幕間その8 決戦前夜、リーデとユキムラの巻
その夜…わしはリーデ様の寝室に訪れた。
扉を開くとリーデ様は此方を一瞥し、傍に控えていたラキ殿とリキュー殿を下がらせる。
サシということであろう…幾度となく顔を見合わせていてもこうして二人きりになる時間は珍しい。
さて、いつぶりか…わしがハンベエ殿に言い負かされ酒に溺れた時以来…いや、あの時はサスケがいたか…
「そんな所にいないで入りなさいな、別に叱られに来たって訳じゃないんだから」
部屋の前で立ち止まったわしに対しリーデ様はくすりと笑って促す。
一礼して入室するわしの前、ごそごそと取り出されたのは碁盤だ。当然、この世界で作ったものである。
この所作が意味することは一つ…わしは思わず笑ってしまい席に着く。
「今日こそ勝つわよ、負けっぱなしなんて私のプライドが許さない」
「くくく…でしたら此度も勝たせるわけにはいきませんな…リーデ様にも手に入らぬものがあるとお教えせねば」
石はリーデ様が黒、わしが白。
碁を教えてくれとリーデ様が言い出したのはいつ頃だったか…わしが軍議でよく使う碁石に目をつけられた形だ。
幾度となく対局してきたが当然ながら一度も負けたことはない。そう易々と負けては“転生者”の名折れというもの…
ただ、リーデ様は打つたびにめきめきと上達してきている。その成長ぶりは何処か微笑ましい。
「手に入らないものね…こうして天下を目前にしてもそんなもの沢山あるわ」
リーデ様は特に面白げもなく鼻を鳴らす。
互いに陣地を広げながら他愛のない会話…これもいつものことだ。わしは軽く眉を上げる。
「ほう、それは異なことを…天下の覇者となればこの大陸の全てはリーデ様の物では?」
「ええ…建前上はね、それが欲しいからこうして戦っているのだけど…」
「であれば、何が手に入らぬと?」
碁石を打つ手が止まり、リーデ様の燃えるように赤い瞳がわしを見据える。そして溜息交じりに言った。
「心」
心と来たか…
確かにそれは天下を取ろうとも手に入るものではない。人によっては永遠に手に入らぬものだ。
リーデ様は言葉を続ける。
「ねえユキムラ、私たちが最初に会った時のことは覚えているでしょう?」
「ええ…今も目を閉じればそこに見えるほど、鮮明に」
「私もよ、貴方の存在は衝撃だった…単に政略の道具として扱われていた私を君主として見たのは貴方が初めてだったもの」
あの日、瞳に何の意思も宿さぬまま玉座に座っていた少女をわしは言葉巧みに焚きつけた。
最初はヨルトミアに戦いを止めさせないための方便だった。だが共に戦っていくうちにわしはリーデ様へ心惹かれていく。
「全てはあの時からなの…このリーデ=ヒム=ヨルトミアの人生は貴方と出会ってから始まったわ」
「…お言葉ですが、わしとの出会いはただの切欠に過ぎませぬ…リーデ様にはもとより天下人としての器が備わっていたのです」
「初代タイクーンの、ね…」
この御方の中には…後になって知ったがタイクーンの、この世界にも現れた太閤殿下の血が流れている。
運命とはなんと数奇なものか…前世、秀頼様で果たせなかった太閤殿下との約束を今、形を変えて果たせようとしているのだ。
目を伏してしみじみと感じ入るわしにリーデ様は溜息を一つ吐いた。
「…私が天下を目指す理由はふたつあるわ…ひとつはこの身を焦がすほどの欲を満たすため…」
「血脈でしょうな…強欲であることは悪いことではござらん、欲の力によって人の世は栄えるのです」
頷く。あの御方の血を引くならば当然だろう…宿命と言ってもいい。
その欲に呑まれて身を滅ぼさぬ限りはどんどん欲張りになると良い、それこそが民を惹きつける君主の条件だ。
わしの肯定の意にリーデ様は僅かに笑い、続けた。
「そしてもうひとつ…これは誰にも言ったことがないのだけど…―――貴方が欲しいからよ、ユキムラ」
何…?
思わず思考が停止する。わしが欲しい…それはどういうことか…
「何をおっしゃられるか、このユキムラは既にリーデ様に絶対の忠誠を誓っておりまするが…」
「ええ、そこは疑っていない…きっと私が死ねと言えば死んでくれることも、なんとなくわかってる」
「では…」
「しかし、貴方は未だに前世の未練に囚われているでしょう?」
しばらく見なかったリーデ様の氷の視線が、わしの心中を見透かすように貫く。
徳川と戦いたいという欲も、太閤殿下との約束も、全ては前世のしがらみ…この心は未だにそれに囚われている。
眼前の若き女帝にとって、すべてはお見通しだったという訳だ。思わず言葉を失ってしまう。
「天下を一統し、貴方の欲をすべて叶えれば…貴方の心は前世から解放されて完全に私のものになるのかしらね」
衝撃…今にして理解した。
リーデ様の尽きぬ野心の半分はこのユキムラ自身のものだったということだ。
当然リーデ様自身の欲もあったろう、しかしその片方…わしの欲を果たすため、この御方はわしの理想足り得んとしてきたのだ。
いつからそうなっていたのか…おそらく先に話に出した、心のない人形姫に野心の火を灯したあの瞬間からそうだったのだ…
こんな簡単なことにも気づかぬとは…父を真似て表裏比興を名乗っていた己を恥じる。そして…―――
「謝ったらその首、落とすわよ」
「むぐ…!」
釘を刺される。これは敵わない…何もかもがお見通しだ。
「言ったでしょう、天下も貴方も欲しいのは全て私の欲…そこに嘘偽りは一切ないわ」
ぱちり…と黒の碁石が置かれ、白を置く手が全て潰える。
気が付けば終局、わずかに黒の数が勝り初の敗北を喫していた。
心を揺さぶられたのもあったか…にぃぃと満面の笑みを浮かべるリーデ様にわしは両手を上げて投了の意を示す。
「参りました、本当にお強くなられた…」
「お褒めに預かり光栄ね、どうしても今夜貴方に勝っておきたかったの」
そう言って笑うリーデ様の表情は珍しく年相応、無邪気な娘の其れに見えた。
共に明日があるかも分からない身…それを薄々察しての対極の誘いだったのだろう。
わし自身、今まで徳川に勝てるなら再び死んでもいいと思っていた…前世の未練をすべて清算し消える。そんな腹積もりだった。
だが今は…―――
「だが、明日からの戦はこうはいきますまい…必ずや勝ち、必ずや天下平定の瞬間を御身と共に見届けましょう」
その言葉を聞きリーデ様は、あの時のような笑みを浮かべて言葉を返す。
「あなたには…それができると言うの、“転生者”?」
わしは大袈裟に跪き、にやりと笑って答えた。
「無論、そのためにここに馳せ参じましたが故」
【続く】