我ガ使命ハ何処ヤ.3
橙晴の様子に黄梅も腹を括ったのだろう。緊張をかなぐり捨てて、茶杯を煽った。
「あ……美味しい」
「それは良かった。手ずから水を汲みに行った甲斐があった」
「え? 手ずから……?」
「ああ。井戸の水も悪くないのだけどね。裏手の林に少し入って行ったところにあるとっておきの場所に、小さな清水が湧き出ていてな。そこで汲んだ水を使って入れるお茶が一番旨いんだ」
「ご自分でそこから入れられるのですね……」
思わずこぼれた黄梅の言葉に、橙晴は苦笑した。
「それほど意外かな?」
「それはそうでしょう。下女の真似事なんぞさせたとあれば、城務めを選ばれた華姫様達が困りませんか?」
「困らせているかもしれないのは、解っているよ。ただね、世話好きと言えば聞こえはいいが、やれることを私自身で勝手にやらないと、皆すぐに過保護にしてくるからね。甘えきっていたら何も出来ない盆暗になってしまう」
それでも、これくらいしか能がないだけさ。橙晴はひょいと戯けた様子で肩を竦めて、くすくす笑った。
黄梅にとっては、笑い話として受け取っていいのか解らなかったのだろう。茶杯を手にしたまま手元に目線を落としていた。
橙晴は戯けた様子を収めつつ、話題を変えた。
「ところで黄梅嬢は、乳香梅は苦手か?」
「……え?」
急に何の話だろうと黄梅か顔をあげると、皇子は格子窓の方へと視線を向けていた。
「多くの者は国花であるそれを好んでいるが、私はどちらかというと甘すぎて苦手でね」
それはきっと、城のいずれかにある乳香梅を見ていたのだろう。申し訳無さそうに囁いた橙晴に、黄梅は目をしたたかせた。
「何だか意外です」
思わず出てしまった言葉に、橙晴も視線を戻して内緒にしてくれよと苦笑した。
「嗅ぎ慣れた花ではあるけどもね……。戴冠に使われる乳香梅は、奥の宮の庭にある一際古い乳香梅が使われているそうだから、私にはなお一層香りが強くてね」
そんな言葉に、黄梅は自身の頭に載せられたままになっていた花冠に触れた。やがて、橙晴の言葉の疑問をそのまま訪ねていた。
「そう、ということは、橙晴様にはどちらの乳香梅なのか、知らされてないのですか?」
「はは! 鋭い、その通り」
にこっと笑った橙晴は、わざとらしく残念そうにした。
「私にはまだ奥の宮に踏み入る権利がないからな。兄上や、奥の宮入りした歴代の華姫しか許されないんだ。その花冠からも解るとおり、その乳香梅の香りは随一を誇るそうだが……舞台を終えてから顔色が段々と悪くなる様子を見たら、私と同じなのかなと思ってね。舞台を終えた今なら外して構わないよ」
「あ……お気遣い頂きありがとうございます……」
橙晴が本当に苦手なのかそういう事にしているのか、黄梅には解りかねた。ただ、その気遣いが嬉しかった。
そっと手にして眺めた花冠には、四枚の花びらをつけた乳白色の可愛らしい花が、草木の土台に沢山編み込まれている。これを編み上げた者は、さぞかし指先が器用なのだろう。
じっとその花を眺めていた黄梅は、不意にぽつりと呟いた。
「実は……その、あまりこの香りを嗅ぎ慣れてなくて」
「慣れていない?」
言うか言わざるか、迷った様子を黄梅は見せた。やがて決心したのだろうか、不思議そうにかすかに首を傾げながら待っていた橙晴を、まっすぐに見据えた。
「……私は、旅をしている最中で、この地にたどり着きました」
「というと……黄梅嬢は――――」
「外の国の者です」
そうか、と呟いた橙晴は、驚く訳でもなくどこか考え込んだ様子で顎に手を当てた。
「やはり……外の国はあるんだな……」
「やはり、と言いますと……?」
何か違う反応をされると思っていた黄梅は、ただ戸惑った。そんな彼女の様子に、橙晴は何度となく苦笑したあと、どこか遠くへと目を向けた。
「あの、外の国の者が華姫に選ばれるのはよろしくなかったでしょうか」
「いや関係ないさ。違うことを考えていただけだよ」
「違うこと……?」
「そう、外の国のこと。私は今までね、この地の外側には死界が広がっていると聞いていたよ」
「え」
どういうことだと、黄梅は思わずにいられなかった。国の皇子とあろうものが、国の外を知らないものだろうかと驚いてしまい、いっそ何か冗談ではないかと言ってほしい程だった。
「それほど意外なことかな。この地の謂れは聞いたことあるかい?」
「あまり……」
「それもそうか。乳香梅の香りは守護の香り。花咲く土地は神の守護が働いている証拠。乳香梅のある場所でならば、我ら人間は争いを起こさず安寧を得られる。だからこそ我等の地を守護する主神様は、穏やかなこの地の人間を好いて、守護するこの地に乳香梅を埋められたのだと」
「それは……」
言い淀んだ黄梅に、橙晴は目を細めた。
「――――ふむ、なるほどな」
彼の言葉に、黄梅は怪訝に眉を寄せた。
そんな彼女の様子に、橙晴はついくすくすと笑っていた。
「何が解ったのかと言いたそうだね」
「ええと、そう……ですね」
「はは、貴女が素直な女性で嬉しいな」
「か……からかわないで下さい」
「はは! いや、すまない。……単純に、黄梅嬢の居た地とこの地は、謂れが根本的に違うのだなと思っただけだ」
聞いたことある謂れは、私に言うにはよくないものなのだろう? と。面白そうに訊ねられても、黄梅にはすぐに答えられなかった。
「何故、そう思われるのですか」
「…………黄梅嬢、正直者だと言われないかい? 貴女の態度で解らない者の方がどうかしてる」
いや、それを含めて演技だとしたら大したものだ。感心して口元に手を添えた橙晴に、黄梅は思わず目を泳がせていた。
そんな様子にまた、くすりと笑われる。
「外にも人がいて国があるという仮定は、ずっと前からあった。確かめる術が無かったから深く考えていなかったが、確かに合っていて実在してるのだとこうして今日、証明された」
貴女のお陰でと言われても、黄梅は複雑な気持ちだった。構った様子もなく橙晴は顎に手を添えて小さく首を傾げる。
「しかし……同時に不思議だ。思うのは、何故外の国の存在を知らせて頂けなかったのか。元服してない身に、不要な知識だから? あの兄上が理由もなく秘する訳がないという思いがあるせいかな」
「橙晴様は、その理由を突き詰めようとは思われないのですか?」
これほど思慮深いのに、と。そんな言葉を黄梅は咄嗟に飲み込んだ。
黄梅の気持ちを知ってか知らずか、橙晴はひらりと手を振った。
「若輩者に無闇矢鱈に話せない理由があるのではないかな。兄妹によって負う役割が異なるように、時期尚早という事もあるのかもしれない」
「それだけでしょうか」
「役割なんて、そんなものではないかな。例えば私は、ここで皇子であり続けないといけない。誰もが当たり前に出来ることを、私はしてはいけない。世話は周りにさせないといけない。特別な存在として、皇子だから、とね」
不自由なんてお互い様さ。すべてを知り、すべてを手にする権利があるものなんて、実は誰もいないのさ。
どこか諦めさえ滲ませている言葉は、黄梅を黙らせるには十分過ぎた。
「……と、いけない。つい長話してしまった」
くすっと笑みをこぼして苦笑したのは、無意識だろう。橙晴は空気を変えるように告げると、新しく入れた茶杯を差し出した。
「黄梅嬢。今後の予定を簡単に説明させて頂くよ」
「っ……はい」
どこか緊張した様子で背筋を正した黄梅に、橙晴は何度目かの苦笑をした。
「そう固くならないで大丈夫だよ。ここから数刻は実は自由な時間になるんだ」
穏やかな様子の橙晴に安心したのだろう。いつの間にか肩に力が入っていた黄梅も、ふっと身体のこわばりを解いた。