神ヲ食ラウヤ.2
「……何故、そう思われるのですか」
どうか動揺が伝わっていませんようにという願いが通じたのだろうか。ひょいと肩を竦めた橙晴は、淡々と考えを語った。
「そうでもなければ、正義感だけで立ち向かうには重労働な役割ではないかな。外の国の神々が如何様にお過ごしなのかは私には解らないけれど、人の世への干渉は多くないだろうなって」
「私はただの斥候で、本陣は貴方の知覚出来る外にあるのかもしれませんよ」
「それもまた一興だ。不意打ちと時間をかけた計略で巳上主の首は取れても、戦う術そのものを学んだことはないから、私はひとたまりもないだろう」
折角巳上主をやりこめたのに残念だ、と。あまり残念ではなさそうに、橙晴は告げる。
そしてくすっと笑った。
「けどね、黄梅嬢。忘れてはいけないよ。どんなに私が疎ましく思っていても、この地は凶悪な災禍の神すら酩酊する乳香梅の甘い毒が守る地だよ。貴女は『貴女』でいられたが、他の者たちはどうだろうね」
「……橙晴様は、心底乳香梅がお嫌いなのですね」
「はは、縄張りを主張するのは神の性なのかな? 乳香梅の香りは巳上主の領域だからね。ずっとずっと、取り払いたくて、壊したくて仕方なかった」
壊せるものならね、と。
柄を握る手に微かに力を込めたのを見て、黄梅も身構えた。
「……結局、私も不完全な紛い物に過ぎない。巳上主のようになるのも時間の問題ならば、私が橙晴でいられる内に、貴女に討ってもらうのも一興だろう」
寂しそうに呟いた橙晴は、どこか諦めた様子で手にしていた剣を放り投げた。からんと思いの外軽い音を立てて、目の前に転がされたそれと橙晴とを見比べて、黄梅は戸惑った。
「それは本来、兄上が貴女に託したものだ。あれの血で汚してしまってすまない」
それはお返しするよ、と。一歩、二歩と下がる橙晴が、このまま何処かへと消えてしまいそうな気がした。
黄梅は足元の剣を一瞥すると、橙晴を暗闇の中に見失ってしまわないように、まっすぐ見据えた。
「でも、だからこそ。貴方があの大蛇と同じものになるとは思えません」
「なに……?」
「だって、あの大蛇は、最期の最期にずっと隣りにあった首よりも、己の事を優先しました。けれど橙晴様、貴方は違う。誰よりも苦しんでいた翠玲様を、解らずとも不安を感じていた綠楊様をいつも思いやっていらっしゃいます」
一息に言って、橙晴が口を挟むよりも先に黄梅は続けた。
「それこそが、貴方が神の紛い物でも成り損ないでもなく、ヒトの子である証ではないのですか」
「……それは詭弁だよ。私のことは、私が一番解っている。それに神でなくとも、他者を殺めた私に人並みの生活なんぞ、望んでいいものではないだろう」
ふっと自虐的な笑みを浮かべた橙晴は、きつく目も拳もを閉じていた。聞き入れたくないものを堪らえているような、痛みを堪らえているような、悲痛な表情に、黄梅も眉を寄せた。
「橙晴様……」
「ーーーーけど。そうであると、私も信じたいものだ」
そうはならないと諦めた表情をする橙晴に、黄梅はにっこりと笑いかけた。
「なら、話は簡単です。是非そうしましょう!」
「……いや黄梅嬢、物事はそう簡単な話では――――」
「簡単ですよ。かつては確かに神は存在していたでしょうが、私の知る『今』は、ただの象徴であり、存在しないものなのですから」
「しかし」
「兄妹を思う優しい気持ちがあって、博識でいらっしゃる。まあ、外の世界と比べてしまうと少しばかり箱入り育ちかもしれませんが、物事を成し遂げようとする大きな志に度胸もある。これほど尊敬に値する君主を、私は存じ上げておりません」
「黄梅嬢……」
それは褒め過ぎだと、橙晴は苦く笑った。
黄梅は畳み掛けるように、にっと強気に笑って言ってのけた。
「為せば成る、とも言うではありませんか。それに、橙晴様はかつての巫女が成さなかった穢禍の神を討ったのです。神を討つことに比べれば、人として生きていけるかどうかなど、何とも些末な悩みではありませんか」
そういう暮らしをしたいなら、すればいいのです、と。簡単に言った黄梅に、橙晴は未だ悩ましそうに眉を落としていた。ただその表情には、黄梅がそう言うならば信じたいとありありと伺え、もうひと押しだと黄梅は拳を握って力説した。
「それに、神の血を引いていると豪語する末裔の王侯貴族は、外の国には存外いるものです」
「はは、そうなのか?」
「そうですね。なので、橙晴様が心配するほど、橙晴様たちは特別ではないかもしれません」
私がかつていたところでは、創造神から神格を賜った王の末裔を名乗る一族が、辺境の小さな土地を支配してましたよ、と。如何にも胡散臭い話に、橙晴もついに吹き出した。
「ふっ……そうか。それなら外の生活も面白そうだ。旅をするのも……悪くない。その時は黄梅嬢、ご同行願えないかな? 私達兄妹は外のものを知らなすぎるからね」
「ええ、喜んで!」
翠玲様と綠楊様がお待ちです。そう促した黄梅に、橙晴は頷き踏み出した。
だが不意に足を止めると、「ああ……なるほど」 と声を漏らした。
「いかがされましたか?」
不思議そうにする黄梅に緩やかに首を振る。
「……お前も、神の強欲と穢に侵されていただけで、人の世を救う神になりたかっただけなのだな」
不意に何かを察した様子でぽつりと呟いたそれに、黄梅は閉口した。きっとそうだったとも、違うとも言える事はない。
初めて振り返ってその目に捉えたかつての大蛇を、今になって橙晴は理解出来たような気がした。
だがその姿も、まるで霞に攫われたかのように、既に見る影もなかった。
「ヒトは死して天に召されるとは言うが、救いの神が本当に天にいるのならば、せめての贐に、お前の魂の幸運を祈ろう。なあ、巳上主」




