第27話 韓遂《かんすい》:西涼の反逆者
前回、北宮伯玉を書いたので、ついでに韓遂を。
韓遂は字を文約といいます。
もとは韓約という名前でしたが、涼州で反乱を起こした北宮伯玉に協力したことで賞金首になり、名を韓遂に変えました。
そののち北宮伯玉らを殺して軍を掌握。ここまでは前回書いたので割愛します。
北宮伯玉ら亡きあと、韓遂は馬騰(馬超の父)と組んで西涼を荒らしまわりましたが、朝廷の派遣した董卓らの軍によって鎮圧されてしまいます。
この功績によって董卓は朝廷で権力を握り、献帝を擁して恐怖政治をおこないました。
董卓が殺されたのち、李傕と郭汜が代わって実権を握ると、韓遂・馬騰は最初のうちは従っていましたが、やがて馬騰が離反し、韓遂もこれに加わります。
しかし韓遂は馬騰と仲たがいし、たがいに攻撃しあったことで西涼はさらに渾沌とした状況になってしまいました。
ここで曹操が仲裁に入り、両者のたたかいはおさまります。
馬騰は入朝して曹操に仕え、その軍は息子の馬超に引き継がれました。
曹操が張魯を攻めようとしたとき、韓遂は自分も攻撃されるのではないかと恐れ、馬超と手を組んで曹操に対抗します。
しかし軍師・賈詡の離間の計によって馬超と仲たがいし(仲たがいばっかりですね)、いくさに敗れて退却してしまいます。
また馬超の反乱のよって、父の馬騰は処刑されてしまいました。
だんだんと勢力を失っていく韓遂。
劉備のもとへ逃げようとも考えましたが、部下の反対にあってこれを断念。
そして陽平関の戦い(215年)において曹操がみずから漢中を攻めたとき、韓遂は西平・金城を占拠する麹演・蒋石の裏切りにあって殺されます。その首は曹操に送りとどけられました。
演義では曹操の軍門に下って生き残っていましたが、正史のほうでは殺されています。
しかし裏切りや仲たがいと、厳しい西涼の中で七十余まで生きたという韓遂は、それだけでも英雄といえるでしょう。




