我ガ使命ハ何処ヤ.2
「さ、こちらだ」
「はい」
橙晴は気を取り直すと、迷うことなく中庭に面した板張りの拱廊を進んだ。
「敷地の案内は落ち着いた頃にしよう。聞きたいことがあるならば、どんな些細なことでも聞いてほしい。ある程度準備をしてきた我々と違い、黄梅嬢は選ばれただけだ。知る権利は勿論有るのだから、遠慮する必要ない」
「では……その、橙晴様」
「なんだろう」
「何故、今年から橙晴様から綠楊様に移されたのですか」
臆することなく訪ねた黄梅に、綠楊だけが不安そうに橙晴を見上げていた。
「……綠楊の戴冠使は不服だったかな」
足を止めることなくくすっと笑った橙晴に、黄梅は落ち着いた様子でゆるりと首を振った。
「滅相もございません。綠楊様の戴冠使もとても素晴らしく、素敵でいらっしゃいました。ですが、町でも何か皇家の方々にあったのではないかと噂を耳にしたので、気になっておりました」
「ああ……なるほど。その件に関して、民たちを不安にさせるような事をして、本当に申し訳ないと思っているよ」
よたよたと覚束ない足取りの綠楊を慮って、橙晴は幼子を抱き上げた。使命を得た皇女としてあろうとしても、まだ甘えたい盛りなのは当然だろう。嬉しそうにこてんと胸に頭を預けていた。
元服を迎えた橙晴は、青年と呼んでいい年頃にしては町の人々と比べると線は細い。畑仕事をしていないせいだろうか。成長盛りの青年の手にしてはなめらかで、いっそ黄梅の手のほうが大きく見える気がする程だ。
よろしければ代わりましょうかと申し出た黄梅に、流石の橙晴も苦笑して断った。
「この役目はただの兄として、まだ誰かに譲りたくなくてね……私には、貴女の手のほうが美しくて、純粋に羨ましいよ」
皇族とは不便なものだ。少し寂しそうに独りごちた橙晴に、黄梅も複雑な表情で唇を結んだ。
「すまない。ただの無いものねだりさ、許せ」
黄梅の様子に、それが狙いだったと言わんばかりに橙晴はわざとらしく肩を竦めた。からかわれたのだと黄梅が気がつく頃には、そうそうと楽しそうに話題を変えていた。
「引き継ぐ事になったのは、ね。兄上が言うには、今年が一際特別だからだそうだ」
「……特別、ですか」
気まずい話題から一転してもらえたことで、随分と肩の力が抜けた黄梅は、不思議そうに繰り返した。
「ああ。この地が華国として建ち、華祭を迎えて千年。それが今年だ。特別だからこそ、綠楊にも皇族として参加させたいと兄上が申された。私もそれには大賛成だった。だからこそ、急拵えとはいえ綠楊に戴冠使を引き継いだんだ」
「だから……」
なるほどと頷いた黄梅を尻目に、橙晴は微笑んだ。
とても立派に勤め上げてくれて、私も鼻が高い。そう橙晴が告げると、抱き上げられた綠楊が恥ずかしそうに兄の肩に顔を隠していた。
仲睦まじい兄妹の姿に、黄梅もくすくすと笑う。綠楊が吊られてそうっと黄梅を伺って、目が合うとへへっと嬉しそうにはにかんでいた。
「祭りの裏側は、戴冠使だけが役割ではない。兄上は今も公務に務められていらっしゃるし、私も貴女を助け、円滑に次の儀式に貴女を導く必要がある」
「……実は少し不安で、私に務まるでしょうか」
気丈に振る舞っていたけれども怖かったのだと黄梅が心の内を告げると、橙晴もふふと笑った。
「大丈夫、貴女の振舞いは堂に入っていて何も問題ないよ」
優しく告げられた言葉に、黄梅も胸を撫で下ろした。
一方で、橙晴はわずかに声を上げた。
「あ、こら綠楊。寝るんじゃない」
初めての晴れ舞台を終え、緊張の糸が切れたのだろう。つい先程まではつらつとしていた腕の中の幼子が、もう既にうとうとし始めていた。
その事に気がついた橙晴は、二度三度とその身体を揺すった。綠楊もどうにか舟を漕いで抗おうとしていたようだが、間もなく睡魔のほうが勝ったようだ。そっぽを向くとむずがって、兄の肩に顔を押し付けていた。
「綠楊? 起きなさい、綠楊」
しがみつかれた兄は困った風に柳眉を落とし、肩を竦めて見せた。
「仕方ない子だな……」
「仲がよろしいのですね」
くすりと笑みを零されて、言われた方はただただ苦笑した。
「そう言って貰えている内が花だろう? 幼い妹一人躾けられないなんて、頼りにならない皇子で情けないばかりだよ」
「皇太后陛下が儚くなられてから、皇帝陛下も御身体優れないと聞きました。翠玲第一皇太子様がお忙しく公務に務めていらっしゃる中、橙晴様がお心砕いて支えていらっしゃるのは誰もが存じ上げている事と思います。敬意を評し尊敬こそすれ、情けないだなんて訳がありません」
「はは、ありがとう。その言葉に甘え切りにならないよう、努力しないといけないな」
まずは黄梅嬢と共に、華祭りを成功させるところから頑張るよ。そんな言葉に黄梅も尽力いたしますと頷いた。
橙晴の先導で、やがて中庭に面した戸板で足を止めた。すっかり眠りについた綠楊を器用に片手で抱えながら、戸を横に引いた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
その部屋は、入り口の三和土から三段ほど登ったところに広がっている。小さいとはいえ、人二人は余裕で寝泊まり出来るくらいには十分くらいの広さがある。濃い色の木目調が美しい、綺麗に整えられていた部屋だった。
「こちらの部屋を今日は使ってくれ」
「ここは……?」
「華姫を一時的にお迎えする為の部屋さ。面倒なことに、祈迎の儀を終えてない華姫を、奥の宮に入れる訳にはいかない決まりでね。不便かけさせてすまない。一日が長丁場だ、ここの菓子や軽食は好きに食べてもらって構わないよ」
履物を脱いで部屋に上がった橙晴は、片隅の座椅子に幼子を預けながら手招いた。
部屋の中は簡素ではあったが、客人をもてなす為の備えは万全らしい。部屋の片隅に置かれた足の低い机には、目にも華やかな生菓子や焼き菓子、あるいは気兼ねなくつまんで食べられる軽食が、ところ狭しと並んでいた。
部屋にはもう一つ戸があり、あちらが城の中枢への廊下に続く戸だよと、橙晴は教えた。
客間と言ったがこの部屋で今から何が始まるのかと、恐る恐る階段から覗き込む黄梅を尻目に、橙晴は稲藁編みの座布団を並べ、茶器の準備をしていた。
「あ……! 私が代わります!」
慌てて上がった黄梅を、橙晴はゆるりと手で制した。
「私が唯一おもてなし出来る時間だから、もてなされてくれないか?」
「ですが………………いえ、解りました」
恐らく恒例の事なのだろう。部屋の片隅にある小さな炉に、すでに湯気の立っている鉄瓶を見つけて橙晴を止めるのは困難だと理解してしまった。
慣れた手つきで茶壷に茶葉を入れていた橙晴は、座ってと笑った。気を揉んでいた黄梅も、いよいよ諦めた様子だった。示された稲座布団へと正座する。
「失礼いたします」
「遠慮しなくていいんだ、楽にして。ここは仮とはいえ、祭りの間は貴女の部屋になる。もう少しで茶も入るから、そこの菓子でも先につまんでくれ」
「あ、いえ……その、この状況に食欲がついてこなくて」
「はは! それは申し訳ない」
言葉として謝罪してはいるものの、橙晴に反省の色はない。ゆるゆると眠る幼子を尻目に、本当はねと続けた。
「本当は、綠楊が一番この瞬間を楽しみにしていたのだけどね。さっさと寝こけてしまったから、黄梅嬢だけでも気持ちを落ち着けて欲しかったんだ。――――おーい綠楊、菓子あるぞ。起きないか?」
茶を入れる一方で橙晴が声をかけても、綠楊が起きる気配はまるでない。身じろぎ一つしない様子から、随分と疲れ切っていたのだろうと兄は肩を竦めた。
机の食べ物に菓子類が随分と多いのはそういう事かと、黄梅も納得してくすりと笑う。
間もなく、手際よく入れられた茶杯を差し出された。
「どうぞ」
「あ、ええと……頂きます」
「良ければ、私も一緒に頂いていいかい?」
「ええ、もちろん」
飲むのに一口程度の真っ白い小さな茶杯には、淡く色付いた緑茶が香っている。ずっと辺りが甘い香りに包まれていたのもあって、青さを含む少し苦味のある香りに黄梅はほっとした様子だった。
「苦手でなければ、おすすめはこちらだよ」
橙晴も茶杯を傾けつつ、小さな部屋で黄梅に気を使わせないように、机へと腕を伸ばした。小皿に一つ取り分けて、胡麻団子を差し出す。
「あっ、ありがとうございます」
「気にしないで。私がやりたくてやったんだ」