1話
1話です!
二百六十年間生きてきた香月にとって、夏休みとは一瞬だ。というより、全国の生きとし生けるものすべての青少年にとって夏休みほど刹那的な時間もないだろう。
今年こそは、と勢いで買ったエレキギターがインテリアの一部になるのも一瞬の出来事だし、あとでいいかと放置していた夏休み課題の期限が明日に迫っているのも一瞬だ。
夕飯の買い出しに行く最中に、ヴァンパイアハンターの少女の襲撃を受けて丸一日が経過している。
しかしそんなことは今考えていられない、と香月はお気に入りの赤いシャープペンシルでこめかみをトントンとノックする。
「くっ、時間が足りない……!」
今香月の頭を悩ましているのは、先ほども述べたように『夏休み課題の期限が明日に迫っている』という事実だ。
明日、つまりは九月一日。
香月にとって二百四十回目となる高校生活二学期の始業式。
机の上に置かれている卓上カレンダーには、まるで祝い事かのように花丸で『始業式』と書かれているが、これを書いたのはお盆に差し掛かった辺りの香月だ。
終わりの見えない宿題のせいか、あるいはインドア体質が祟っての孤独生活のせいか、毎年夏休みの中盤頃には学校が恋しくて恋しくて仕方なくなるのだ。
そんな当時の自分が恨めしい。
花丸をつける暇があるのなら英単語の一つでも書いてくれ、と憤慨する。実に滑稽だ。
「鈴木のやつ課題出し過ぎだろ! いくら時間があるからって張り切りすぎだ!」
一問解き終えるごとに天井を仰ぎ、息を吐く。先ほどからこれの繰り返しだった。
明らかに効率が落ちている。糖分が必要だ。休憩が必要だ。睡眠が必要だ。
脳みそが警鐘を鳴らしている。これ以上酷使しないで、と悲鳴をあげている。
時計を見ればすでに夜の十時を回り、長針が九に差し掛かったあたり。
いつものスーパーは閉店時間を迎えているし、もちろん喫茶店なんかも閉まっている。
都合よくカラオケや漫画喫茶や二十四時間やっているファミレスなんかがあれば良いのだが、近くにそれらしき店を見たことがない。
そもそも夜九時を超えて営業しているのは、二十四時間制のコンビニか、近所のおっさんどもの憩いの場であるスナックくらいのものだ。
「コンビニに行こう」
欲に負けた香月は消しゴムを指で弾いて宣言する。
言うが早いか、パンツ一丁だった香月は物干し竿にかかったままになっていたTシャツと半ズボンをひったくり、スマホと財布をポケットに突っ込んだ。
部屋の電気を消すと、軽やかにスキップをしながらコンビニを目指す。
冷房の効いた部屋を一歩出ると、「ここは南米ですか?」と錯覚するほどむせ返すような熱帯夜が広がっていた。
ゲコゲコと鳴いているカエルの合唱も、涼しい空間で聴けば心地よい睡眠導入音声のように感じるが、暑さによって精神的余裕を奪われた今となってはただのノイズでしかない。
街灯のない脇道を行けばコンビニまで近道だ。
月光を頼りに大通りまで出ると、すぐにRGB色のコンビニの看板が見えてくる。
店内に入るとお馴染みのメロディーと、店員のドットmp3のような抑揚のない「いらっしゃいませ」という挨拶が出迎えてくれる。
香月は一目散にアイスクリームコーナーへ向かった。
夏・熱帯夜・コンビニといえばアイスである。
清涼感のあるシャーベットもいいが、喉に焼けつくような甘さのバニラアイスも捨てがたい。三百円を超える値がついた高級アイスコーナーは、なるべく視界に捕らえないように、と香月は目を細める。
結局はいつものカップに入ったバニラアイスに落ち着くのだが、決断するまでに要した時間は五分だった。
アイスクリームコーナーはカウンターの目の前である。
アイスを一つ選ぶだけで五分も店内に居座ったのだ。さぞかし店員におかしな目で見られていたのだろう、と俯き加減でカウンターにアイスを差し出した。
ピッという電子音の後、左手側にあるパネルを操作し硬貨挿入口に二百円突っ込み終了。ぱぱっと退店しよう。そう思っていたが、店員がなかなかアイスをレジに通さない。というより、アイスを持ったまま固まっている。
店員の手のひらに包まれたアイスの容器は歪み、中身が手のひらの熱で明らかに溶け始めていた。
「あの、溶けてますけど……」
香月はおそるおそる店員に伝えるが、変化が起こる様子はない。
どうしたものかと顔を上げると、香月は目を見開いて驚愕に声を上げた。
それはアイスの中身が滴り落ちていたからでも、店員が香月と全く同じ表情をしていたからでもない。
店員が、先日襲撃してきたヴァンパイアハンターの少女だったからだ。
香月は逃げ出すようにつま先を出入り口の方へ向けるも、目の前に振り下ろされた銀嶺の槍によって進行方向を塞がれた。
「おいおいおいっ! ヴァンパイアハンターのお嬢ちゃん、こんなところで殺し合いなんざ俺はまっぴらごめ__」
「お会計が済んでいません」
両者の間に、数秒の沈黙が流れた。
「お会計が済んでいません」
淡々と告げる少女の瞳には、先日のような復讐心に燃える激情は宿っていない。それどころか、まるでレジスターの一部になってしまったように、機械的に接客する少女が、左手に槍を右手に歪んだアイスのカップを持って佇んでいる。
「百六十円です。レジ袋は購入されますか?」
「いえ、そのままで結構です……」
「スプーンはおつけしますか?」
「お願いします……」
ピトピトとバニラの雫が滴り落ちるアイスを手に取り、包装されたスプーンを受け取って香月は退店した。
「いやいやいやいや、何してんの?」
再び聴き慣れたメロディーとともに入店した香月に、少女は顔を顰めて機械的に挨拶をする。左手には当然のように銀嶺の槍が握られたままだった。
「いらっしゃいませ。当店では商品の破損に対する弁償や返金返品は致しかねます」
「たしかにアイス溶けてるしカップに亀裂が入って手がネチャネチャするけどそうじゃないだろ⁉︎」
「公共料金の支払いはまだ勉強中ですので、他の店員にお申し付けください」
「勉強熱心なのはいいけれど、そうでもなくて……!」
「ホットスナックは現在品切れ中です。揚げたては八時間後品出し予定です」
「見ればわかるわ! それよりなんでここにいるんだヴァンパイアハンターの嬢ちゃん!」
少女は小首をかしげ、「このお客様は何を言っているのだろう」と、でも言いたげな目をしている。
明らかにクレーマーやそれに準ずる人たちに向ける目だった。
「現在勤務中ですので、私用でしたら後五分ほどお待ちください」
十一時。
高校生以下は条例で十一時以降の労働は禁じられている。
店内を見渡せば四十を超えた辺りのおじちゃん店員が品出しをしており、彼もしくは他の店員に業務を引き継ぐのだろう。
香月は店内のイートインコーナーで、溶けてもはや別の飲み物と化したバニラアイスを喉に流し込み、スマホで電子書籍を読みながら少女が従業員出入り口から出てくるのを待った。
「お待たせしました」
ライトノベルを十頁ほど読み終えた頃、よく通る澄んだ声につられて顔を上げた。
少女は制服姿から一転、袖先がほつれた紺色のジャージに身を包んで現れた。両手にははち切れそうなほど弁当や菓子パンが詰まったレジ袋を抱えている。
健全な青少年がコンビニの着色料保存料マシマシの弁当を食べるのはどうかと思ったが、変に刺激しては再びあの槍が飛んでくることが容易に想像できたため、香月は何も言わずに口を閉じた。
よくみれば全て賞味期限が今日か明日だ。廃棄のものを貰ったのだろう。
「歩きながら話しましょう」
少女の有無を言わさない申し出に、香月は大人しく従うことにした。
「お嬢ちゃんはいつからあそこでバイトしてたんだ?」
冷房の効いた店内に後ろ髪を引かれる思いで退店した二人は、なるべく人通りの多く明るい道を選んで歩いていた。
香月としては何気ない世間話のつもりだったが、少女の不審者を見るような目を見て問い方を変えた。
「なぜまだこの街にいるんだ? 昨日で俺が殺せないことは十分わかっただろ」
「しかしあなたはこうも言いました『今は俺を殺せない。俺が対ヴァンパイアの戦い方を教えてやる』と。無論私は教えを乞うつもりはないですし、復讐のためにあなたを殺すことを諦めたわけではありません」
「えーっと、つまり?」
「どうせあなたは私に殺されます。その前にあなたが長い人生の間に蓄えた対ヴァンパイアの戦い方、それを盗ませてもらいます。それが今私にできる最適解だと判断しました」
拳を震わせ、少女は続ける。
「あくまでも私の行動方針は復讐です。今はその準備段階にあり、私はあなたを観察対象としました。あなたの技を全て奪いつくして、あなたを殺します」
「ちょっと待て、俺はあのコンビニを毎日使ってるからわかるけど、お嬢ちゃんは昨日まであそこでバイトなんかしてなかっただろ? 復讐とバイトになんの因果関係があるって言うんだ?」
少女がこの街に居座る理由、それは香月を殺すためと香月の対ヴァンパイアの戦い方を盗むためなのはわかった。しかし、それとバイトの関係がわからない。
それに、観察目的で毎日香月の訪れるコンビニでバイトするのはあまりにも効率が悪い。
コンビニで商品を見る時間など数分しかない上に、利用時間帯もバラバラだ。充分な観察時間を得られない。
こればっかりは本人の口から聞かなければ、と香月は返答を待つ。
少女は遠く青白く輝く月を眺めるように、ぼんやりとした目線を投げながら告げる。
それはまるで独り言で、愚痴るような言い方だった。
「ニッポンの学校はお金がかかります。教科書に制服、授業料。祖国とは桁違いです」
「学校?」
「いえ、喋りすぎました。私はこちらなので、失礼します」
復讐とバイトと学校とお金、所々繋がる箇所もあるが、全体像がまるでイメージできない。 叙述トリックものの小説を読んでいる気分だ。
三叉路の左道をさっさと歩き去っていく少女の背を香月は見送る。
そして、少女は知る由もないとわかっていても、声に出さずにはいられなかった。
「俺の家もソッチなんだけど……」
鉢合わせするのもなんだか気まずくて、香月は遠回りして帰宅した。
結局アイスはコンビニで食べてしまって、課題をやりながら飲もうと企んでいたエナジードリンクは買いそびれた。
香月は机の上に広げられた課題を見つめ、ため息を吐く。
だが、ため息を吐いたところで課題が終わることもないし、減ることもない。ましてや時間が逆戻りするわけでもないので、結局は椅子に座ってシャーペンを取って現状と真摯に向き合うしかないのだ。
次の問いに答えよ。
問1、(x-4)(x-3)(x+4)(x+3)を展開せよ。
二百六十年も生きていれば、過去解いた問題にしばしば出くわす。それに勉強は得意な方だ。
「xの4乗-10x2乗+9っと」
それでも高校一年生の夏休み課題は手強い。
「まさに『数は何よりも勝る』だな」
香月はひとりごちて次の問題に進む。
しかし、本当の問題が明日我が身に降り注ぐことを香月は知らない。
__一難去ってまた一難。
それはまさに、ヴァンパイアの生き様そのものだった。
読んでくださりありがとうございます!
予定では20話前後の完結になると思いますので、それまで気長にお付き合いください。
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