境界ニ揺ラグヤ.2
知る必要がない事というのは、この世に掃いて捨てるほどある。だから知らない方が幸せだ。
そう言ったのは、一体誰だっただろうか。出先の市場の誰かがそのように言っていたような気もするし、立ち去った兄弟子の誰かがぼやいていたような気もする。
ただ黄梅としては、その意見に納得がいかなかったことは確かに覚えている。無知では危険を知ることも出来ないし、実際その為に、恐ろしい目にも遭った。
弟子入りするまでの記憶は、長い年月の間に随分と曖昧になった。それでも時折、形を成さない悪夢としてうなされ、飛び起きると恐怖の名残が冷や汗として纏わりついて、不快な夜を過ごした事が何度もある。
きっと、知らないほうがいいと告げたその者は、知る前の方が幸せを感じていたからそう言えるのだろう。
真綿に包むようにして、大事に囲われていたであろう綠楊とて例外ではない。恐ろしいものから遠ざけられていたのだろう事が簡単に伺えた。
穏やかに過ごしていた彼女とは裏腹に、翠玲は、あるいは橙晴は、何かを知っていて穏やかであるように演じていた。
しかし、黄梅の肩の衣装を掴む手には力が込められていた。解らないだろうからと秘されていても、敏い幼子には感じ取れるものがあるのだ。
否。単純に、黄梅が自己投影して、そう感じているだけなのかもしれない。頼んでもいない過保護のために姿を消していった兄達と、綠楊の置かれた状況はとてもよく似ていた。
「……背中に乗るの、怖いですか?」
余りにも強く握るから、廊下をたどりながら黄梅は訪ねた。
だだ綠楊は、己の緊張を理解していなかったのだろう。肩越しにわずかに見えた表情は、目をしたたいていた。遅れて、慌てて首を振っていた。
「こわくないです」
「強く握られていたので、てっきり」
くすりと笑ってみると、言われた綠楊が一番驚いていた。
「これは……!」
「あ、手を離さないでくださいね。綠楊様に頼られて、私は嬉しいです」
ふふふといたずらっぽく笑いながら肩越しに告げると、唇を尖らせた姿が背中にぽすりと体重をかけてきた。
「黄梅さまはずるいです」
「綠楊様を贈り物にお願いしたからですか?」
尋ねると、背中で首を振っているのが伝わった。
「黄梅さまは、なんでもしってるみたいでずるいです」
「そうですか?」
「だって。だって……その」
背中でそわそわとしているのを感じながら、黄梅は大人しく待った。
やがて、黄梅の肩に顔を埋めたまま、ぽそりぽそりと呟いた。
「黄梅さまは、お兄さまたちと、ないしょのことしてるでしょう?」
「それは……」
思いがけない言葉に、黄梅も驚いた。
「綠楊は、こわいです」
慌てて弁明しようとしたが、ぽつと呟かれた言葉に、黄梅は軽口を返す訳にいかず閉口した。
自分の中で懸命に言葉を探す綠楊は、あの、その……と歯切れが悪い。
「なんか……よく、わかんない、ですが……こわいです」
何がと問う前に、綠楊が背中にしがみついてきたのがわかった。
「お兄さまたち、きゅうにいなくなったりしないですか?」
確信のような言葉に、黄梅も咄嗟に返答を無くした。自分の後頭部を真剣に見つめている気がして、思わず足を止めそうになる。
やはりそうなのだ。解るのだ。
大切な身近な人の事だから。
『キョウダイ』なんてとぼやいていた兄弟子たちはもちろんいた。しかし少なくとも黄梅にとっては、かけがえのない大切な存在だった。
綠楊にとっても同じなのだ。そう思ったら、無性に遣る瀬無かった。
決して足を止めないように、不安にさせないように。努めて黄梅は明るい声で返した。
「綠楊様、そうならないようにするために、私がここにいるのです」
顔を上げて、肩越しに笑いかける。少し不安そうに眉を落としていた綠楊が、本当に? と問いたそうに首を傾げていた。
「本当ですよ」
くすっと笑ってしまったのは無意識だった。失敗は許されないというのに、成すべき事に確信を持った事で気持ちに余裕が生まれたせいもある。
「私の昔話を少し聞いて頂けますか?」
「むかしばなし、ですか?」
「はい、私の家族の話です」
言うと、不安そうな様子から一転して、興味を持ったようで身体を乗り出したのが重みで解った。
「実は私にも兄が二人いました」
「黄梅さまの、お兄様?」
「そうです」
綠楊様と同じですね。微かに笑みを浮かべながら、黄梅は続けた。
「私達兄妹は貧しいながらも幸せに暮らしておりました。けれど、幸せだと思っていたのは、幼いころの私だけでした」
「どうしてですか……?」
「実はその頃、食べるものもままならなかったのです。一生懸命食べるものを探して、身を寄せ合っておりました」
聞くやいなや、綠楊は不安そうに尋ねていた。
「そのお兄さまたちは、今はどうされているのですか」
「そうですね……。幼いころに離れ離れになってしまったので、今はどこに居るのか解りません。ですが、必ず元気に生きていると私は信じております」
「そんな……」
離れ離れだなんて、と。悲しそうな綠楊に、黄梅は至って明るく告げた。
「私は結局、兄たちとははぐれてしまいました。でもだからこそ、今の綠楊様が、橙晴様と翠玲様と離れ離れになるかもしれない不安な気持ちが、とてもよく解ります。……やっぱり、寂しい事に変わりはないですから」
だから、と続けた。
「私みたいに、綠楊様が寂しくならないようにするために、遥々遠くから来ました」
「でも……」
「綠楊様をお助けしても、私の兄たちは戻って来ないのにって不思議ですか?」
横目で後ろを伺うと、今にも泣き出しそうな綠楊が頷いていた。そんな様子に、黄梅はふふっと自然に笑ってしまっていた。
「嫌なんです。私が悲しかった事を、綠楊様も同じ悲しい気持ちになる事が。だからこれは、綠楊様からしたら迷惑かもしれませんが、私のただの自己満足なんです」
それだけ、と。黄梅が告げると、綠楊は呻いた。
「むずかしくて、わからないです」
「あはは! 大丈夫、解らなくていいのです。ただ困っている綠楊様をお助けする、お節介だとでも思って下さい」
「おせっかいじゃないです! おせっかいだなんて……」
それは聞き捨てならないと言わんばかりに綠楊が身体を起こしたので、あわや黄梅は一瞬身体がふらついてひやりとした。少し咎めねばと口を開けようとした時、綠楊はまた、背中にしがみついてきた。
「黄梅さまのことも、りょ……わたくしは、大切です」
「綠楊様……」
まさかそんな風に言ってもらえるものとは思ってもいなくて、黄梅は一瞬言葉を失った。
「……ありがとうございます」
背中に背負っていてよかったと、この時は思う。黄梅は頬が熱くなっているのを感じながら、当然ですと告げる得意げな幼子の言葉が耳にくすぐったかった。
その時だった。
不意に聞こえたがたんという物音に、黄梅は足を止めた。
綠楊にもはっきりと聞こえたのだろう。なんでしょうとおっかなびっくりな様子に、黄梅も普段から当たり前に物音がする場所では無いのだと知る。
「私が見て参ります。少しここでお待ち頂けますか?」
背中から降りてもらいながら告げると、眉を落とした姿が物言いたそうにこちらを見ていた。
だが、自分が足手まといになってしまうのは、理解しているのだろう。
「う……はい。……黄梅さま、お気をつけて」
送り出されて、黄梅は力強く頷き返した。




