第14話 劉放《りゅうほう》:魏を支えた達筆の文書家
劉放は字を子棄といいます。
劉備とおなじ涿郡の出身で、漢王室の血筋でもあります。
当時は黄巾賊やら董卓やらで世が荒れていて、劉放は漁陽の王松のもとに身をよせていました。
曹操が冀州で袁紹に勝利すると、劉放は王松に、
「これからは曹操の時代です。いまのうちに曹操に投じたほうが、のちのち大きな利益を得られるでしょう」
といいました。
王松は賛成しました。
曹操から招きの文書がとどくと、劉放に返信をしたためさせて曹操のもとに送ります。
曹操は劉放の達筆さと文章のすばらしさを見て感心し、建安十年(205年)劉放と王松を都に招きました。
こうして二人は曹操に仕えたのです。
魏国が立てられたのち、劉放は孫資とともに秘書郎になります。
曹丕が即位してからは、劉放は中書監(中書省の長官)に、孫資は中書令なりました。
劉放たちは魏の政治の機密を掌握する立場になったのです。
劉放は文書や布令文を書くのが得意で、曹操・曹丕・曹叡の三代において詔勅をくだすときにはよく作成を担当したといいます。
呉と蜀が同盟を結んで魏を侵そうとしたとき、国境の警備兵が孫権の文書を手に入れました。
そこで劉放は、孫権が魏になびこうとしているように書き換え、魏の満寵あての偽の文書を作成しました。
この文書を見た孔明は、「いったいどういうことか」といそいで呉へと馬を走らせます。
孫権も、蜀との同盟を切られるのをおそれ、みずから弁明をしました。
文書で孔明や孫権を翻弄したのです。
景初二年(238年)に魏が公孫淵の乱を平定したときには、公孫淵討伐に功のあったことで、相方の孫資とともに昇進しました。
のちに驃騎将軍になりますが、それでも退職するまで中書省で働いたといいます。