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悪魔の呪い

もしも間に合うというのなら

 嫌な夢を見たのだ、と思っていた。

 青年おとなになった自分は、父に命じられるままに宮廷で暗躍し、その果てにすべての罪を暴かれて。終身刑を言い渡されて、獄中でひっそりと病死する、そんな夢。

 その夢がいやに生々しかったことからも、夢の中で“悪魔”に囁かれたことからも目をそらし、いつもと変わらない朝を迎えた――――はずだった。


「紹介しよう、コーリス。お前の義妹いもうとだ」


 機嫌のいい父は好きだ。暴力を振るわれないし、覚えてもいない母のことを引き合いに出して怒鳴られることもない。一日中父の機嫌がいい保証はどこにもないが、朝から罵声が飛ばないだけで嬉しかった。

 けれど今日だけは、その安堵も忘れてしまう。上機嫌の父が連れてきた、五歳か六歳ぐらいの少女。痩せっぽっちで、宝石のような黄色い目をした彼女のことを、コーリスはよく知っていた。


「ユー……ル……?」


 思わず彼女の名を呟く。ユールは、ユールチェスカ・グレイムは、怪訝な顔でコーリスを見た。

 ぶわり、記憶が鮮明に蘇る。夢の話だと忘れようとした罪が、抱くことを諦めてしまった希望が。

 ああ、そうだ。あの夢は、決して夢などではない。自分の、自分達の未来の姿だ。


 亡国の王女ユールチェスカは祖国の復興を夢見て仇敵たるこの国を支配しようとし、自ら奴隷としてキルトザー家にやってきた。コーリスはそんな彼女の手伝いをしていた。ユールチェスカの暗躍によって父の政敵はみな傀儡となり、父が実権を握れるようになるからだ。父の野望を叶えるための手駒。それが自分達だった。


「わたしはユールチェスカ・グレイム。あなたは?」

「……コーリス。コーリス・ターク・フォン・キルトザーです」


 おずおずと笑いかける。ユールチェスカは無表情のままだ。コーリスの卑屈な笑みが癪に障ったのか、父はふんと鼻を鳴らした。


「あの……よければ、ユール……と、呼んでも構いませんか……?」

「……すきにすれば」


 ユールチェスカの昏い瞳に、コーリスが映っていた。心が落ち着かなくて、思わず親指の爪を噛みそうになる。父に睨まれ、はっとして口元に寄せた手を戻した。苛々したり不安になったりした時は、どうしてもこの癖が出てしまうのだ。危うく、みっともないことをするなと父に怒鳴り散らされるところだった。


 ユールチェスカは国中に麻薬をばら撒き、皇太子すら籠絡した。コーリスは皇太子を欺き続け、皇帝夫妻や皇太子妃といった邪魔になる者達を排除しようとした。

 しかし結局、それらの悪事は軍人達の蜂起によってすべて暴かれた。そしてユールチェスカは遠い辺境の地に幽閉され、コーリスもまた獄中で生を終えた。当然の報いだ。


 けれど今はまだ、なんの罪も犯していない。だってここにいるのは、父親におびえるだけの傷だらけの小さな子供と、復讐しか知らない空っぽのお姫様なのだから。

 今のコーリスはまだ八歳だ。“あの時”に迎えた破滅は、今から十年ほど後に訪れる。もしも、間に合うというのなら――――かつて夢物語だと嗤った希望に、手を伸ばしてもいいのだろうか。


*


「やっぱりここにいたんだ、コーリス」


 暗い部屋に一筋の明かりが差し込む。霞む視界の中で、メイド服の少女が見えた。ユールチェスカだ。

 “あの時”も、そして今も、父の無理難題や仕置きからユールチェスカを庇ったり、勉強を教えたりしていた。後者はともかく前者は父の不興を買って、二人でこの部屋に閉じ込められてしまうこともあったが、大抵問われるのはコーリス一人の責任だ。そのことで恩義でも感じているのか、ユールチェスカはこうしてコーリスを気にかけてくれていた。


「……ぅ、る……」

「たべて。ほら、口開けて。たべたら薬ぬるから、早くして」


 頭が持ち上げられる。硬い床の上で寝ていたはずなのに、その感触が変わる。ユールチェスカの膝の上だ。温かかった。

 水で唇を湿らせてから口に運ばれたオートミールは、少しはちみつの味がした。今は何時なのだろう。散々打たれた鞭の痛みで忘れていたが、空腹だったことをようやく思い出す。それでも身体が重くて指一本自由に動かせないし、なかなか飲み込めない。


「見つかった……ら、あなた……も、おこられ………ます……」

「なんで? わたしはわたしの薬のジッケンがしたいだけ。お父様からも、薬のケンキュウをしろって言われてる。わたしがなんの薬のケンキュウをして、何をジッケンダイにしても、わたしのかって」


 ユールチェスカは淡々と答えた。そうだ。彼女はいつだって、傍にいてくれた。懐かしさに涙が溢れそうになる。

 窓も何もない、真っ暗な部屋。ユールチェスカが持ち込んだカンテラと、ユールチェスカから伝わるぬくもりが、自分は孤独でないと教えてくれた。

 ここは父が用意した折檻部屋だ。不出来なコーリスが父を怒らせたりうっかり口答えをしてしまったりした時、父はいつも仕置きの後にコーリスをここに閉じ込める。今日閉じ込められたのは、父に連れられて行った狩りの途中でうっかりつまずいて転んでしまい、父に恥をかかせたからだ。


 なんとか食べ終えると、ユールチェスカに服をめくられた。ユールチェスカの特技は、あらゆる薬の調合だ。父は毒薬や媚薬だけを作らせたいようだが、ユールチェスカはよく傷薬を作ってコーリスの手当をしてくれた。ユールチェスカいわく、「どんな毒も薬も、同じものだから」らしい。

 傷口に塗り込まれる薬がしみて、別の涙が出そうになるがぐっとこらえる。これ以上、ユールチェスカの前で格好悪いところを見せたくなかった。


「はい、おわり。しごとがあるからもどるね。夜になってもまだ出してもらえなかったら、またごはんを持ってきてあげるから」


 ユールチェスカは水差しとグラスだけ置いて出ていった。持ち場に戻る前にくすねた鍵を戻さないといけないからか、少し早足だ。

 ユールチェスカは書類の上ではコーリスの妹だが、使用人として過ごしている。あまり長く持ち場は離れられないのだろう。血も繋がっておらず、義理とはいえ兄妹として扱われることもない。今も“あの時”も、彼女のことを本当に妹だと思ったことは一度もなかった。彼女のほうでもそうだろう。

 父は奴隷だったユールチェスカを買い取り、彼女の後見人うしろだてとなることで、ユールチェスカを通して実権を得るつもりだった。

 だが、ユールチェスカは諸刃の剣だ。計画が失敗した時にいつでも切り捨てられるよう、ユールチェスカの存在は秘匿しなければならない。だから、キルトザー家におけるユールチェスカは名もないメイドの一人でしかなかった。

 

(ユールは、この国に復讐する気だ。このままだと、“あの時”の繰り返しになってしまう。だけど、せめて、ユールだけでも……)


 どうやら、ユールチェスカは何も覚えていないらしかった。ユールチェスカを説得するのに、過去みらいの話は使えない。

 “あの時”死んでしまう少し前、コーリスの元には悪魔を名乗るモノが来ていた。悪魔は謎めいた言葉を残して消えてしまったが、気づいたときにはこうして過去に戻っていた。これは、コーリスにのみもたらされた奇跡なのかもしれない。

 だが、コーリスは一人では何もできない。今だって、未来を知りながらも父親に逆らうことすらできないのだ。そんなコーリスが、ユールチェスカを破滅から救うためにできることは、何も――――


「そうだ……。一人で、できないなら……助けて……もら……………」


 それは、あまりに虫のいい話だった。それでも、縋ってみたかった。

 かつてコーリスとユールチェスカの陰謀を暴いた者。コーリス達に陥れられた皇太子妃を救い、軍人達を率いてこの国を守った男。もしかしたら彼ならば、ユールチェスカのことも救ってくれるかもしれない。


*


 今日は軍部が主導で行う式典の日だった。ユールチェスカを迎えて一年、どれだけこの日を待ちわびたことか。

 皇宮は王侯貴族であふれかえり、儀礼用の軍服に身を包んだ軍人達もそこかしこに立っている。

 だが、だからこそ父とはぐれたふりをするのは簡単だった。誰かに見咎められ、父のもとに連れ戻される前に、目的を果たさなければ。


「お嬢様! どうしてこちらに?」

「ミカルお兄様がここにいるとお祖父じい様におしえてもらっていたから、きてしまったの」


 探していた軍人は、しばらくして見つかった。目線を合わせるために腰をかがめて、ユールチェスカと同い年ぐらいの少女と話している。後の皇太子妃となる公爵令嬢、ロザレイン・アドラ・フォン・ディエルだ。


「まったく仕方のない子だ。さぁ、あちらでばあやと一緒に待っていてください。私もすぐに向かいますから。……わざわざ私に会うためにお屋敷を出られた勇敢で賢いお姫様ですから、終わるまでいい子で待っていられるでしょう?」

「ええ!」


 軍人……ミカル・セレンデンは仲間の軍人に断りを入れ、ロザレインと手を繋いでその場を離れようとする。このまま行かせてはならない。チャンスはきっと、今しかない。


「あ、あの!」

 

 ミカルとロザレインが振り返った。怪訝な顔でコーリスを見ている。

 二人とも、まだコーリスのことなど知らないはずだ。この頃のミカルはまだ二十歳を少し過ぎた頃ぐらいなのだろう。コーリスがよく知る彼よりもずっと若かった。


「は……はじめまして、コーリス・ターク・フォン・キルトザーと申します」

「キルトザー……。キルトザー伯爵のご子息か」


 冷酷そうなミカルの眼差しが、恐ろしい父の姿に重なる。

 だが、ミカルは父のような“父上おとな”ではない。それに、今の彼は、コーリスとユールチェスカの願いを終わらせるためにマスケットを携えて現れた断罪者でもないのだ。だから、臆する理由はどこにもない。震えるこぶしを握りしめ、コーリスは頭を下げた。


「セレンデン少佐、貴方に助けてもらいたい人がいるんです。どうか、どうかユールを……ユールを、助けてもらえませんか」


*


「事情はわかったが……小官にもできることは限られるぞ」


 ロザレインを送り届けた後、ミカルはコーリスのために時間を作ってくれた。“あの時”の話をして笑われては困るので、コーリスはユールチェスカの話をかいつまんで伝えた。

 父が違法に奴隷を買って使用人として置いていること、その女の子を傾国に育て上げようとしていること。その子は何十年も前に起きた戦争で滅んだ国の王家の末裔で、この国に復讐しようとしていること。それをどうしても止めたいこと。我ながら荒唐無稽な話だったが、ミカルは真剣に向き合ってくれた。


「そ、それでも構いません。貴方は僕よりずっとすごいし、頼りになるから……貴方さえいれば、きっと……」


 コーリスが知っているミカルは少佐の位を持つ将校だったが、今の彼の階級はまだ中尉だったらしい。それでも、歪んだ形だったとはいえ憧れて、コーリスが目指そうと思った姿は変わらなかった。大切な少女ロザレインを守り慈しむミカルのように、コーリスも愛した少女ユールチェスカを大切にしたかった。


「小官では手助けすることしかできない。ユールチェスカ嬢を説得できるのは、君だけだ。君の力で救え、自分自身とユールチェスカ嬢をな」

「……え」


 だが、続けられた言葉にコーリスは目を見張る。ミカルは静かにコーリスを見ていた。


「誤解だと言うならそう言ってもらって構わないが、小官の目には君も助けを求める子供に見えるぞ。……小官は帝国軍人だ、帝国の民を守る義務がある。ゆえにいくらでも手を差し伸べるし、安全な場所まで連れていこう。だが、そこからどうするかを決めるのは君達だ」


 君は年のわりに聡明そうだから、と前置きし、ミカルは重ねて口を開いた。

 コーリスの立ち振る舞いが、負傷を隠して無理に動こうとする新兵によく似ていること。コーリスの目が、何かにおびえる子供そのものであること。それらはすべて真実で、だからこそ何も言えなかった。


「君はどうしたい? このまま闇の中で腐したまま死んだように生きるか、それとも光の中で生きるために足掻くのか」


 差し伸べられた手に、おずおずと触れる。「実はこれは、小官が恩師に言われた言葉なのだが。いつか言ってみたかったのだ」コーリスの手を強く握り、ミカルは照れたように微笑んだ。

 ひとつ、願ったことがあった。ミカル・セレンデンのような父か兄がほしい、と。

 もしかしたらそれは今、叶えられたのかもしれない。それなら他の願いも、まだ間に合うのだろうか。


*


 学問もマナーも、武術も教養も。すべて完璧にこなして、ようやく及第点だ。父に怪しまれることのないように、コーリスは熱心にそれらに取り組んだ。

 幸い、過去みらいの記憶のおかげで当時より上達もずっと早かった。コーリスにとっては二度目の子供時代なのだ。少しでも気に入らないことがあれば相変わらず父はコーリスを殴り、折檻部屋に閉じ込めたが、不出来さを理由に罵られることは減ってくれた。

 そうなると勉強に割く時間が自由時間へと変わり、父の監視の目も緩くなった。結果的に、ユールチェスカと話す時間も増える。面倒がるユールチェスカを掴まえてはたくさん話しかけ、彼女の話もたくさん聞いた。

 彼女の親の話、奴隷になる前の暮らしの話。彼女は祖国も戦争も知らなかった。彼女の親がこの国に亡命してから、彼女は生まれたからだ。

 彼女の国は深い山の中にある、植物と薬学を中心にした国だった。親から様々な薬の知識を学び、王家に伝わる特別な植物の種子を受け継いだ彼女は、その国の叡智の結晶とも呼べる姫だ。


 ミカルに助けを求めて以来、ミカルは知り合いの貴族軍人や、情報通だという軍人のつてを使い、キルトザー家の悪事を暴く証拠を探してくれていた。だからコーリスも、屋敷内にある怪しい書類をこっそり彼に渡したり、父と繋がりのある黒い人物の名前を教えたりしている。

 ミカルはコーリスの迅速な保護を約束したが、断ったのはコーリスだ。まだあの屋敷でやることがあった。コーリスが内通者として父の側にいれば、きっと早く証拠が集まるだろう。ミカルは渋ったが、コーリスが護身術と受け身の取り方を教えてほしいと頼んだことで折れてくれた。これはコーリスが自分で決別すべき問題なのだと、彼にもわかってもらえたようだ。

 ミカルとのやり取りは、ロザレインを介して行われていた。ミカルが何か言ったのか、ロザレインの家から招待状が届くのだ。おかげで父から疑われることはなかった。

 “あの時”には一度も届かなかったその手紙を手にロザレインに会いに行くと、ロザレインは得意気な顔で「ミカルお兄様のおてつだいなら、わたくしにだってできますもの」と笑う。無垢なその笑顔は、ただただまぶしかった。

 ロザレインの祖父やミカルに帝国軍式の稽古をつけてもらったり、城で文官をしているロザレインの父親に勉強を見てもらったり。父の目を気にすることなく甘い物を食べることができたし、ロザレインともよく遊んだ。医学の心得のあるロザレインの母親に、痕の残った大きな傷を診てもらうこともあった。

 ディエル家の屋敷に行くのは楽しかった。本当はそこにユールチェスカも連れていきたいのだが、彼女は表に出せないのでいつも留守番だ。だが、いつかきっと自由を教えてみせる。



「わたしは父さんに、あなたはお父様にしばられてる。……わたしたち、いっしょだよね?」


 ディエル邸のお土産のクッキーを見つめながら、ユールチェスカは不意にそう尋ねた。

 何も知らないユールチェスカにこの国への復讐心を植えつけたのは、彼女の父親だ。彼女の父親がユールチェスカに復讐を望んだから、強くて脆い空っぽのお姫様は復讐を誓った。

 ユールチェスカは、珍しく不安そうな目をしている。“あの時”の自分も、似たようなことを言われたことがあった。けれど“あの時”のユールチェスカは、安心したような顔をしていたはずだ。

 果たして“あの時”は、なんと答えたのだろう。思い出せなくて、それでもコーリスは今紡ぎたい言葉を必死で紡ぐ。


「僕は……僕は、いつまでも父上に縛られたくはありません」


 母は、幼かったコーリスを残して消えた。病死ということになっているが、本当はどこかの下位貴族の三男坊と駆け落ちしたらしい。母似のコーリスは、屋敷中の人間に疎まれていた。

 母に置いていかれたことと、瞳の色が父と同じ薄氷の色……母とその間男の血筋にはない色だったことから、キルトザー家の息子として育てられただけだ。母に捨てられたコーリスに、縋れるものは父しかいなかった。

 “あの時”は、いつか父に認めてもらえると、褒めてもらえると、愛してもらえると思っていた。だから尽くした。だが、それはただの幻想だった。父は最期までコーリスを自分の道具としてしか見てくれなかった。

 だから、父の言いなりになるのはもうやめる。父の呪縛から逃れ、自分の足で歩いてみせる。


「だからユールも――――僕と一緒に、いきませんか」

「……え?」


 ユールチェスカの手を握った。小さくて、冷たい手だ。いずれこの国を傾ける劇薬を生み出す手だとは思えないほど弱々しかった。


「僕は、貴方の望みを叶えられない。僕が貴方のためにしようと思ったことは、結局うまくいかなかった」


 かつてコーリスは、ユールチェスカのためにその復讐のぞみを叶えようとした。そしてすべてが終わったあと、ユールチェスカの手によって死ぬことを望んだ。それこそユールチェスカに幸せになってもらう唯一の方法だと思っていた。

 だが、今ならまだ間に合うかもしれない。別の方法で、彼女は彼女の幸せを見つけられるかもしれない。もしも間に合うというのなら、空っぽのお姫様を甘美な復讐から解放して、代わりにもっと綺麗なものをその心に詰め込んであげたかった。


「だから……違うことを、試したいんです。何をすれば、貴方の全部を奪えるのか。貴方の心を、復讐ではないもので埋められるのか。でも僕一人じゃ、何も新しいことを思いつけません」


 だから、貴方が教えてくれませんか。

 縋るコーリスに、ユールチェスカはたじろいだ。そのトパーズのような瞳は戸惑いに揺れている。


「このまま互いの父の言いなりになっていても、得られるものは何もありません。ですが、今ならまだ間に合うのかもしれない。……僕は、貴方といきたいんだ。やり直したいんだ。貴方を、今度こそユールを、正々堂々と愛したい……!」


 “あの時”のユールチェスカはルーナという偽名を名乗り、媚薬を使って皇太子に近づいた。その時すでに皇太子の側近として彼の信頼を得ていたコーリスは、皇太子を籠絡しようとするユールチェスカを手伝っていた。

 可憐で庇護欲をそそるルーナは皇太子に気に入られ、寵姫の位を与えられた。そして皇太子をまんまと手玉に取り、宮廷の勢力図をキルトザー伯爵にとって都合のいい形に歪めた。それこそが、父がユールチェスカの復讐を支援する見返りに求めたものだ。

 ユールチェスカは、ルーナは、はじめから皇太子のモノだった。それでもコーリスは、ユールチェスカを愛していた。帝国を憎む彼女に、己を犠牲にしてでももう一人の自分を作り上げた彼女に、この想いが純粋な形のままで届くことはないとわかっていたけれど。だからコーリスが示した愛は、ずっと歪なままだった。


「そんなこと言われても……わ、わたしにはわからないよ……!」


 ユールチェスカはコーリスの手を振り払う。わななく彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろ落ちた。


「やり直すって、何? 知らない、知らない、わたしは復讐あれ以外の生き方なんて知らない! わたしはそのために生まれたの、わたしは帝国に復讐するための劇薬どくなんだから!」

「なら、一緒に探しましょうよ! 毒も薬も同じなんでしょう!? だったらユールにだって、薬として生きる道があるはずだ!」


 払いのけられた手をもう一度取る。今度はユールチェスカも拒まなかった。


「……じゃあ、さいごまでつきあって。ケンキュウもジッケンも、しなきゃいけないから……。だから、いっしょにいてよぉ……」


 返事の代わりに、泣きじゃくるユールチェスカをそっと抱きしめて背をぽんぽんと叩く。国を操る宮廷の黒幕にはなれなかったが、それでもユールチェスカの瞳にはちゃんとコーリスが映っていた。

 

*


「そなたがコーリスか」

「……お初にお目にかかります、サージウス殿下」


 幼い貴族の子供達を呼んで皇妃が催したお茶会で、真っ先にコーリスに声をかけてきたのは、後の皇太子となる少年だった。皇子サージウス・リッツ・フォン・アルスロイトはコーリスを見て不遜に笑っている。

 “あの時”コーリスの存在にサージウスが気づいたのは、十三歳の時だった。勉学にしろ武術にしろ、凡人のコーリスが優秀なサージウスの目に留まるだけの成果をそれまで出せなかったからだ。だが、今はむしろ“あの時”に血のにじむような努力をしたおかげでもっと早く彼に近づくことができた。


「そなたの噂は聞いている。チェスが得意なのだろう? 余と一局、どうだ?」

「はっ、光栄です」


 サージウスは天才だ。まだ幼いながら、彼はあらゆる学問や武芸に通じていた。だが、“あの時”の彼は周囲のおべっかに慢心して努力を忘れ、すべてにおいて周りの人間を見下すようになる。神童を凡人以下の傲慢な傀儡に変えた筆頭こそ、“あの時”のコーリスだった。

 誘われるままにチェス盤の用意されたテーブルに向かう。サージウスの趣味がチェスだと父に聞かされてから、ただひたすらに戦術の研究を行った。サージウスに興味を持ってもらうためだ。“あの時”も、サージウスはチェスの腕をきっかけにしてコーリスを気に入ってくれた――――コーリスは、真剣勝負を演じるのが上手いから。

 最後まで気の抜けないぎりぎりの勝負は、サージウスを楽しませた。コーリスが手加減していたことに、サージウスは最後まで気づかなかった。それを悟られないだけの技量がコーリスにはあった。チェス以外でもそうだ。コーリスが努力だけで天才サージウスを超えたのは、常に彼に負けるためなのだから。


「どうやら、これでチェックメイトのようですね」

「なっ……!?」


 だが、父の傀儡になるのをやめると決めた今、そんな手加減は無用だった。サージウスが操る白の軍は完全に制圧され、コーリスの黒の軍がすべてを支配している。そんな盤面を見て、サージウスは笑い出した。


「噂はまことだったようだな! まさか、余を負かす者がいたとは! 気に入ったぞコーリス、もう一局だ!」


 まだ佞臣の息のかかっていない皇子は、無邪気な目でコーリスを見ていた。そんな風に見られる資格は、自分にはない。

 それでも、もしも。まだ互いに道を踏み外す前の自分達なら、本当の友達になれるのだろうか。


「必死に学問や武術を修める凡人を、才覚のみでゆうゆうと越えていく。それこそ真の選ばれし者というものだ。そなたならばわかるだろう? そなたも、余と同じ高みから世界を見下ろす者なのだから」


 サージウスが満足するまで対局を繰り返していると、いつの間にかお茶会はお開きの時間を迎えていた。

 別れ際、サージウスはそう言った。“あの時”コーリスを側近候補とみなしたサージウスも、同じことを言っていた。


「そなたならば、余の、」

「それは違います、殿下。僕は、ただの凡人ですよ。殿下のように最初からすべてに恵まれていたわけではありません」


 側近にふさわしい。そう続けられるはずだった言葉を遮る。“あの時”は、笑いながら拝命した彼の言葉を。


「ですがそんな僕でも、努力の末に殿下にチェスで勝てるようになりました。才能だけがすべてではないんです。殿下は確かに天才だけど、僕らが殿下を怠惰で愚かな傀儡に変えてしまった。だけどまだ……まだ間に合うから、どうか気づいてください。他人ひとは、殿下が思っているほど無価値じゃない。貴方は確かにこの国で最も高貴な血筋の方だけれど……見下していい相手なんて、いないんだ」


 憎悪と憧憬、そして後悔が心の中でぐちゃぐちゃになる。何を言っているのか、もう自分でもわからなかった。


「そなた、何故泣いているのだ?」


 呆気にとられた様子のサージウスは、コーリスの不敬を咎めなかった。ハンカチを差し出し、にやりと笑う。


「チェスであれだけ余を打ち負かした褒美だ。今の言葉は、諫言として聞いておいてやる。だが、次に会う時は余が勝つからな!」


 高笑いを残してサージウスは去っていった。

 以降、コーリスの元にはサージウスからこまめに誘いが来るようになった。チェスに狩猟、遠乗りや視察まで。父の喝采は聞こえないふりをした。そんなことよりも、サージウスが真面目にこつこつ努力を重ね、次こそコーリスに勝つのだと周囲から真剣に教えを乞う様子を見せはじめたことのほうが重要だった。

 自らも努力することを覚えたサージウスには、本気のコーリスでもすぐに太刀打ちできなくなった。それでもサージウスはコーリスを側に置いたし、他の側近達の意見もよく聞き続けた。

 “あの時”はあれだけ馬鹿にしていた令嬢達を見ても、「なるほど、彼女らが着飾るのは家のため、そして己のためなのか。美を保つため、きっとみな見えないところで努力しているのだろうな……」と感心したように呟いている。そこにはもう、佞臣の甘言を真に受けていいように踊らされる馬鹿皇子の面影はなかった。


*


「何故だ……何故だコーリス、何故お前がそちら側にいる!?」


 父、そして父が率いていた闇は、今日すべて白日の下に晒された。ミカルに相談して、半年ほどが経ってからのことだった。

 逮捕しに来た軍人達によって家人が捕縛される中、コーリスはユールチェスカと共にミカルに駆け寄る。罵詈雑言をコーリスにぶつける父に、ミカルは軽蔑しきった眼差しを投げたが、そのままコーリス達を連れ出してくれた。

 父に対して言いたいことは何もなかった。これまでの恨み言も、落ちぶれた彼への嘲笑も、裏切ったことへの謝罪も、ここまで育ててくれた感謝も、何一つとして出てこない。代わりに涙があふれて止まらなかった。ユールチェスカは、何も言わずに寄り添ってくれていた。


 父の息のかかった悪徳貴族が一掃されて、宮廷も少しは風通しがよくなったのだろうか。キルトザー家は取り潰しこそ免れたものの、派閥や権力はすべて失った。当主たる父が行っていた数々の犯罪は、それらを失わせるのに十分すぎた。

 だが、その責はコーリスにも、ユールチェスカにも及ばなかった。誰かが手を回してくれたのだろう。ミカルか、ディエル家か、それともサージウスか。コーリス達は、勇気を持ってキルトザー家の不正を告発した者として扱われた。

 キルトザー家はディエル家の監視下に置かれることとなった。コーリスが成人するまでの後見人には、現ディエル公爵夫妻……ロザレインの両親が務めるようだ。キルトザー領はこれまで通り家令が取り仕切り、コーリスはユールチェスカとともにディエル家に預けられた。

 姉妹ができたようだと喜ぶ天真爛漫なロザレインに、ユールチェスカは面食らったようだ。だが、ロザレインの積極さに根負けしたのか、結局されるがままになっていた。

 ユールチェスカがロザレインと友達になれればいいな、と思う。医学に造詣の深いロザレインの母も、きっとユールチェスカにいい刺激を与えてくれるだろう。

 空っぽだったユールチェスカの心が、たくさんのもので満たされてくれればいい。それだけが、今のコーリスの願いだった。


*


「これをミカルさんに食べさせてみれば? 大丈夫、身体に害はないよ」

「なんてこと! おやめになってユール、わたくしは媚薬などには頼りませんわ!」

「ただのチョコレートなんだけど。あの人、甘い物好きだし食べるって。この前コーリスで試してみたけど、本当に効いてるのかわからないんだよね。だからロザリィも実験に協力してくれない?」

「本当にチョコレートなのかしら? ……あら、おいしいわね……」

「おいしいでしょ。昔、そういう風に使われてたんだって。だから、本当にそんな効果があるのか調べてみたいの」


 居間で少女達が何やら恐ろしい会話をしているが、全力で聞かなかったふりをする。……一昨日の朝、ユールチェスカからチョコレートをもらったこととは無関係だと思いたい。


「お互い苦労しますね、ミカルさん」

「はは。まあ、あの程度なら可愛いものだ」


 昼休憩を利用してディエル邸に立ち寄っていたミカルは、苦笑しながら小さく肩をすくめた。彼がロザレインに声をかけると、ロザレインは喜色を浮かべて駆け寄ってくる。

 今のあの二人は婚約者だった。十四歳になったロザレインが、ミカルとの婚約を熱望したのだ。軍人の家系ながら現当主が文官として勤め、跡継ぎも一人娘しかいないディエル家にとっても、先代当主―当主の座を息子に譲っただけで現役の大将だ―の愛弟子で、軍部でも優秀な将校だと目されるミカルを婿養子にするのは悪い話でもなかったらしい。

 ミカル本人は、いつかロザレインが真剣に好きな相手を見つけるまでのつなぎ……ロザレインのための虫除け感覚で承諾したようだ。だが、いずれロザレインの本気を思い知ることだろう。

 今年で三十一歳になる彼はまだロザレインのことを可愛い妹分としか見ていないようだが、貴族社会ではそう珍しい年の差でもなかった。あと二年でロザレインは結婚適齢期を迎える。ゆっくりと時間をかけて、彼も考えを改めることになるだろう。

 同い年のロザレインが早々に婚約を決めたことで、ユールチェスカも何か思うところがあったらしい。自分がすでにキルトザー家の養女でなくなったことを念入りに確認していると聞いた。奴隷は違法であり、そもそも彼女の身分は亡国とはいえ王女なのだ。コーリスの父が罪人になった今、ユールチェスカをキルトザー家にとどめるものは何もない。

 帝国内の一領地となった彼女のかつての祖国は、反乱の頻発する土地だった。それを収めるためにもユールチェスカの身元は速やかに皇家に保証され、コーリスの父が結んでいた養子縁組の書類は破棄されている。

 ユールチェスカの身柄がディエル家の預かりなのは、ディエル家が国内最大の軍閥だからだ。ディエル家の後ろ盾があれば、彼女を守ることもたやすいのだろう。件の領地もユールチェスカの登場によってようやく帝国に恭順を示していた。

 ユールチェスカに対しては王女としての敬意を払いつつも実権は与えず、かの地はこのまま帝国によって治められるようだ。それについてはユールチェスカも、そして領民達も納得しているらしい。


 “あの時”とはまったく違う世界がそこにあった。ロザレインは不幸に沈まず、ミカルが敵に回ることもない。裏表のないサージウスは賢君の片鱗を見せていたし、なによりユールチェスカに未来が生まれた。コーリスは、間に合ったのだ。


「コーリス、なんで一人で笑ってるわけ? 気持ち悪いんだけど。じっと見ないでよ、この変態」


 毒を吐きながら、ユールチェスカがチョコレートの載った皿を差し出した。「サージウスにこき使われて疲れてるならこれでも食べれば? 疲労回復の効果があるはず」「お気遣いありがとうございます」一粒受け取る。甘かった。


「ねえユール。今、貴方は幸せですか?」


 あの強くて脆い空っぽのお姫様は、ちゃんと綺麗なものを詰め込めただろうか。尋ねると、ユールチェスカは柔らかく微笑んだ。


「さあ。わたしには、何が幸せかなんてわからないよ。だからあなたが教えて、コーリス。あなたはどんなときに幸せだって思うわけ?」

「そうですね……。たとえば、好きな人が笑ってくれたときとか?」

「ふぅん。それだけでいいんだ。幸せになるのって、案外簡単なんだね」


 ユールチェスカはチョコレートを口に含む。宝石のように輝く瞳は、コーリスだけを映していた。


「どんなに馬鹿で泣き虫の変態でも、優しい人が傍にいてくれるだけでわたしは十分だった。だからきっと、わたしはとっくに幸せなの」


 ぎゅっと手を握られる。ユールチェスカの手は小さくて冷たくて、しなやかだった。


「あなたはわたしの望みをなんでも叶えてくれた。これ以上はもういらないよ」

「困りました。もう叶えたい願いは間に合っているんですか? 僕の思い上がりでなければあと一つ、叶えてさしあげたいものが……あ、ならこれは、貴方からいただく対価ということでどうでしょう」


 内心の緊張を悟られないよう、飄々とした風を装って笑う。いつもより早口になってしまったから、そんな虚勢はすぐ見抜かれてしまうのかもしれないが。


 真っ赤になった顔を見られないように抱き寄せて、ユールチェスカの耳元で囁く――――結婚してください、と。


 コーリスとともに来てくれて、復讐に縛られない生き方を見つけられた彼女は、花が咲いたように笑った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] コーリス・ユールチェスカの救済!! [一言] あああーーありがとうございます! この2人の行方がすごく気になってたので…。 感涙!です。
[良い点] ほねのあるくらげ様の作品を初めて読ませて頂きました。 なかなか叙述がしっかりと書かれていたように思いました。 ちょっとユールチェスカの心情描写が弱かった気がしましたが、コーリス視点なのであ…
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