4話
4話です!!!!
聳え立つ二階建てのアパートを前に、香月は戦慄していた。
視界に映るのはサビとツタ。そして隙間から覗かせる白い壁。
庭には雑草が生い茂り、獣道のような住人の通り道がただ一本伸びるだけだ。
香月はことの発端となった一枚のメモを取り出す。
何かの広告の裏に、担任の字で書き殴られたような文字と大通りからの簡単な地図が描かれており、赤い矢印が示す場所こそが今香月が立っている場所だった。
「めっちゃ近所じゃん、アリスの家……」
そう、この今にも崩れ落ちてしまいそうなボロアパートは、アリスの住所に記されていた場所であり、香月の自宅から三件隣のアパートだった。
しかもこのアパートは、近所の子供達から『幽霊屋敷』と呼ばれており、一種の心霊スポットとしてローカル的な知名度はそこそこ高い。
アリスは今日学校を欠席した。
担任によると風邪を引いたため、とのことだったが、香月は昨日のことを思い出すと、とてもそれだけだとは思えなかった。
知恵熱というものが実在するのかは知らないが、確実にいっぺんに喋りすぎたし、内容も内容で、アリスにとっては陽炎を掴むような思いだっただろう。
あまりにも自己中心的な会話をしてしまったことを、今になって香月は悔やんでいる。
これはそんな自分への贖罪なのだ、そう言い聞かせ、香月は両頬をパンッと叩き気合を入れた。
幅一メートルもない獣道の端端からは、身長ほどの夏草が握手を求めているように生い茂り、二の腕や頬をチクチクと刺す。
香月は雑草をかき分けるように進み、部屋番号202号室を目指して向かって左側にある寂れた階段を登る。
階段にはもちろん手摺はあるのだが、持とうものなら容赦無く手をサビが茶色く汚し、ギギィと嫌な音を立てるので、手摺は掴まず石橋を叩いて渡るように慎重に、一歩一歩階段を上がっていった。
202号室が目前まで迫ってくると、その部屋が醸し出す異様な雰囲気を鼻が感じ取った。漫画などであれば『ゴゴゴゴゴゴ!』と効果音が描写されているに違いない。
顔を顰めたくなるような生理的嫌悪感が嗅覚を伝う。
レトロなタイプの呼び鈴には、今時珍しくカメラなどがついておらず、女の子の一人暮らしには少しセキュリティ面で不安が多いな、と香月は心配になった。
二、三度呼び鈴を押したところで、扉の向こうから這うような音がした。
まるで扉の向こうを大蛇が這っているようにズルズルと音がして、思わず身構えたが扉を開けたのはアリスだった。
コンビニバイトの帰りにも着用していた袖先のほつれたジャージに、ボサボサの髪の毛、復讐と決意に赤く燃えていた瞳は虚ろで焦点が定まっておらず、おでこには冷えピタをしている。
__マジで風邪引いてたのか⁉︎
香月の驚きも知らずにアリスは小首をかしげる。
「新聞ですか? 宗教ですか? いずれにしても私には経済的な余裕がありませんので、失礼します」
「俺だよ、俺」
「あなたでしたか、おじいちゃん」
「年齢的には合ってるけどその呼び方は傷つくぞ」
「おじいさま?」
「なんだよその疑問形。それと多少高尚な呼び方になったところで俺は機嫌を良くしたりなんかしないからな」
そんなやりとりをしている最中、香月はあることに気がついた。
アリスの背後に積み重なった、何かの山。
「アリス、なんだこの部屋は。ゴキブリも泡吹いて倒れるようなゴミ屋敷じゃねぇか」
「心外です。私はこの部屋に越してからゴキブリを一度たりとも見たことはありません」
「そりゃゴミに埋もれてゴキブリもさぞかし暮らしやすいだろうよ」
悪臭の正体はこれだろうな、と香月は頷いた。隣に人が住んでいるのかはわからないが、よく苦情が来なかたっものである。
__いや、狸が住んでるって言われ方がしっくりくるな。
アリスの顔色を見るにこれ以上の立ち話は控えたほうが良い、そう判断した香月はズカズカとアリスの部屋に上がり込んでいった。
「不法侵入です」
「病人は寝てろ。……ったく、こんな部屋で暮らしてれば風邪だって引くわな」
アリスは口をへの字に曲げながらも、香月が思ったよりか重症なのだろうか、恐ろしく素直にベッドに潜り込んだ。
大量のゴミの中に、ポツンとベッドだけが汚染を免れていた。
この部屋で唯一女の子らしい白いクマのぬいぐるみを、アリスはとても気に入っているようで、ベッドに潜るとそれを抱き抱えるように横になった。
「昨日の続きですが……」
「病人は黙って寝てろ……」
香月は言いながら部屋の掃除を始めた。
床一面に広がったコンビニ弁当の殻を拾い集めゴミ袋に投げ込み、一度も使われた形跡のないキッチンに積み上げられたコンビニ弁当の殻をゴミ袋にまとめ、冷蔵庫に押し込まれた消費期限切れのコンビニ弁当を全てゴミ袋に投げ入れた。
「貴重な食料に何をするのですか」
ベッドの方から蚊の鳴くような声でアリスが抗議してくるが、香月は一切聞き入れずにゴミ袋の口を縛る。
幸い明日は燃えるゴミの日だ。前日にゴミを捨てるのは町内会のルールには反するが、このまま部屋にゴミ袋を放置すれば二の舞になることは目に見えていたので、アパートの表にあるゴミ捨て場にコンビニ弁当の殻でいっぱいになったゴミ袋を二つ抱えて往復した。
ゴミのなくなった部屋は外装の割に小綺麗で、もの寂しい雰囲気を纏っていた。
掃除機を借り雑巾をかけ、ある程度は綺麗と言えるようになった部屋を見渡すと香月は長く息を吐いた。
一難去ってまた一難。
ゴミを一掃すれば、再び別の問題が浮上した。
「なあアリス……聞きにくいんだがお前って生活に困ってたりする?」
「……」
「玄関でも確か、経済的余裕はないって」
「……」
「もしかしてめちゃくちゃ貧乏なのか?」
「それは……。しかし復讐という私の目的になんの関係もありません。栄養だって廃棄のコンビニ弁当で賄えていますし、税金だって納めています。電気ガス水道などの公共料金だって払えますし、第一貧乏の定義とは? この部屋に家具が少ない、娯楽が少ないというのであればそれは単に私がミニマリストということであって貧乏とは関係のないことですし、第一あなたには関係ないことですよね。ズカズカと人の部屋に無理やり押し入ってきながら失礼じゃないですか? やはりあなたは世間一般的に言えば__」
「ストップ、よくわかった。お前は貧乏じゃないし俺もお前を貧乏とは思っていない。ドゥーユーアンダースタン?」
「わかればいいのです。あと、その拙い英語をもう一度使えば追い出します」
アリスに対して『貧乏』は禁句らしい。
しかし、アリスの食生活は栄養学の心得がない香月から見ても異常に近い。
そもそもコンビニ弁当だけでは賄える栄養素にも偏りがあるし、なにより食べ過ぎだ。
香月は部屋の隅に、担任から渡すように言われていたプリントやら自分の鞄やらを置いて、そこから財布だけ抜き取った。
タオルケットから顔の上半分だけ出した状態でアリスが問うてくる。
「おかえりですか?」
その声は、気丈に振舞っているようで酷く辛そうだった。
痰が絡んでいるのか、声が掠れている。
「食欲はあるか?」
「いえ__」「ぐううううううううぅぅぅぅぅぅ」
アリスの腹が盛大に音を立てた。
「……少しだけ、お腹が空きました」
アリスは頭のてっぺんまでタオルケットで隠し、恥ずかしそうに声をいっそう細めて言う。
「了解。今の時間なら卵がタイムセール中か、見たところ米はないが一通りの調理器具は揃っているな」
一通り部屋を見渡せば、一人暮らしスターターセット程度の家具や機械は揃っている。
香月はひとりごちるように言うと、部屋を出て行ってしまった。
アリスは誰もいなくなった部屋で、ベッドの枕元でアリスを見下ろしている白いクマのぬいぐるみと、アリスに添い寝するように、ベッドに寝っ転がったアカツキに問いかける。
「なんなのでしょうか、あの人は。私はあの人を殺そうとしているというのに」
「……」「……」
「そうです。今日あたりにでも師匠に連絡してみましょう。新たなヴァンパイアの情報が得られるかもしれません」
「……」「……」
「シロくんもアーちゃんも、何か言ってくださればいいのに」
アリスは数十分前とは打って変わり入居時のように片付いた部屋を見渡す。
隅に置かれた香月の荷物や冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、掃除機くらいしか物が無い、全く生活感がない部屋だ。
「姿見くらい買いましょうか、私も女の子なのですし」
香月が息を切らして、スーパーのレジ袋をいっぱいにして帰ってきたのは、それから十分ほどあとのことだった。
スーパーから帰ってくるなり、香月は食材たちを冷蔵庫に押し込んだ。
香月が片付けるまでコンビニ弁当でいっぱいだった冷蔵庫は、たちまち生鮮食品でいっぱいになった。
香月は自宅から持ってきた土鍋と冷や飯を取り出す。
土鍋に水を入れて沸騰させてから冷や飯を入れる。
再度沸騰すれば弱火にし、白だし、みりん、醤油、溶き卵を回し入れ中火で加熱。
卵が固まったら小ネギを散らし器に盛りつけた。
「ぐううぅぅぅっ」
腹を鳴らして待っているアリスに、お粥を盛った器とスプーン、お冷と一味を盆に乗せて運んで行く。
アリスの顔を覗き込むと林檎のように赤くなっている。
そういえばこの部屋にはエアコンがないし扇風機もない。開け放たれた窓から入ってくる風も、夏特有の生ぬるく心地よいものとは程遠かった。
「食欲は大丈夫そうだな、とりあえず簡単なお粥作ったから腹に入れとけ」
「……復讐相手の施しなど受けるつもりはありません」
一度は香月が差し出した盆を押し返したアリスだったが、横で香月が自分の分をよそって食べ始めると、
「しかし、他人からの厚意を無下に扱うことは母の教えに反します。ですので……少しだけ、いただきます」
「おう」
二合分の冷や飯で作ったお粥は、十分足らずで全てアリスの腹に収まった。
ぺろりと完食したアリスは、両手を合わせて目を閉じる。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
香月が最後に誰かのために料理をしたのは数十年ぶりのことだ。
悪い気はしない、と香月は満足げに鼻を鳴らす。
洗い物をしながら香月は、横になっているアリスにひとつ提案することにした。
「なあアリス、明日からも夕飯作りに来ていいか? って言っても食材とか買い込んじまったから、事後報告みたいになっちゃったけど」
「……許可します」
そこでふと、香月は担任からの伝言を思い出した。
アリスのアパートヘ来たのは、そもそもそれが目的だったのだ。
「ならよかった。それともう一つ、再来週からテスト週間だから勉強しておけよ。うちの学校、赤点取ったら一ヶ月は補習が続くからな」
「__っ!」
「どうしたんだ? 顔色がさっきより悪くなったような……」
「いえ、気のせいでしょう」
「手が震えてるけど?」
「気のせいでしょう」
「夕飯作るついでだ、勉強も見てやるよ」
「あなたに施しを受けるつもりなどありません」
「そんなチベットスナギツネみたいな顔で言われても……ちなみに赤点は平均の半分以下だから、だいたい40点くらいか」
「……私に勉強を教えることも、ついでに許可します」
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