御心ハ何処ヤ.2
「ここです!」
そこには、露岩した場所につくられた小さな祠があった。岩の隙間からはちろちろと清水が湧きだして染み、苔むした足元に吸い込まれている。踏みしめるとぐずつく水を含んだ苔の層は、構った様子もない真新しい足跡に潰された。
「ここは……」
「とっておきのひみつのばしょです!」
その頃になって、湿度をもった土と葉の青臭い空気に変わっていたことに気が付いた。辺りを伺うと、花冠に見たような乳香梅の白い四つ花びらは見かけない。黄梅がいた山のような草木が自然に見て取れた。
「あのね、翠玲お兄様が、橙晴お兄様の分をよういしてないから、ここに来たこともないしょだよって言ったのです」
綠楊は手を放すと、祠の方へと駆け寄った。
黄梅が傍によると身長より少し高い位置に屋根がある小さな祠は、誰かが手入れしているのだろう。辺りは苔むしているにもかかわらず、そこだけ屋根も壁も苔が取り払われていた。
それでも古い建造物である事に変わりないのだろう。祠に取り付けられた木製の扉は炙られているのか、元の木材の色が解らないほどに黒く変色している。
その祠の段差に、若草色と山吹色の、草木染の包みが供え物のように二つ置かれていた。
綠楊は祠の前の段差に座り込むと、大事そうにその内の一つを開けた。中には手漉きの紙で折られた小舟と漆塗りの小箱が入っていて、いそいそとそれを開けると色とりどりの花をあしらった砂糖菓子が入れられていた。
「こっちが黄梅さまのぶんです!」
同じ大きさの山吹色の小さな包が渡される。中に包まれていたのは、同様に手漉きの紙で折られた小舟だけではなかった。
「これは……?」
「ほんとうはお兄様もおもてなししたかったけど、お話できないおわびだそうです。りょ……わたくしももらいました! 黄梅様といっしょにあけてよんでねって」
戸惑いながら手にしたそれは、翠玲からの手紙だった。
得意げに同じものを見せた綠楊は、待ちきれなかったと言わんばかりにそれを開け始めた。
先程あまりにも急にやってきて、急ぎ背を向けていった姿を思い出す。目すらも合う時間がなかったから、てっきりあまりよく思われていないものだと思っていた。あるいは、黄梅の目的を見透かしているのではないか、そんな不安があった。
どぎまぎしながら震えそうになる手で、手紙を開けた。同時に、少し震えた字で『巫女の弟子へ』と。そんな言葉から始まった手紙に、息を呑まずにはいられなかった。
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巫女の弟子へ
貴殿の到着を心から喜び申し上げる。
日増しに強くなる乳香梅の香りに
我が脆弱な意志は抗う事もままならず
愚弟の険も増すばかりだ。
かつての退魔の巫女が残した千年に及ぶ
余暇は、まもなく終わりを迎える。
私は甘香の霞として捧げられ、
恐らく貴殿と相見える事は叶わない。
愚弟は奔流に飲まれ、穢禍の神へと
召し上げられる事となる。
そこで漸く、我らがお守りしていた
双頭之巳上主は穢禍の神となり
神格を得、人の世を去る事が出来る
だろう。
それで誰も困ることはない。
神の時代はこれにて終焉するのみだ。
ただしかし、どうしてもそれは
綠楊だけが取り残されてしまう。
身勝手な話を押し付けてしまうが、
願わくば、綠楊だけでも貴殿と共に
この地を離れて欲しい。
可能であれば橙晴も、と言いたいが
酒の酔いが少しでも覚めたら、
間違いなく私は巳上主に逆らえない。
時間を稼ぐ事もままならない。
言い訳に過ぎないが、
この手紙を認めることすら至極困難
だった。
気を抜くと、私の優先が大切な弟妹たち
から別のものへとすり変わる。
あの甘い香りが思考に霞をかけてしまう
せいだ。
身勝手な私を許さなくていい、
口先で謝罪を告げることも、こうして
文字で残す事しか出来ない。
日暮れ前にこの地を去れ。
綠楊には、貴殿と祭りに出るよう
それとなく勧めてある。
連れ出すのは容易いはずだ。
最後に、外の国でも価値があるかは
私には解らない。
しかし、何も持たない私が唯一託す
事が出来る代物だ。役に立つ事を願う。
祠の中に納めてある。
神断チ乃剣という、古くから預かる
曰くのある剣だ。
宝飾を売るなり何なり、費用の足しに
してくれ。
ただ綠楊には触れさせないで欲しい。
怪我をしかねない。
貴殿の幸運を願い続ける。
翠玲
――――――――――――――――――
理解の追いつかない頭が、文字をなぞるだけで目を滑らせてしまう。二度、三度と目を通して、いつの間にか息を詰めてしまっていた。
思い出してそっと祠の中を伺うが、格子の隙間から見えるそこには何もない。薄暗いからだろうかと角度を変えてみるも、何かが奉られている様子も仕舞われている気配もない。
首をわずかに傾げながらもう一度読み直す。
反芻すればするほど、苦いものがこみ上げる気がした。
「…………あの、黄梅さま」
いつの間にか難しい表情をしていた黄梅を見上げて、綠楊は伺うように見上げて来た。
「ああ……ぼうっとしてしまい申し訳ありません。どうかしましたか?」
「あの、あのね。翠玲お兄様が、黄梅様とおはなしできないの、とてもざんねんがってました。だから、緑……わたくしが、たくさんおはなししてきてって言われたのです」
「綠楊様と翠玲様はとても仲がよろしいのですね」
「はい!」
笑顔を取り繕って聞き返すと、とびっきりの笑顔を向けられて、黄梅は眩しかった。
「翠玲お兄様も、橙晴お兄様も大好きです!」
その笑顔に、心が痛かった。
貴方の願い通りに出来なさそうです。心の何処かで翠玲に詫びると、黄梅は意を決した様子で手紙も小舟も懐にしまった。
随分と過保護な事だと、お節介な事だと思わずにはいられない。だが、自分も大概だと黄梅は自身に苦笑した。
そんな心の内の思いは隠して、黄梅は安心させるようにふんわりと笑ってみせた。
「綠楊様。こんな素敵なところに連れて来て頂き、ありがとうございます。翠玲様からの贈り物、確かに受け取らせて頂きました」
「はい!」
「そこで一つ、私も翠玲様や橙晴様に、秘密の贈り物を届けたいのです」
嬉しそうにしていた綠楊は、どういうことだと首を傾げていた。
「ないしょですか?」
「そう、ないしょ。誰かに見つかったら怒られてしまうかもしれないですが、贈り物がとても嬉しかったから、私も同じ嬉しい気持ちをお届けしたいのです」
手伝って下さいませんか? と。そう尋ねれば、ぱっと表情を輝かせてきらきらとした眼差しが返って来た。
「もちろんです! わ、たくしも! お兄様たちに秘密の贈り物したいです!」
彼らを行かせてはいけない、と。この子の表情を曇らせるべきではないと。
黄梅の心は決まった。