逆波ニ溺レリヤ
「兄上がそれ程急がれるのは珍しいですね。何か不測の事態が起きましたか?」
「……いや」
「では、華姫の黄梅嬢に不服でも?」
「……そうではない」
先を行く翠玲が、時折ふらついているのには気が付いていた。橙晴が怪訝に思っていると、目の前で握りしめていたらしい水筒に気が付いた。何をと考えたのも束の間、酒臭いどころか携帯しているのだと気が付くと同時に、翠玲はそれを煽っていた。
「兄上、祭事で仕方ないとはいえ、深酒は控えた方がよろしいのでは」
「必要なんだ」
「必要って……すでにふらふらではありませんか」
少し休みましょう。そう言って翠玲の背に手を添えると、橙晴はすぐ目についた部屋の戸を開けた。
翠玲は大丈夫だと半ば寝言のように返すが、部屋へと促す橙晴の手すらも振り払う余力が無いようだった。
押し込んだ部屋で、やけっぱちのように酒の入った水筒を止める間もなく呷った翠玲は、頭を振っていた。
「兄上、無茶は止してください」
水筒を慌ててもぎ取り非難するような橙晴に構わず、翠玲はその襟首を掴まえた。
「橙晴、いいか。よく聞け。日が暮れるよりも先に、あの華姫と共にこの地を出ろ」
唐突に言われた言葉が理解できなくて、橙晴は一拍、二拍と呼吸を置いて小首を傾げた。お酒臭いです、なんて冗談を言う雰囲気でもなくて、ただただ戸惑う。
「ええと、藪から棒にどうしました? この地を出ろって……この地の外は死地で、人は生きていないとおっしゃっていたのは兄上ではありませんか」
「説明している時間がない。詳しい事はあの華姫が把握している。頼むから、言う事に従え。もう時間がないんだ」
そこまで言われて、橙晴は漸く合点がいった。ああと思わず声を漏らして、胸ぐらを掴む手をそっと握り返して離させた。
「…………時間が無い、というのは。兄上が巳上主に逆らえなくなるまでの時間、という事ですか」
返した言葉に戸惑ったのは、今度は翠玲の方だった。
「……なに?」
「存じ上げていますよ。兄上が、時々『兄上』でいらっしゃらないこと」
「それは」
「そして間もなく、巳上主に私の身体を献上して、彼の方が完全な存在になろうとされているのでしょう?」
橙晴の核心めいた言葉に、眉間に深く皺を刻んだ翠玲は閉口した。
はあ、と。酒臭い息を深く吐いた翠玲は、座った目でじろりと睨みつけた。ただ酔っているだけではなく、素直に言うことを聞かない弟への叱咤も混じっていた。
「ならば言われた意味が解るだろう。脈々とお祀りし、お守り頂いていた存在とはいえ、あの方は厄災の象徴だ。完全な存在としていいお方ではない。それに…………」
ふと言葉を切った翠玲は、こめかみを抑えながら、飲み込んでいた言葉を吐き出すように零した。
「……むざむざ、お前を失ってたまるか」
「兄上」
悩ましく告げられて、橙晴も不満に眉を寄せた。
「それは兄上にも言える事です。私を逃がして、兄上はどうされるおつもりですか。今度こそ兄上の意識も心もなく、巳上主の手足として、死ぬまでお仕えされるおつもりですか」
「それは」
「言ったでしょう。存じ上げております、と」
ぴしゃりと告げた言葉は、翠玲を黙らせるには十分だった。
「兄上は気がついておられましたか? 昔から私は、この巳上主の象徴である乳香梅が、兎に角嫌いで嫌いでたまりませんでした。それでも誰も違和感を申されないので、私だけがおかしいのだと思っておりました。……ですが、最近漸く理解しました。ここがあれの領域だから、疎ましいのだと」
「橙晴……?」
淡々と告げられる言葉に、翠玲も様子のおかしさに気がついたようだった。
構わず、橙晴は苦笑した。
「解るのです。己に流れる血は、人の物ではないと。きっと、私の身体は確かに限りなく、神という存在に近いものなのでしょう。ですが私は兄上の弟であり、綠楊の兄橙晴であって、巳上主ではありません。私の意思は、あれと共に完全なる神になる事ではないのです」
吐き出した言葉は、落ち着いているようにも聞こえた。しかし、それが悲痛な本心なのだと訴えていた。
はたと翠玲を見据えた橙晴は、今にも泣き出しそうだった。
「私が逃げたら、兄上はお仕えするまでもなく、間違いなく殺される。あれの考える短絡的思考なんぞ、知りたくなくても解るのです」
たった二人しかいない家族を、失いたくないのです、と。縋るようにじっと兄を見つめていた橙晴から、翠玲もまた目が離せなかった。哀れみを誘うような表情なのに、こちらを丸のみにしてこようとするかのような気迫に、翠玲はたじろいでしまっていた。
その隙を、橙晴は見逃さなかった。
「だから兄上」
「っぁ……橙晴、何を……」
目の前の襟元を逆に掴み返した橙晴は、驚いて硬直していた翠玲の足を払って重心を崩した。体重をかけて倒れ込むままに抑えつけると、元々酩酊一歩手前まで酒を飲んでいた翠玲は、あっけなく抑え込めた。
「私が決着をつけます。兄上は、こちらで朗報をお待ちください」
「ま、待て! 橙晴!」
翠玲は慌てて橙晴を跳ね除けようともがくが、上手く身動きが取れなかった。無駄な抵抗だと言わんばかりに、橙晴は懐から出した晒しで手足を器用に縛り上げたせいもある。
「橙晴! これを解け!」
「お断りです」
身体を起こそうと翠玲はもがく。ついでと柱にくくられた姿は、揺すられたせいか途端に酒が回ったらしく、思うように動かない事に目を白黒させていた。
「だから、飲み過ぎだと忠告したでしょう」
少しだけ苦笑を滲ませた橙晴は、起き上がれずにいる姿からの目を離すと、戸の側に立てかけていた一振りの剣を手にした。
「ああ……それと兄上。黄梅嬢にお預けしようとしていたこちらの剣、少々お借りしていきますね」
一体いつからそこに、と。翠玲が驚きに目を見開いた姿に、橙晴はくすりと苦笑した。
「それほど驚いて頂けましたか? 兄上と話が出来るとしたらこの部屋だろうと、当たりを付けて隠しておいた甲斐がありました」
ふふと口元だけで笑った姿は、曰くのあるその剣の柄を撫でた。
「こんな大切なもの、そこらに置いては駄目でしょう。綠楊が遊んで、怪我でもしたらどうされるのですか」
「お前……どうして……」
「あの祠で見つけたから、少しお借りしたまでです。今朝方、水を汲みに行ったら無造作に置かれていたので、そのまま拝借いたしました」
「っ……これを解け、橙晴!」
「安心してください。兄上の様に干渉を受けておりませんし、私はあれに情も何も有りませんから、確実に仕留められます。悔やむとしたら、もっと早くにこうするべきでした」
にこりと橙晴が笑いかける側から、翠玲の目つきはみるみる内に険しさを増していた。
「――――お前、正気か橙晴!」
「いつだって正気ですよ。……悪縁は、断ち切ってしまいましょう」
恐らくあれ程回っていた酔いも覚めて来たのだろう。縛られていなければ、きっと飛びかかってきていた。
そんな兄の姿は見ていたくないと言わんばかりに背を向けた橙晴は、思い出したように振り返った。
「…………ああ。例え意識が混濁して兄上でいられなくなっても、流石に飲み過ぎなので、お酒は没収です」
手の届かない所に酒瓶を放り投げて、あくまでゆったりとした動作で部屋を出た。
いってきます、と。届かない気持ちに苦笑しながら、その心境と共に橙晴は戸を閉めた。




