。
「お連れ様、見つかりましたか」
颯太はそれを聞いて、早苗がまだ帰っていないことを悟った。
「いえ、山寺まで見に行きましたが、見つかりませんでした」
高梨は「そうですか...」と、どこか沈痛な面持ちで答えた。
そこへ、入口の横にある受付カウンターの裏から、着物を着た女性が出てきた。旅館に着いたときに挨拶に出てきたので、それが旅館の女将であることはわかる。女将は高梨の近くまで行き、何かを小声で話しかけていた。
先ほど高梨と話していた、福田と名乗る初老の男性が、颯太に話しかけてくる。
「彼女が、いなくなったと」
「ええ、俺が昼寝をしている間に散歩に出たきり、戻ってこなくて...」
「実は、私も妻と二人で来ていましてね。夕方頃、妻がいなくなっていることに気づいたんです」
「えっ...そちらも、ですか」
颯太の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
「ええ、私は一人で温泉に入っていて、部屋に戻ったら妻の姿が見当たらなくて」
「どちらか、お探しになりましたか」
「旅館の中は隅から隅まで探したんですが、どこにもいないんです。妻は足が悪いもので、一人でそんな遠くまで歩けるはずがないんですが...」
颯太は先ほどまでは、すぐに早苗が見つかるだろうと、それほど深刻には考えていなかった。だが今、何が起こっているのか全く理解できず、急に不安が増していく。颯太は警察に連絡して探してもらった方がいいのではないかと福田に言った。
福田は、自分も先ほど女将にそのように言ったのだが、「警察に連絡をするのは待ってほしい」と言われたと言う。
颯太はそれを聞いて、少し離れたところで高梨と小声で話している女将に向かって、声を荒げた。
「どうして、警察に連絡してはいけないんですか」
その言葉に、女将と高梨はビクッと肩を震わせ、顔を青ざめて颯太を見た。二人の顔は、何かに怯えているような表情に颯太には見えた。
「どうしてなんですか。なんでダメなんです、人が二人もいなくなってるんですよ」
「い、いえ、あの...申し訳ございません...。警察沙汰になりますと、他のお客様にご迷惑が...」
「迷惑なんて言ってる場合じゃないでしょう。人が二人もいなくなってるんですよ。これ以上に、何が大事だって言うんですか」
颯太の焦りが、怒りへと変わっていく。
「早く警察を呼んでください。早苗が...この方の奥様が、どんな目に遭っているか」
女将は観念したように、深いため息をついた。
「あの...実は...少々、お落ち着きになって、聞いていただけますでしょうか」
「何ですか、一体」
「おそらくですが...お二方、今どこにいらっしゃるか、私にはわかります…」
「はぁ、どういうことですか、それ」
そして女将は、それから信じられないことを話し始めた。
「実はこの旅館の裏手に、小さな小川が流れております。足首が浸かるほどの、本当にささやかな流れですが...実はこの川には、古くからの言い伝えがございます」
女将の声は、まるで遠い昔の物語を語るかのように、静かで、しかし重々しかった。
「この小川の先は、現世と死者の国を繋ぐ道となっていると言われています。特定の時間と条件が揃った時のみ、その死者の国へと渡ることができる、と...」
「特定の時間と条件...」
「ええ。特定の時間とは、夕刻、ちょうど五時の刻限。そして、条件とは...死者の国へ行くことを心から望む者が、二人...その場にいることでございます」
福田が震える声で話し始めた。彼の奥さんは、以前は元気で活発な女性だったが、二年前に交通事故に遭ってから足が悪くなり、杖なしでは歩けなくなってしまったという。さらに事故の後遺症で、言語や記憶にも障害が残ったらしい。それ以来、塞ぎがちになり、何度も「早く死にたい」と口にするようになったとのことだった。今回の旅行は、そんな奥さんを少しでも元気づけようと計画したものだったという。
颯太もまた、心当たりがあった。早苗は颯太と付き合う前に交際していた男性を、やはり二年前に交通事故で亡くしていたのだ。早苗は男性が亡くなったあとは、自分も後を追うとばかりに自殺未遂を繰り返していた。そんな早苗を励まし、元気づけていた颯太に、やがて早苗は心を開き、交際するようになっていた。早苗は表面上では元気になっていたが、もしかしたら心の奥では、まだ亡くなった男性を思っていたのかもしれない...。そして、その男性の元へ...死を望んでいたのかもしれない。
女将が言うには、この伝承は、代々、山寺の住職にのみ伝えられてきた秘事だったという。寺は、この死者の国への入り口を封じる役目を担っていたのだ。しかし、先代の住職が若くして急逝し、後を継ぐ者もなく、山寺と共に、この禁忌の入り口も、長らく放置されてしまっていたのだという。ただ、この話を知らなければ、条件に揃うような者が来ることはないだろうと、地元の人間はこの話を誰にもしないことで対処することにしたらしい。
そして一度、その入り口を通った生者は二度と、現世に戻ることはできない、と...。
その後、話し合いの末、やはり警察に届けるべきだということになり、警察へと連絡をした。大規模な捜索が行われた。しかし、早苗も、福田の奥様も...二度と見つかることはなかった。まるで、最初からこの世に存在しなかったかのように、二人は忽然と姿を消してしまったのだ。