花ハ知ルヤ?.3
「引き継ぐ事になったのは、ね。兄上が言うには、今年が一際特別だからだそうだ」
「……特別、ですか」
「ああ。この地が華国として建ち、華祭を迎えて千年。それが今年だ」
特別だという言葉に、至極納得した。自分の使命は『今だから』なのか。
果たして仮面の師は、自分がとっくに投げだしていたらどうするつもりだったのだろうか。あまりにも無計画に思えて、厳格な師にしては杜撰過ぎやしないかと思わずにはいられない。否、結局投げ出す事はないだろうと、悪い意味で信頼されていたのだろうか。
あまりそうは考えたくないものだと、思わず苦く思う。だがそんな黄梅の気持ちとは裏腹に仲睦まじい姿を見せられて、自然と微笑ましくなった。
「……実は少し不安で、私に務まるでしょうか」
華姫の役目も、彼を討つ役目も。余りにも遅すぎる自覚に、不安が急に追いついた。
「ふふ。大丈夫、貴女の振舞いは堂に入っていて何も問題ないよ」
そうなのだろうか。そうかもしれない。
あの師は、黄梅に与えた使命をこなせなかったらどうなるかとは、何一つ告げていなかった。ならばそれ程気負う事でもないのかもしれない。そう思いたい。
やがて案内された部屋で、黄梅はまた戸惑った。
随分と小奇麗な部屋に案内され、随分と沢山の軽食やおやつが用意されていたという事もある。だがそれ以上に、自分を案内してきた皇子が自ら茶を入れ始めた状況が解らなかった。
師と自分が同席すれば、茶を注ぐのは自分の役割だった。いつ、どんな時でも――――茶注ぎですらも訓練の一環で、何処に出しても恥ずかしくない教養を身につけなさいと師は言っていた。
確かに知識があるという事だけでも、生きていくのに困る機会は減る。しかし目上の立場の人間にもてなされた時の作法を、黄梅はほどんど全くと言っていいほど心得が無かった。
「私が代わります!」
「いいから、いいから。私が唯一おもてなし出来る時間だから、もてなされてくれないか?」
「ですが……」
渋ってみたものの、橙晴は手を止める様子がまるでない。恐らくどれほど代わると申し出ても彼が手を止めることはないだろう。
「…………いえ、解りました」
諦めてがっくりと項垂れそうになるのをぐっと堪え、勧められた稲座布団へと正座する。次に何が起きても対処できますようにと、すがる思いで祈った。
「遠慮しなくていいんだ、楽にして。ここは仮とはいえ、祭りの間は貴女の部屋になる。もう少しで茶も入るから、そこの菓子でも先につまんでくれ」
「あ、いえ……その、この状況に食欲がついてこなくて」
「はは! それは申し訳ない」
この状況で呑気に飲み食い出来る者がいるとしたら、相当肝が据わっている事だろう。
「本当はね、綠楊が一番この瞬間を楽しみにしていたのだけど」
このおもてなしの時間は、兄妹の時間でもあるのか。そう理解した黄梅は、よく眠る綠楊の姿にくすりと笑みを零した。
その姿こそあまりにも警戒心がない。本当にここは平穏なのだと思わずにはいられない。思わずにはいられないからこそ、余計に自分の役目が解らない。
間もなく、手際よく入れられた茶杯を差し出されて、わずかに固まった。
「どうぞ」
「あ、ええと……頂きます」
不意に思い出した。乳香梅が植わるこの地の水の有毒性について。
ずっとこの日の為だけに慣らしているのは、もちろん解っている。だがここは原水とも言っていいはずだ。ただでさえ栄冠の証である花冠ですら、そこから香る匂いは酔ってしまいそうだった。
「良ければ、私も一緒に頂いていいかい?」
「ええ、もちろん」
おもてなしと言われた手前、口をつけない訳にはいかない。そっと香りを嗅いで、青さを含む苦味のある香りにどこかほっとした。これならば、毒慣らしにと師が用意していたものよりも余程飲みやすいだろう。
「あ……美味しい」
口に含んだ茶は、空気に漂う甘さまでも払拭するような、爽快な苦さがあった。決してただ苦いだけではない、お茶本来の自然な甘みと鼻に抜ける清々しい青さが心地よかった。
「それは良かった。手ずから水を汲みに行った甲斐があった」
「え? 手ずから……?」
「ああ。井戸の水も悪くないのだけどね。裏手の林に少し入って行ったところにある私のとっておきの場所に、小さな清水が湧き出ていてな。そこで汲んだ水を使って入れるお茶が一番旨いんだ」
「ご自分でそこから入れられるのですね……」
呆気にとられずにはいられなかった。皇子ともあろう人が、そんな事をするものなのだろうか、と。
「やれることを私自身で勝手にやらないと、皆すぐに過保護にしてくるからね。甘えきっていたら何も出来ない盆暗になってしまう」
苦笑しながら告げられて、なんと応えたものか解らない。皇子に下女のような雑務をさせないのは当然のようにも思えるし、他に意図があるのだろうかと考えると、もしかしてと思わない事もない。
茶杯を手にしたまま目を伏せて考えこんでいた黄梅の様子を、橙晴はどのように捉えたのだろうか。
「ところで黄梅嬢は、乳香梅は苦手か?」
「……え?」
急に何の話だろうと黄梅が顔をあげると、皇子は格子窓の方へと視線を向けていた。
「多くの者は国花であるそれを好んでいるが、私はどちらかというと甘すぎて苦手でね」
「何だか意外です」
「嗅ぎ慣れた花ではあるけどもね……。戴冠に使われる乳香梅は、奥の宮の庭にある一際古い乳香梅が使われているそうだから、私にはなお一層香りが強くてね」
袖で少し口元を覆って見せたのは、それくらい苦手なのだと言いたいのだろう。
「舞台を終えてから顔色が段々と悪くなる様子を見たら、私と同じなのかなと思ってね。今なら外して構わないよ」
「あ……お気遣い頂きありがとうございます……」
そっと花冠を外しながら、思わずほっと息をついた。ほっとしたことに、自分でも驚かざるを得なかった。
確かに始終香る甘い匂いに辟易しているものの、体調不良はそれ程感じていなかった。様々な訓練を行って全身疲労に動けなくなることこそはあったものの、体調を崩した事は数えるほどしか無かった。
だからこそ、黄梅のそれに気がついた橙晴の観察眼に、舌を巻く。
じっと眺める手元の花びらはとても滑らかな手触りで、小ぶりな乳香梅は確かに可愛らしい。これだけ見ても、噂に聞いた人の心をからめとってしまう恐ろしい毒を持つ花には見えなかった。
「実は……その、あまりこの香りを嗅ぎ慣れてなくて」
呟いてから、はっとした。自分は今、何を言ってしまったのだと。無意識に今、何を言った?
「慣れていない?」
取り繕う事は難しかった。
いいや、誤魔化して不審に思われるくらいなら、変に隠す必要もないだろう。
「私は旅をしている最中で、この地にたどり着きました」
「というと……黄梅嬢は――――」
「外の国の者です」
ここを国として捉えていいのか解らなかったが、黄梅にとっては異邦の地であるから間違いではないだろう。さて、言ってしまった以上、自分の首を取りに来たのかと言われても可笑しくはない。
表情をどうにか落ち着けているつもりではあるが、内心はらはらとしていた。何を言われるだろうかと待っていたら、そうかと思いの外落ち着いた様子で返された。
外の国はあるのか、と。納得したような、独り言のような様子に、黄梅も不安になった。
「あの、外の国の者が華姫に選ばれるのはよろしくなかったでしょうか」
「いや関係ないさ。違うことを考えていただけだよ」
「違うこと……?」
「そう、外の国のこと。私は今までね、この地の外側には死界が広がっていると聞いていたよ」
「え」
「それほど意外なことかな。この地の謂れは聞いたことあるかい?」
「あまり……」
「それもそうか。乳香梅の香りは守護の香り。乳香梅が花咲く土地は神の守護が働いている証拠。乳香梅のある場所でならば、我ら人間は争いを起こさず安寧を得られる。だからこそ我等の地を守護する龍神様は、穏やかなこの地の人間を好いて、守護するこの地に乳香梅を埋められたのだと」
「それは……」
思わず言い澱んでしまった。その謂れは、黄梅の知るものとは正反対だったから。
「――――ふむ、なるほどな」
目を細めた橙晴が、黄梅には解らなかった。ただ、平和に任せて過保護にされて、のんべんだらりと過ごしている盆暗ではないのだと言うことだけははっきりした。
「単純に、黄梅嬢の居た地とこの地は、謂れが根本的に違うのだなと思っただけだ。聞いたことある謂れは、私に言うにはよくないものなのだろう?」
からかわれて笑われながらも、是とすぐに肯定し難かった。
どうしてこの方は、これほど楽しそうなのだろう。自分の関わるものが悪く言われて、全く気にならないのだろうかと思わずにはいられない。
不承不承ながら尋ねれば、前から外の国の存在の可能性について考えていたのだという。
そこまで考えていながら箱庭のような中にいるのは、まだ身の丈に合っていないからだろうと、あいも変わらず言うから、言葉を失ってしまった。
「不自由なんてお互い様さ。すべてを知り、すべてを手にする権利があるものなんて、実は誰もいないのさ」
どこか諦めさえ滲ませている言葉は、黄梅を黙らせるには十分過ぎた。
この方はもしかして、何が起ころうとしてるのか実は知っているのではないか。実は黄梅の目的もお見通しなのではないか。
そうだとしたら。
そうだとしたら、自分は一体どうしたらよいのだろう。
『器を壊すのが、お前の使命だ』
師は確かにそう言った。
そして器は間違いなく橙晴だ。
『器を壊す』ことについて、躊躇いはない。しかし今の黄梅には、それが本当に出来るのかどうか、解らなかった。ただ言えるのは、自分の目で確かめて、自分で成すことを見極めなければならないということだ。
推測を並べている場合では、ない。
「祭り、どうぞ楽しんで」
橙晴の願いは、きっと実行出来ない。




