御心ハ何処ヤ.1
すやすやと寝る姿を起こすのは忍びないと思いつつも、そのままにするわけにもいかず、黄梅はそっと身体を揺すった。
「綠楊様」
「んぅ……おーめい、さま……?」
寝ぼけた様子の潤んだ翡翠のような瞳が、次第に黄梅を見返した。ぐしぐしと目元をこすり、微睡みから覚めた猫のようにあくびをしていた。
「お目覚めになられましたか」
優しく告げると、まだ眠たそうだった表情が何かに目を止めた。
「あれ……おそろい、きがえてしまったのですか……?」
「はい、申し訳ございません。出かけるなら汚してしまうのは申し訳なかったので」
「そうですよね……」
黄梅の服の裾を掴んで、酷く残念そうに呟いた姿に申し訳なく思う。
綠楊を起こすよりも先に、黄梅は身なりを整えていた。
華やかな礼装では咄嗟の身動きが取れない。旅に出たときの軽装は、黄梅が師である仮面の巫女の元を出るときに、餞だと渡されたものだ。華やかさは確かに無いものの、身動きの取りやすさに、これ以上のものはない。
「あれ……」
不意に綠楊は辺りを伺った。
「橙晴様なら、翠玲様がお迎えになられて行きました」
「翠玲兄様に……?」
途端、はっと何かを思い出した様子で目を輝かせた。
「それなら! 黄梅さま! いっしょに来てほしいところがあるんです! お祭りに行かれるまえに、ついてきてくれませんか」
「え? ええと……」
「あのねあのね、わたしたいものがあるのです! おねがい!」
綠楊の勢いに、お菓子は、とは口を挟める余裕もなかった。今すぐですか、と問えば、今だからと返ってくる。どんなに理由を並べても、少しだけお願いと言われるばかりだった。
自由な時間とも聞いていたのだから、許可を取る必要もないだろう。綠楊の事で連れ出したことを咎められるかもしれないが、その本人が言い出したことなのだから多目に見てもらえやしないか。
一通りの打算を思い浮かべてから、わかりましたと黄梅は折れた。
「ありがとうごさいます! 黄梅さま、こっち!」
こっちこっちと手を引かれて、奥の宮へと続く廊下へ出た。
「綠楊様、そちらはまだ私が踏み入ってはいけないのでは?!」
「へいきですっ。ないしょですから!」
覚束ない足取りでぐいぐいと手を引く綠楊は、とびっきりの笑顔を浮かべて黄梅を困らせた。
「それに、いまから行くところはおくのみやではないので、だいじょうぶ!」
目的地が違えばいいのだろうか。恐らく過去に、綠楊のいたずら好きな兄たちのどちらかが、ろくでもない事を教えたのだろう。それでいいのだろうかと思いながら、黄梅は苦く笑いながらついて行った。
誰もが奥の宮で忙しくされているのだろうか。城の中枢と言うくらいなのだから、城に務める華姫たちの往来があると思っていた。あるいは家臣は、と。
黄梅の知る城や城下は、古い記憶の中で師に連れられて行ったおぼろげなものでしかない。しかし、沢山の人が忙しなく行き来して働いている印象だった。
記憶の城との違いに、黄梅はきょろきょろと辺りを伺ってしまう。板張りの床を踏みしめる自分と、綠楊の時折乱れる足音しか聞こえない。
そう言えば彼女程幼いのであれば、貴人には付き人がつきものではなかっただろうかと思い出した。
「あの、綠楊様」
思わず声をかけると、腕を引く力が少しだけ弱まって、何ですか? と言わんばかりに首を傾げてこちらを見上げていた。
「だいじょうぶ、黄梅さまをおこる人がいたら、綠楊がおまもりしますので!」
「あ……ええと、ありがとうございます」
同じような事を、橙晴にいつも言われているのだろうか。
「それはとても嬉しいのですが、その……祭りの時って、いつも綠楊様はお一人で過ごされているのですか?」
得意げに言われて戸惑いつつも尋ねると、途端に綠楊は眉を落として表情を暗くした。黄梅がしまったと思った時には、もう遅い。
「うん……お兄様たちはいそがしそうだから、しかたないのです」
「ええと、歴代の華姫様達もですか?」
「はなひめさま……? はなひめさまは黄梅様のことではないのですか?」
「私ではなく、例えば昨年の華姫様です」
不思議そうにされて、黄梅もそれ以上説明に詰まった。
もしかしたら役目を負わない代わりに、以前までは祭りの期間は部屋にずっといるようにと言われていたのかもしれない。そうだとしたら、下手なことを黄梅が口にしていい気がしなかった。
「いえ、なんでもありません。それより、どちらに向かっているのですか?」
「しー、ぜーんぶないしょです! ついてからのお楽しみ!」
んふふ、と。またすぐに上機嫌に笑った綠楊は、秘密めいたいたずらが楽しくて仕方ないのだろう。
今度はこちらです、と、縁側の影に隠していた履物を差し出されて本日何度目かの言葉をなくした。どこまでいくつもりなのかと言えばいいのか、用意周到さに呆れればいいのか、黄梅には最早解らなかった。
綠楊に連れられるままについていくと、人の手入れが行き届いていた庭は、気が付くと林へと変わっていた。城の裏手は市街の人々も立ち寄る事のない、お城の人だけが踏み入れる事が出来る森へとつながっているのだと綠楊が懸命に教えてくれた。
時折足元に躓きながら木々の間を無理矢理進むので、手を繋いだままの黄梅は、怪我をしやしないかとはらはらさせられるばかりだった。せっかく教えてもらっていた説明は、ろくに頭に入ってこなかった。
「本当にこんな所に入って大丈夫でしょうか……」
何度となく呟いてしまっていると、その度にだいじょうぶ! と元気よく返される。
そんなやりとりを数度繰り返した頃。やがて不意に連れて来られたその場所の足元の感触が変わったのが解った。水場が近いのだろうか、空気の湿り気も変わった。
木立の根元からは礫が所々顔を覗かせ、歩き慣れていないとふらついてしまう。苔が分厚いせいで、歩きにくさもあるせいだろうか。はしゃいだ様子の綠楊がずるりと足を滑らせるたびに、黄梅はひやひやしながら繋いだ手を引いて転ばないように努めた。
誰かが定期的に来ているのだろう。緑が生い茂るその場所には、狭い獣道がはっきりと出来ていた。
そして視界は開けた。