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花ハ知ルヤ?.1

 

 黄梅(オウメイ)が己の使命を理解したのは、その地にたどり着いてからの事だった。



 川を辿って山道を登るほど、むせ返るような甘い香りが辺りに漂ってくる。乳香梅(にゅうこうばい)と呼ばれるそれは、常人ならばその甘さに脳の髄が痺れてしまっていただろう。


 汚染とも言える甘さを含む川の水は、甘露のように芳潤な口当たりだと聞く。しかし、一度口にすれば巷で流行りの大麻のように、人の心を捉えてしまうのだと言う。

 正直、耐毒の訓練を行っていなければ、黄梅(オウメイ)とて『黄梅(オウメイ)』でいることが出来なかっただろう。



 このような環境に人がいるのか。にわかに信じ難い気持ちであったが、山間にぽつぽつと民家が見え始めたところで、信じざるを得なかった。


 本当にあるのか、と。呟いていたのは、己に与えられた使命と疑問のあった訓練が、初めて結びついて大きな衝撃を与えたせいだ。



穢禍(アイカ)の神が蘇ろうとしている』

『器を壊すのが、お前の使命だ』



 古びた堂の中で仮面の巫女に告げられたのは、一体いつの頃だったか。

 武術から毒の訓練から生活の何までを叩き込んでくる師としていたその人は、物心ついてから出会ったことは覚えている。数人ばかりいたはずの仲間たちは、日増しに苛酷になる稽古に音を上げ、毒に当てられ、気がつけば黄梅(オウメイ)しか残っていなかった。


 果たして残ったことは幸運なのか、離脱できた彼、あるいは彼女たちが幸運なのか。黄梅(オウメイ)にはずっと解らなかった。これほど体術を極めなくてはならない理由も、毒に身体を慣れさせないといけない理由も解らなかった。

 ただ。仮面の巫女の弟子でいる限り、飢えのない生活を得られるという一点を魅力に感じていた黄梅(オウメイ)の動機としては、他の志高くして半ばで去っていった仲間たちに比べて、非常に不純だったのは確かだ。貧しさ故に飢え、貧しさ故にどこぞへ売られるよりも、己の意思一つで居座れる環境は非常に都合が良かった。


 ふと、師が用意してくれた握り飯の事を思い出す。稽古は確かにとても厳しかった。師から優しさを感じることなんぞ滅多になかったし、何度も逃げ出したいと思った。


 それでも逃げ出さなかったのは、語られるお伽噺に心惹かれていたせいだと思う。人の記録も曖昧なほどの昔話、口伝えに受け継がれていた神領(しんりょう)の聖戦の話。神と神が争い、人と神とが手を組んで戦ったといういにしえの話。

 神々が争っている混沌に乗じて神の首を取ろうとした、邪神や魔の物を討った英雄譚に、黄梅(オウメイ)は何度となく心弾ませたものだ。


 世界を人が治めるようにと神々が去ってからも、(いさか)いは未だ絶える事はない。それは神領聖戦の名残のせいでもあるし、人の性でもあると師である仮面の巫女は言った。

 同時に、人の争いに自分たちが関わる事はないとも言った。ただ来るべき日に向けて備えるだけなのだ、と。


 一体何に、と。果たして黄梅(オウメイ)は何度尋ねただろうか。決して普通とは言えない生活の中で彼女らしさが培われたのは、そんな質問を繰り返しているにも関わらず、呆れることも面倒だと声を荒げる事もなく、その都度昔話を聞かせてくれた師の影響が大きいだろう。



「……それにしても」



 それにしても、稽古の末に自分自身がかつての英雄の真似事をする事になるとは、まるで思ってもみなかった。厳格な師の口から、お伽噺のような指示をされるとは思ってもいなかった。


 穢禍(アイカ)の神の話は、確かに一番良く聞いた。



 神領の聖戦時、沢山の神が犠牲になったという。人々の血は流れて大地を穢し、神の抜け殻が腐敗を一層加速させていた。

 そんな不浄を食らって力をつけようとした蛇が居た。蛇は沢山の不浄を飲み込み、力を蓄えた。始めは神の足元にも及ばない矮小な存在に過ぎなかったその蛇も、神の抜け殻をいくつも食らっているうちに、限りなく神に近い不浄のものとなっていた。

 それでも蛇が邪神に成れなかったのは、その蛇が不完全な存在だったからに他ならない。どれほど力をつけても、二つの首を持つその蛇は、完全な存在にはどうあがいてもなれなかった。その事実が蛇をより一層力を蓄えることへ執着させ、力を渇望させたのだ。


 その頃に、このままこの蛇を野放しにしておくべきではないと気が付く者があった。破魔の巫女が立ち上がったのだ。


 しかしただ討てばいいというだけでなかった。蛇が不浄を食らって去った大地は、命の芽吹きを取り戻し、穢れが払われていたからだ。

 きっと、その蛇を討伐することは難しくない。しかしその蛇を討てば穢れが大地に戻り、生きとし生けるものが住める場所を失うだろう。


 ならば、と。破魔の巫女が取れる手段は一つだった。

 不浄な存在となったその蛇を人里離れた場所へと誘い出し、沢山の食べ物と捧げものと酒を与えて身動きの自由を奪った。毒を吐く牙を折り、その地へ縛り付ける為の(くさび)を打ち、力を削いでその地ごと封印を施したのだ。


 間もなく、神領の聖戦は幕を閉じた。

 神々はこの世を人の手に任せ、各々の世界へと身を引いた。こうして大安の今が得られたのだ。


 神の時代は終わりを告げた。

 だが、かの蛇は未だこの世に封じられているのだという。



 本当にそんな事があったなんて、黄梅(オウメイ)とて本当に信じてなんぞいない。

 終止符を打つのに多勢は無用。そう言われたものの、目的地すら本当に実在しているのかすら怪しくて、このまま物見遊山に出てしまってもいいのではないかと思ったほどだった。

 

 それでも一先ず向かってみようと思ったのは、これより先は立ち入りが禁止されていると言われていた地から流れる小川に、ある日人の手で作られたとしか思えない紙の小舟を見つけた事があったせいだ。あるいは面倒を見てくれた仮面の巫女へ、多少なりとも恩を感じていたからというのもある。


「なら、あの話は本当にあった事なの……?」


 お伽噺と喜んで聞いていたそれが、間違いなく大昔にあった事なのか。妙な実感に黄梅(オウメイ)は無意識にごくりと唾を飲み下していた。



 ぽつりぽつりとしかなかった民家はやがて、数を増していた。長屋が連なり、露店や商店が立ち並び、人の多さと繁盛を目の当たりにして驚いた。これより先は人が住まない危険な地だと言ったのは、一体誰がついた嘘だと言うのだ。



 町の人々は穏やかで、店を覗くついでに雑談をしても嫌な顔をされる事もなかった。見かけない顔だと怪しまれる事もなかったのは、それほどこの地に住む人々が多いと言う事だろうか。


「実は町の外れから今日は足を運びました」


 そんな嘘を絡めると、やれ今日のお勧めは何だ、遠くからのお使いを褒められたりと、かえって悪い事をしている気持ちになった。外から来た可能性が伝われば、てっきりもっと排他的になるのではと思っていたから、黄梅(オウメイ)としては肩透かしを食らった気分だった。


 一日、二日と潜伏し、情報を集めて様子を伺った。聞けばお節介なくらいに話してくれる町人たちに、彼らはこれで大丈夫なのかと不安に思いつつも、聞けるものは有り難く全て聞き出した。


 常に漂う甘い乳香梅(にゅうこうばい)の香りは、町に来てから随分と感じにくくなったような気がする。単純に慣れて来たのかと思うと、長居は危険だと感じずにはいられなかった。

 急ぎ成果を出して離れるべきか。そんな漠然とした焦りがあった。


 どこもかしこも慣れつつある薄らと甘い香りが漂う中、不意に清涼な空気を感じた。濃厚な甘い空気から逃れるように、祭りの準備に勤しんでいるという町人たちの間を抜けていった。

 その先に、その者がいた。

 

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