花ハ知ルヤ?.2
心地よく涼し気な空気を纏い、町人たちとは明らかに『人としての何か』が異なっていた。近々祭が執り行われると聞いていたが、その指揮官だろうか。人々に指示を出しているものの一歩後ろから、祭り準備を眺めるその者から、黄梅は目が離せなくなった。
その瞬間、黄梅は理解してしまった。
ああ、あれが器なのだと。限りなく神の血を濃くした、神を受け入れる為の人柱。そして、黄梅が壊さなくてはいけないもの。
彼を壊さなければ、かつて大地を枯らした邪な神が降りてきてしまうのだと、否が応でも理解した。
幸いと言うべきだろうか。彼がこちらに気が付く事はなかった。あるいは、気が付いた上で野放しにされているのかもしれない。どちらにせよ、師が言っていたものを見つけてしまって素通り出来るほど、黄梅は厚顔にも恥知らずにもなれなかった。
かくして目的を達するには、まずは近づかなくてはどうにもならない。町人の話を伺う限り、闇夜に乗じて強行突破も可能そうではあったが、出来れば荒立てる事無く成し遂げたい。
そんな思いからどうしたものかと数瞬考えた黄梅に、華姫の選定はあまりにも都合のいい催しだった。
化け物を相手にするわけではない。ただ、同じ人を手にかけなければいけないという点は、流石の黄梅も少し気が引けた。
否、あれは人の姿をしただけの紛い物である。壊す事に正義こそあれ、誰かに非難される事はないのだ。近づく手段も、正当である必要はない。
その時は、そう思っていた。
沢山の似通った美しい娘たちに引けを取らず、華姫に選ばれたのは黄梅にとって幸先が良かった。華姫に選ばれればこの祭りの間、皇族である彼に近づく機会はたくさんある。器である彼の首を取り、とっととこの地を去ればいい。それだけの話だ。
その時までは、そう思っていた。
「おめれとう、ございます! オウメイ様。あなた様のほまれ高きそのお心、うつくしき笑顔をもって、あなた様に神々のちょうあいとわが国のはんえいがもたらされます、よう!」
柔らかそうな頬を真っ赤にしながら人々の前に立ち、覚束ない足取りながらも懸命に役目を全うしようとする綠楊幼姫に、思わず頬が緩んでしまった。
愛らしい幼子は、これから起こりうることを何も予想などしていないのだろう。このような地にいるにも関わらず幸せそうな様子に、己の使命について疑問が再び過った。同時に、そこにいるだけで周りの空気を浄化するようなすがすがしさに、この子もまた、器なのだろうかと思わずにいられない。
そして花冠から香るむせ返るほどの甘い香りは、町に漂う空気よりも一層濃厚に感じた。
「あのねあのね、黄梅様! かかん、とってもすてきです!」
「あ……ありがとうございますっ……」
だからこそ、動揺した。
己の使命が間違っている気がするほどに、余りにも純粋なまなざしを向けてくるから。戸惑いを取り繕っている間に目の前に立っていた相手が、あまりにもごく普通の兄として振る舞うから。あるいは、鼻の奥にこびりついてしまいそうな甘い匂いを感じていないかのように笑うから。
「とても立派だった。よくがんばったな、綠楊」
「はい!!」
本当に私の使命は、橙晴を討つ事なのだろうかと、疑問に思う程に。
「綠楊、本日から使命を賜った立派な皇女だろう。華姫様の前ではしたない姿を晒すならば、約束の祭り菓子は用意しないぞ」
「っ……! い、いやです! 綠楊、おとなしくできます!」
「綠楊ではなく、私と言いなさい」
「わてっ……くし、おとなしくできます!」
幼い妹に向ける温かいまなざしに、くるくると表情を変える幼女の様子は、間違いなく平和そのものと言えるだろう。
湧いた疑問に動揺していたら、不意に橙晴と目が合ってはっとした。
「お恥ずかしいところを見せてしまったね、黄梅嬢。改めておめでとう。他の華姫候補たちも甲乙つけがたい素晴らしい方々だったが、貴女が華姫の座を勝ち得たこと、とても嬉しく思う」
「勿体なきお言葉です、橙晴第二皇太子様。此度はこの上ない栄誉に預り、華姫を立派に勤め上げたいと存じます」
礼を取っていたのは無意識だった。晴れ舞台の為に支給された着慣れない装束にも関わらず、動作に動揺が出ずに済んだのは、師である仮面の巫女に嫌と言う程叩き込まれた作法のお蔭に他ならない。
心強いよ、と。笑った橙晴があまりにも無防備で、あまりにも普通だったから、ついてきなさいと促されるまで呆然としてしまった。
案内されるままについて行き、浮世離れした城内にまた驚いた。もしかしたら自分は、稽古に疲れ切って微睡んでしまい、師に沢山聞かされた話交じりに夢を見ているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。
だが。
庭を横切るように流れる小川に紙の舟を見つけて、黄梅は足を止めていた。あれはまさかという思いが、途端に心臓をどぅっと叩いたように錯覚した。
ゆるりと先を行っていた橙晴が、ああと笑って続けた言葉にまたどきりとした。
「兄上かな。願掛けだよ」
「願掛け、ですか?」
「そう。多分祭りの成功祈願じゃないかな。紙の舟を浮かべて、見えなくなるまで沈まずに流れていけば願いが叶う、ってね。けれど、あれは狡いだろう。油紙の舟が沈むわけがない」
「そうなのですね」
いつの事だっただろうか。あまりにも稽古が嫌になった時に、裏手の小川に逃げ出したのは。
そこに紙で出来た小舟を見つけて、当時まだ残っていた仲間の誰かがいたずらしたのだろうと、勝手に思っていた事を。そしてその考えが違うのだと、時折流れ着く小舟を見て理解したのを。
手にした小舟は確か、いつも油紙だった。
そしてその中に、長い距離を下る間に遮れなかった水気に濡れる小さな紙片が入れてあった。一度だけ中身を読む事が出来たそれに書いてあったのは――――。
「さ、こちらだ」
「はい」
思考の海に沈みそうになって、黄梅は慌てて顔を上げた。今は目の前の事に集中して、彼の思考や動向を知って、少しでも機会を伺わなくては。そんな思いに、気を引き締める。
だから、どんな些細な事でも聞いて欲しいと言われた時は、これほど好都合な事はあるだろうかと思わずにはいられなかった。いっそ、何かに気が付いていて、裏の意図でもあるのかもしれない。
「では……その、橙晴様」
迷ったのは一瞬の事だった。
「なんだろう」
「何故、今年から橙晴様から綠楊様に移されたのですか」
迷ってのんびりしていられるだけの時間も余りない。それに、町で度々耳にした話題ならば、尋ねて可笑しな話ではないだろうと割り切ってぶつけてみた。綠楊だけが不安そうに橙晴を見上げていて、少しばかり申し訳ない事をしている気持ちになったのは余談だ。
「……綠楊の戴冠使は不服だったかな」
場合によっては不敬だと言われかねないだろうな、と。そんな事を考えてはいたが、くすりと笑われただけだった。その事に少しほっとした。
「滅相もございません。綠楊様の戴冠使もとても素晴らしく、素敵でいらっしゃいました。ですが、町でも何か皇家の方々にあったのではないかと噂を耳にしたので、気になっておりました」
「ああ……なるほど。その件に関して、民たちを不安にさせるような事をして、本当に申し訳ないと思っているよ」
そう思われても仕方ないという思いはあるらしい。しかし、それ以上に大切な事があるのだと言外に言われた気がした。
伏せられたそれこそが自分の目的の要と関わっている気がして、問いただしたくて仕方がない。だがそれよりも先に、幼子を抱き上げた橙晴の姿に慌てた。
代わろうと申し出ると、困った横顔が笑っていた。
「この役目はただの兄として、まだ誰かに譲りたくなくてね……私には、貴女の手のほうが美しくて、純粋に羨ましいよ。皇族とは不便なものだ」
少し寂しそう告げる橙晴は、自分自身の身の回りの事すらもやる事は許されないのだろうか。かつて自分の身の置き場を自分で決められなかった黄梅も、複雑な気持ちで閉口してしまっていた。
「すまない。ただの無いものねだりさ、許せ」
恐らく綠楊幼姫を不安がらせた、ちょっとした意趣返しだったのだろう。なんてこと無いようにからから笑って先程の憂いた様子も何処吹く風だった。
食えないお人だと思わず頬を引きつらせたが、背中を向けていた橙晴には、察してこそいそうだが、幸い黄梅の表情は見られなかっただろう。




