愛になれない恋に、さよならを
誰から伝わったのか分からないが多くの人々が知る世界を渡る勇者の伝説……それは世界を管理する神々により選定された、理不尽に虐げられる者を救おうとする正義の心と清廉潔白な魂、そして正しき行いをするに相応しい強い力をもつ者が世界の危機に世界を越えて現れるという話である。
魔王により危機に瀕したこの世界で、魔の者に奪われ蹂躙され絶望の縁に立たされた人々が崩れ落ちた教会で血の混じる涙を落としながらひび割れた女神像に祈りを捧げたその時、天から光と共に一人の男が遣わされた。
男の名はアルシュ。 その手に聖なる剣を携え、身を曇りのない白銀の鎧に包んでいた。 その日より男は各地を渡り歩き、魔王により蹂躙されるばかりだった暗闇に沈む世界を聖剣によって切り開き光をもたらす。 その旅路で伝説に違わず男は種族や身分年齢問わず傷付いた人々に平等な心で手を差しのべ、救いを求めてすがり付いた者を決して見捨てることはなかった。 男に救われた者の中で力ある者は男の旅路へ同行するようになった。
そして男が世界に降臨してから数年の月日をもって、人と魔王の戦争は決着をつけることになる。 暴虐の限りを尽くした魔王は勇者とその仲間達により討ち果たされ、そして仲間の中にいた魔王の娘が新たな魔王に即位し人類との共生を望む国を新たに作ることを宣言したのである。 それは魔王を倒す道より過酷な道であったが、あらゆる国の人々からの人望の厚い勇者の協力により少しずつではあるが新魔王領と人の国には国交が生まれつつあった。
魔王討伐から再び数年の月日が過ぎて、伝説の勇者はこの世界で一番の大陸を治める国にして中枢であるアヴァロン王国の王城、その謁見の間にて跪き頭を深く垂れていた。 彼が跪く先には玉座に座る威厳溢れる王と共にその脇に美しい王妃と王女が微笑んで立っており、男の後ろには旅を共にした仲間達が男と同じように跪いている。 そして玉座へと続く赤いカーペットの縁にはこの国の近衛騎士達が式典用の鎧をまとい整列しており、荘厳な雰囲気が謁見の間を満たしていた。
『──この世界に遣わされし神の慈悲たる伝説の勇者とその仲間達よ、面を上げるがよい! 本来であれば私が貴殿達へ国民達の代わりに感謝をこめ頭を下げねばならぬ身である! まことに……まことに、大義であった!!』
「……勿体なきお言葉で御座います、陛下」
王の言葉に勇者が下げていた頭を上げて王を見据えた途端、王の脇に控えていた王妃と王女が途端にうっとりと惚けた顔になり口からはほうっと熱のこもった吐息が漏れる。 頬は薄く緋色に色づき瞳は潤みを帯びて、ただでさえ美しい王妃と王女に更なる色気を与えていた。
だが本来なら見とれてしまいそうな美貌の二人に視線を向ける者はこの場に一人もおらず、兵士達も顔こそまっすぐ前を向いているが兜に隠された視線だけは勇者たる男へと向けられていた。
──勇者は、あまりにも美しかったのである。 それこそ人智の及ばぬ、天上の神々が戯れにその場に降臨していると言ったとしても誰も疑いもしないほどに。
背中の中程まで長さのあるウェーブがかかり金糸のように輝く艶やかな髪、髪と同じ金色をした長い睫毛の下に揺るぎ無い輝きを宿す紺碧の瞳、美しいといっても中性的であったり女性的な意味ではなく凛々しい男性らしい美貌を宿す顔立ち、高い身長に見合ったガッシリとししつつも名工の掘った彫刻のように美しく整った逞しい肉体。
そしてそんな見た目と背負う伝説を裏切ることの無い慈悲深く勇敢、それでいて誰に対しても紳士的な振る舞いを崩すことの無い完璧な勇者だった。 容姿と中身、そして強さにおいてどれも非の打ち所がない勇者に女性は熱情や感嘆の視線を、男性は尊敬や信奉の眼差しを向けている。
「此度は私の要望を叶え褒賞の式をこれまで待って頂いたこと、陛下はもちろんのこと旅を共にしてくださった皆様へ感謝の言葉も御座いません」
『よい。 前魔王との戦争により疲弊した国々と新たに生まれ変わった魔国が安定するまで、世界を救うために遣わされた勇者たる自分は褒賞を受けとる資格はない……そう告げられた時、私は深く感動したのだ。 この王たる私よりも国を、いや世界を慈しむ心こそ伝説の勇者として選ばれた理由なのだと』
「いえ、私は為すべきことを為したまでです。 ……皆様には私の言い出したことに付き合わせてしまい、本当に申し訳ありません」
『いいえ、勇者様。 これは私達が選んで決めたことなのですから』
『そうそう! アルシュはアタシ達は先に褒賞を受け取ってって言ってくれたじゃない! でもアタシ達はアルシュと一緒に受け取りたかった、それだけだよ!』
『……ご褒美貰うなら、ますたぁと一緒がいい……』
本来なら褒賞の受け取りは自分だけ遅らせて良かったのにと申し訳なさそうな視線をチラリと己の後ろに控える仲間達に向けるアルシュに、共に戦いを乗りこえた仲間である三人の少女は嬉しそうに笑う。 その眼差しには尊敬と盲信、そして深い愛情が滲んでいる。
17歳という年齢とは思えない大人びた色気を纏う少女は聖女と呼ばれるアリス・エリアート。 腰まで伸びる長い銀の髪は清らかさを感じさせる反面、目尻の垂れた紫の瞳に見詰められた男は思わず生唾を飲んでしまう程に蠱惑的。 ぷっくりと厚みのある唇は美しい桃色に色づいて常に潤いを帯びている。 そして清廉な心を表すような白い修道服に包まれた体は、手のひらでは包みきれない程に大きな二つの房が胸部に揺れており臀部もむっちりと大きめながらウエストは引き締まっている。 傾国と呼ばれるに相応しい美貌と色気を携えた少女だった。 回復と魔術のスペシャリストでもある。
そして同じ17歳という年齢で容姿も美しいが、アリスが大人びた妖しい色香を纏うのに対して年相応の若々しい快活さを見せる明るい少女はエルフ族の姫であるリーリア・エルデベルト。 背中の中程まである金色の髪をポニーテールに結い上げ、光を受ける新緑のように鮮やかな緑のパッチリとしたつり目。 黒のインナーの上には身軽さを重視し軽くも頑丈な風龍の鱗で作られた胸部を覆うだけの鎧と、ショートパンツから色白ながら健康的な太ももを惜しげもなく晒して足元は胸部の鎧と同じ風龍の鱗を使ったブーツを履いている。 手足の長いスラリとスレンダーな体格をしており、見る人によって美人と可愛いどちらともとれる文句無しの美少女である。 可憐な容姿に見合わず男の力でも弦を引くことが難しい弓を容易く操る弓の天才として名を馳せている。
最後に容姿こそやや小柄な13歳程の少女だが実際は古の錬金術師が残した大いなる遺産の一つであり、千を超える年月を眠りの中で過ごしアルシュの手によって今の時代に目覚めた特別なホムンクルスである少女グラム。 肩上で切り揃えられた薄紫の髪、これから大人に成長を始める年頃を思わせる幼い愛らしさの残る顔立ち、感情の起伏が伺いにくいが真っ直ぐに澄みきった大きく丸い形をした赤色の瞳。 薄着に見えるが防御力は高い強大な魔獣の革をなめして作られた特殊なレザー装備の上に全身を覆う黒いマントを羽織り、長めの前髪をアルシュから贈られた小さな花の飾りがついた髪止めで横にとめている。 彼女は人並み外れた五感と身体能力を誇り、闇魔法で闇に紛れ敵を討つ生まれながらの暗殺者であった。
三人は魔王を討つための旅路の中で命、あるいはその心を救われて旅に同行することを望んだ数々の猛者の中でも危険な旅路に最後まで同行することが可能と認められた実力者。 そして誰よりも間近でアルシュの揺るぎ無い善の心と偏見や差別をもたない誠実な振る舞い、どんな者にも慈愛の心を向ける勇者と呼ぶに相応しい姿を見てきたためか彼に対する感情は尊敬、盲信、崇拝、恋情などが複雑に入り交じっている。
しかしそんな感情を抱いているのは仲間の三人に限らず、王の後ろに控えている王妃と王女や旅の道中で出会った様々な人々がアルシュへと特別な感情を向けていた。
それはドワーフの国の豪胆な女王であったり、とある賭博都市の裏を牛耳るマフィアの妖艶な女ボスであったり、獣人族の長でありながら幼い見た目とは裏腹に数百の年月を生きたのじゃ口調の狐耳と尻尾の少女であったり……女性に限らず龍人族の次期頭領であり酒と戦いをこよなく愛する荒々しい青年や、エルフ族の宰相であり美しい容姿とは裏腹に辛辣で冷淡な態度の青年もいる。
『して、勇者アルシュよ。 私はこの世界を救ってくださったそなたが望むものなら金銭でも土地でも爵位でも……出来うる限りをどんなものでも与えてやりたいが、何か望むものはあるだろうか?』
「……私は神のご意志によりあらゆる世界を渡り歩く者。 平和が戻った今、この世界を去り救いを求める新たな世界へ向かう身なので爵位も土地も必要がないのです」
『そんな、勇者様……』
『アルシュ……アタシは……!』
『ますたぁ……お別れなんてやだ……!』
突然告げられた別れに仲間達はショックを受けて青い顔をしていた。 三人も自分達が知る伝説の勇者の物語でも【世界を救った勇者は、新たな世界を救うために旅立っていった】と語られているため別れを予想をしていなかった訳ではないが、実際に目の前に突き付けられると胸を引き裂かれるような悲しみと喪失感が溢れる。
グラムは王の前であることも忘れてアルシュへと駆け寄ってその腕にすがり付くが、この場にその行いを咎める者はいない。 誰しもがアルシュにこの世界へ残ってほしいと思っていたからだった。
しかしアルシュは幼子を慈しむような優しい眼差しをしながら、丸い瞳に溢れんばかりの涙を浮かべるグラムの頭をそっと撫でる。
「……初めはまるで人形のように感情もなく、表情一つ変えなかった君がここまで心のままに動くようになった変化を嬉しく思います。 出来ることなら私が君に最後に感じさせる心は悲しみではなく喜びにしてあげたかったですが……それも叶いそうにありませんね」
『ますたぁ、ますたぁ……いかないで……!! 私をひとりぼっちにしないで……!! このココロをくれたのはますたぁなの……ますたぁがいるから、私はココロを動かせるの……!!』
『そ、そうです勇者様、どうか……どうかこの世界に留まってください! 私達は貴方がいなければもう生きていけないのです……! たとえこれが神の意思に背く心なのであっても、私は貴方と共にいたいのです……!!』
『ねぇいかないでよアルシュ! 他の世界なんてどうだっていいよ! アルシュばっかりが大変で辛い思いをする役目なんて捨てて、平和になったこの世界で幸せに暮らそう!? アタシも、アルシュとお別れなんて……いや、だよぉ……!!』
堪えきれなかったようにアリスとリーリアも涙を溢れさせながらアルシュへとすがり付くが、そんな仲間達を見つめるアルシュの眼差しは変わらずに優しく、それでいて哀しい。 絶え間なく頬を涙で濡らす仲間達の目元を一人ずつ指でぬぐうと、グラムにしたように頭を撫でた。
「ありがとう、アリス、リーリア、グラム。 貴女達がそこまで私を大事に想ってくれる気持ちがあったからこそ、その心に支えられた私は己の役目を果たすことが出来たのです。 ……だけど、そんな貴女達の願いを叶えてあげられないことだけを、非常に心苦しく思います」
『勇者様……行って、しまうのですか……?』
『……いや……いやぁ……!!』
『ひっく、ますたぁ、いかないで……いか、ないでぇ……!!』
三人が涙ながらにすがり付いてもアルシュの意思は揺らぐことはなかった。 自らの服を掴む三人の手を一人ずつ丁寧にほどいて離し、立ち上がると真っ直ぐに王を見据える。
「王よ、私への褒賞は……共に戦った彼女らに相応しい地位と褒賞、そして身寄りの無いグラムに身分を与えてあげてください。 そしてこの場には来られませんでしたがもう一人、共に戦った仲間である新魔国の王となった彼女にもまた褒賞を」
『……うむ、あいわかった。 グラムなる娘には私が責任をもって養子となる家を探そう。 そして教会とエルフ国、新魔国には此度の戦争により受けた傷が癒えるまで出来うる限りの援助と、この先長く続く国交及び他国との橋渡しを務めることを約束しよう』
「身に余る光栄です。 陛下の更なるご活躍とご健勝を、遠い世界よりお祈りしております」
『……ありがとう、異なる世界より遣わされし勇者アルシュよ。 私達はそなたのことを永遠に語り継いでいこう』
「はっ。 では、私は失礼致します。 皆様、どうかこの先も変わらぬ平和がこの世界にあることを願います。 ……さようなら」
『勇者様っ!!』
『待ってアルシュ!!』
『ますたぁ!!』
誰もが見とれるような美しい笑顔を浮かべたアルシュに三人は手を伸ばすがアルシュは光と共にその場から消え失せてしまい、伸ばした手はなにも掴むことはなく空しく空中で行き場を失った。
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「……待たせましたね、ルビー」
『……気にしないで。 わざわざこうして私のもとにも会いに来てくれた……それがお別れを告げるためでも、私は嬉しいの』
アヴァロン王国の謁見の間から姿を消したアルシュだが新たな世界へ旅立った訳ではなく、遥か遠く離れた魔国の玉座の間へと空間転移をしたのであった。
前魔王との戦いでボロボロに崩壊した魔王城でしんと静まり返った玉座の間の中にある崩れた天井から射し込む日の光に照らされた禍々しい玉座、そこに一人腰かける美しい少女にアルシュは歩み寄る。 少女はアルシュを見て寂しそうに微笑んでみせた。
彼女こそ悪政と暴虐の限りを尽くし世界を支配せんとした魔王の娘であり、勇者と共に父を倒し人類と魔族の共存を目指す新たな魔王へと君臨したルビー・ローゼス・フェルガンデ。 腰まで伸びた鮮血のように鮮やかな赤色の髪、鋭くも静かに凪いだ眼差しを宿す濃緋の瞳、浅黒い肌をした体は特別特出した箇所はなくも美しくバランスのとれた体型をしており、その体のラインに沿うような漆黒のドレスを纏っている。 15歳ほどに見える美しい少女だが人と決定的に違うのは頭に生えた二本の捻れた黒い角、そしてドレスが大きく開いた背中から生えた黒い鱗をもつ龍の翼。
旅の最中はツンケンとした態度や言動を繰り返す素直になれない年相応の少女だったが、覚悟をもって父から奪い取った祖国を背負う女王となったルビーはその頃が嘘のように威厳と落ち着きを得ていた。
『アヴァロン王国の王はこの先も魔国との国交、そしてこれから広げる他国との国交の際には橋渡しと援助をしてくださると保証して頂けましたよ』
「ありがとうアルシュ。 ……結局、最後まで貴方に頼りっぱなしになってしまったわね」
『いいえ、貴女は魔王を倒してからの数年間、人間との共存を反発する民や不安を抱く民に真摯に向き合い行動を起こし、完全にとは言えずとも普通では考えられないほど多くの理解と協力を得たではありませんか。 これは貴女が女王として民から信頼された証です』
「ふふ、それも貴方がいたからよ。 貴方は敵であった筈の私達魔族にだって分け隔てなく手を差しのべてくれた……そんな貴方を信じた皆が、そして貴方を信じた私だから力を貸してくれたの」
ルビーは玉座から立ち上がるとひび割れた階段をゆっくりと降り、アルシュの目の前までいくとそっと身体を寄せる。 触れた身に感じるのは体温ではなくアルシュが纏う鎧の冷たさと固さではあるが、背中には添えられた手の温かさを感じてルビーは目を閉じた。
『……行って、しまうのね? もう私でも手の届かないところへ……』
「ええ、貴女への別れを終えたらすぐにでも」
『……あぁ、こんな時に普通の女の子みたいに私も連れていってなんて喚けたらどんなに楽かしら。 私にはもう、そんなこと許されないもの』
「分かっています。 たとえ私が一緒に来てほしいと跪いてすがったところで、貴女はこの手を取らないことも」
そうして二人は視線を交わす。 その眼差しには寂しさこそあれど悲しみはなく、お互いに微笑みすら浮かべている。 自分の生きる道を既に決めていたから。
「貴女と出逢ったこと、決して後悔などはしませんよ。 まだ私に人らしい心が生きていたことを思い出させてくれたのだから」
『そうね、私がこの先も貴方が狂わないための楔になってあげる。 貴方が私を忘れない限り、貴方が人であることを忘れないために』
アルシュは伝説の勇者である。 生きとし生ける全てを慈しみ、虐げられる者を憐れみ手を差し伸べ、あらゆる世界を渡り歩き救いをもたらす聖人とも呼べるその精神。
だが、それは果たして正常な精神なのか。
老いることも許されず、手にした友情も愛情も全て置き去りにさせられて見知らぬ世界へ繰り返し送られ、永遠に終わらない戦いと救済の道を歩むことしか許されない彼の心は、“人間”であることを忘れ“勇者”へと変わっていった。
全てに平等に、全てを愛し、全てを守護する。
神に定められた“勇者”という世界の機関。
そんな役目を永遠に背負わされた者がアルシュだった。
誰しもが“勇者”として当たり前と思い考えもしなかったその狂気に気付き、目を逸らさずに見詰めて理解したのはアルシュにとってルビーが初めてだった。
「あぁ、ルビー……泣かないでください。 どうか笑って見送っては頂けませんか」
『無理よ。 だから貴方が泣けないぶんも私に泣かせて。 この先ずっと終わることが出来ない貴方がどんなに辛くて苦しくて、どんなに絶望しても泣けないぶんも、私は死ぬ時までここで泣き続けるわ。
……だから、貴方のために泣き続けるこんな私がいることを忘れないで。 “勇者”でなく“人”である貴方に恋をして泣く私を、忘れないで』
濃緋の瞳からポロポロと絶え間なく落ちる透明な雫をアルシュは指で掬うが、涙は止まることなく落ち続けその指から溢れて伝って落ちていく。
ルビーを抱き寄せるアルシュの表情は今にも泣き出しそうであるのに、決して涙は出てこない。 もうアルシュの中に涙を流せるほど“人”としての心は残ってはいなかった。 悲しみも寂しさも絶望さえも、もうアルシュに涙を生むことは出来なかった。
するとアルシュの体が指先からゆっくりと光の粒へと変わって空へとのぼり消えていく。 今度こそ空間転移などではなく、神によってその身は新たな戦いの世界へと送られようとしていた。
『……神様というのはせっかちね。 もう少し時間をくれてもいいのに』
「いえ、この世界の神は十分にくださいましたよ。 魔王を倒してから数年も貴女を見守る時間をくれたのだから」
『足りないわ、全然足りない。 百年あっても足りない』
「ふふっ、そうですね。
……ルビー、ありがとう。 私と出逢って、私を信じてくれて。 ……“私”に恋をしてくれて」
平静を装いつつもルビーの声とアルシュの背に回された腕は小さく震える。 アルシュはそんなルビーの全てを己の身に刻み込むように強く腕に抱く。
そしてどちらともなくお互いの顔を見つめあった。 涙に輝くルビーの瞳にはアルシュの姿が、微笑みに優しく細められたアルシュの瞳にはルビーの姿が映し出され、ゆっくりと二人の唇は近付いていく。
『───……本当に、せっかちな神様ね』
しかし唇は触れあうことはなく、お互いの吐息だけが重なりあった熱を残してアルシュは光と共に消えてしまった。 アルシュを抱いていたルビーの腕が支えを失って揺らぎ、残った感触の名残を惜しむようにゆっくりと降ろされる。
『せめて愛してるって、言いたかったわ』
読んで頂きありがとうございました!