団三郎という男
俺は住職の手紙の返書を持ち、重箱を持って他の寺へと赴いた。
その寺の庭に居た若い坊主に返書と重箱を渡して帰ろうと思ったが、先ほどの小坊主の言葉を思い出すとすぐに帰る気が起きない。
少しこの寺の中を見て回ってもいいですかと若い坊主に聞くと、いいと言うので俺は歩き出した。
あてもなく庭をうろついて、寺の外れにある物置小屋の入口にもたれかかって相も変わらずの秋晴れの空を見上げる。
「…これからどうすっかな」
住職には望まれているが僧侶なんてガラじゃない。それにあの寺の坊主衆の真意を知ってしまった。住職に跡継ぎにと望まれながら寺男を続けていたら最悪、妬まれて殺される可能性だってある。自分の身を守るためにはこれから先の身の振り方を考えた方がいい。
だが踊りは論外だ。
隠密の術は全て八三郎から教わったが、その仕事もやりたくない。国の使い捨ての駒にされるのはごめんだ。
住職は俺がどの世界に入ってもやっていけると言っていたが、それならどの世界に入るのが最善の道だ?
いいや、それよりまずはこの佐渡から出ることを考えた方がいいな。別に江戸から連れてこられた無宿人ではないから金さえ払えば船に乗ってこの島から出られる。
だがその船に乗る金が無い。その金すら住職に頼るのは気が引ける。ならどうやって船に乗る金を作ろうか…。
あれこれ考えて、後ろの物置小屋の戸に後ろ頭をゴンゴンと打ち付けた。
「だれだぁ?」
中から声が聞こえてきて、驚いて後ろの戸を見る。
「だれかいるのかぁ?」
気のせいじゃない、中に人が居る。声からすると男の老人か。
立ち上がって引き戸を引いた。
物置小屋と思った小屋の中には小さい土間。その奥には上がりがまち、そして木の板の床があり、小さい囲炉裏とまだ季節的には早い火鉢も置いてある。
その一番奥には厚い布団が敷かれて人が寝転がっていた。
病人…?こんな寺の外れに?
そこまで考えて、はたと思った。
こんな寺の外れに隔離されているのなら、きっと人に伝染る悪質な病だ。
「すまねえ、勝手に開けた」
表向きの動作をする暇なく慌てて戸を閉めようとすると、細枯れた手が布団から伸びてヒラヒラと動く。
「人に伝染る病気じゃない、ただ中風に当たって自由に動けない老人だ。頼む、暇をしているんだ、話し相手になってくれないか」
死にかけているにしては声はゆっくりながらハキハキとしているし聞き取りやすい。
少し悩んだがすぐに帰る気にもならない。中に入り、履き物を脱いで脇に寄せて布団の近くまで寄る。
顔を覗き込むと、かなりの年齢だ。確実に住職よりも年を食っている。
まぶたもたるんでほとんど目が閉じているように見えるし、白い頭もボサボサと無造作に生えているが、いかんせん髪の毛は薄く、ほとんど白髪から透けて地肌が見えている。
「悪い、横にしてくれ。ずっと上を向いていて腰が痛い」
聞き取りやすい声で老人が言うので布団を半分に折りたたんで、骨の感触しかない肩と腕を掴んで向こう側に横にすると、寝間着の腰の所に黄色い汁がべったりとくっついていた。
「どうしたんだ、これ」
今まで見たことのないものに思わず聞く。
「ずっと同じ向きで寝てるから、こすれて肉がそげてきたんだ。寺の者も鐘を突くときに体勢を変えにきてくれるが、追いつかん。服を変える時など皮膚ごと取れて、その痛みといったら…」
耐えられない、とばかりに老人はそこで言葉を止め、泣きごとのように呟いた。
「普通もう死んでるところだ、だが死ねない」
「けど実際に死にそうになったら死にたくねえって言うんだろ」
また布団を上にかけようとすると、細枯れた腕がヒラヒラと動く。
「今日は天気が良いから暑い。かけなくていい」
布団を半分に折りたたんで足元に戻す。
「俺はもう死にたいよ、きっと天の定めた寿命なんぞとっくに尽き果てているんだ。それを余計な事をしちまったばっかりにこんな年齢まで生きて寺の者に下の世話をさせてしまっている…。やっぱり寒い、体の半分まで布団をかけてくれ」
布団を半分までかけてやる。
「それで、お前は誰だ?新しく入った寺男か?」
いつまでも老人の後ろに居るのもなんだと思って、老人の顔のある方へと回って座った。
「他の寺の者だ。ここの住職からうちの住職宛てに手紙が届いたから、それの返書と重箱を返しに来た」
「なんで頭を戸に打ち付けていた?狸じゃあるまいし」
…狸が人を馬鹿にするために後ろ頭で入口の戸を叩いていた、という本土の話を引き合いに出しているのだろう。
「音だけで頭だって分かったのか」
「手と頭じゃあ、音の大きさが違う。てっきり狸が俺を食い殺しに来たかと思ったが」
「なんでだよ」
馬鹿げた話に思わず鼻で笑いながら突っ込んだ。
「まずお前の話を聞かせてくれ、なんでもいい、ずっと一人でここで寝ているから話がしたい。どうしてそこで頭を打ち付けていた?遊んでいたわけではないだろう?名前はなんだ?」
…まあこんな死にかけの老人にだったら何を話してもすぐに死ぬからいいかと、自分の名前は喜一、はじめに喜ぶと書いて喜一だと伝え、子供の時からの話を話し始めた。
最初に覚えている記憶が悪鬼のような表情の母親が鉄鍋を掴んで振り上げているというもの、そこから寺男の八三郎にとっさに助け出され、寺に連れて行かれたこと。
踊りの話は思い出したくないからろくにせず、八三郎が徳川家の隠密だったことも話した。だがその八三郎が今朝がた死んだ…おそらく加賀藩に殺されたことと、寺の坊主集に憎らしく思われていること、これからの自分の身の振り方を考えて佐渡から出たいが船に乗る金が無いことを。
ひとしきりついさっきまでのことまでを話して、俺はまとめのように続けた。
「俺のとこの住職は、お前はどの世界にいっても上手くやれると言っていた。だが、どの世界に身を投じようと思うと全く何をすればいいのかわからねえ。それに俺はこの島から出ねえと話にならねえと思ってる」
老人は黙って俺の話を聞いていた。そして話が終わると口をモゴモゴと動かし、閉じているようなまぶたの隙間から俺を見る。
「そうかぁ」
聞きたいと言ったので散々聞かせてやったが、その感想は一言で終わった。
だが別に腹も立たない。きっとこうして誰かと対面して話を聞いているだけでこの老人は満足なんだ。
「まだ時間はあるか」
老人の言葉に頷く。
今すぐ帰らないといけないということは無い。それよりあの坊主衆と顔を合わせるのが億劫で帰りたくもない。
「俺の話も聞いてくれるか」
「ああ」
「俺の名前は団三郎だ」
「団三郎…!?」
驚いて老人の顔を凝視した。
団三郎といえば、佐渡島で知らない者はいないほどの男だ。佐渡に金山があると知ってから、色々な者がこの島にやって来た。
その中でも団三郎の先見の明は凄かったと聞いている。
金を取り出すには不純物を溶かすため強い火が必要だ。その火を強くするためにはふいごがいる。
そのふいごの中には狸の毛皮を木の板に張り付け、ふいごの中の気密性を高くして風を穴から送り出し火を燃え上がらせる。
この団三郎はそのふいごに必要な狸の毛皮を佐渡に売りに来る商人だった。
しかし野生の狸を捕まえるのは一苦労だ。だから狸を捕まえ養殖して、その毛皮を佐渡に売りに来て財を成したと聞いている。
だがそれは俺の生まれるずっとずっと…大昔の話だ。だからその団三郎の偉業を称え神社だって作られて島の中に鎮座しているのに。
まさかその団三郎がこうやってまだ生きている?いやまさか、人間が生きていられる年齢じゃない。あり得ない。
「嘘だ」
「本当だ」
聞き分けの無いガキを言い含めるような言い方でゆっくりと老人が言う。
「…死ねないんだ。こうなるまでの話をきいてくれ」
さっき老人…団三郎が言った言葉はそういうことか。狸が食い殺しに来たと思ったというのは。
狸を養殖してその毛皮を売りに来て財を成したということは、それだけの狸を殺してきたということ。だから狸が自分を食い殺しに来たと思ったと。
嘘か本当かは分からない。だが俄然興味が湧いてきた。
「分かった、聞く」
促すと団三郎は口を開いた。
「俺が若い時この島のこの寺に来て、祈祷してもらった。財が築けるように、儲けられるようにと。そうして今みたいな中秋の名月をだいぶ過ぎた晴れて暑いくらいの時だった。
俺がたまたまここの寺に立ち寄ったら、寺の門前にこ汚い身なりの爺が座っていた。本当に汚くてな、その爺をみて引き返そうか悩むくらいこ汚い爺だった」
今は人のこと言えないじゃねえか、と思ったが黙っておいた。
「どうしようか悩んで立ち止まっていたんだが、寺の坊主どもはその爺が居ないかのようにしている。きっと関わりたくないんだろうと思っていたが、寺に入る奴らもその爺なんかそこに居ないとばかりに目の前を通過していく。
そこにジッと座っているのに、誰もその爺なんか眼中に入っていないばかりなんだ。よっぽどこの島の中で鼻つまみ者扱いされてるのかって思ったら哀れに思えてきて、声をかけた」
ふう、と団三郎は一息ついてまた話し出す。
「その爺に声をかけたら顔を上げた。その顔の酷いったらあったものじゃない。目は目ヤニでほとんどふさがってるし、頭なんてボサボサでシラミらだけ、鼻穴からは鼻水が出てそのまま固まってるし、口もだらしなく開いてよだれが垂れてやがる。思わず声をかけたのを後悔した」
「けど声をかけたんだな」
「ああ、かけた。そうしたらその爺が俺に言うわけだ。『おはへ、あらひがみへるのか』ってな」
「…なんだって?」
急に滑舌が悪くなって聞き取れなかったから聞き返すと、団三郎はアハッハッと二度ほど笑い声を立て、
「その爺は歯が全部ないし活舌も悪くて何を言ってんだか俺も最初分からなかった。よくよく聞いてみたら『お前、私が見えるのか』って言っていたらしい」
なるほど、と頷いたが、おかしいことに気づいた。
「私が見えるのか、って、見えないことなんてねえだろ」
すると団三郎も口端を上げて含み笑いをする。
「俺もその時は爺が何を言ってんだか分からなかった。それによくよく見るとその爺の着ている服も普通じゃない。古代の…神話の絵なんて見た事あるか、日本武尊、あんな服なんだ。
もちろん服はボロボロに擦り切れて垢なんかもこびりついて原型なんてほとんど留めちゃいなかったが、この徳川の時代にこんな酔狂な格好の爺がいるのか、こんな頭のおかしい爺だから皆から知らぬ顔されてるんだと思った」
頷くと、団三郎は続ける。
「その爺は声をかけられたことにいたく感激したらしい。そうして俺が今お前に言ったみたいに話し相手になってくれと言ってきて、身の上話を聞かせられた。
俺としてはたまったもんじゃない、なんせ臭いしシラミもこっちに向かって飛んでくるんだ、さっさと逃げたかったが自分から話しかけた手前、去るに去れず話を聞いた」
やはり話すと疲れるのか団三郎は、ふう、とため息をついて一拍おいてから口を開く。
「そうしてそいつは、私は一言主だと言った。…知ってるか?」
「古事記に出てきた神だろ?雄略天皇が狩りの時に出会って自分の物を差し出した神。日本書紀には天皇と共に狩りを楽しんで、続日本書紀では天皇を怒らせて流されたと書いてたらしいな。
ものに書かれれば書かれるほど地位が下落して最終的に土佐に流された神だ」
その言葉に団三郎は目を瞬かせ、わずかに顔を上げて俺を見上げた。
「…お前はすごいな、俺はお前よりずっと年上の時に聞いてもさっぱりだった」
「それほど有名な神じゃねえからな。俺だって住職から話を聞いてなかったら知らねえよ」
団三郎は頭を元の位置に戻して、ふう、ともう一度ため息をついて続けた。
「俺はその説明をされて、いよいよこの爺はほら吹きの気の触れた爺だと思った。そうしたらその爺は言うんだ、
『本来は別の場所にいるんだが、気晴らしにここに出かけて来た。だが昔ほどの地位はないから他の者も声をかけてこず、非常に気枯れて鬱鬱としていたらお前が声をかけて来た。このような身なりだから見える者でも声をかけてくる者もそうそういない。とても嬉しい。だからお前の願いを聞き届けてやろう、一年に一度、一言で言える願いを言ってみろ、そうしたらそれを叶えてやる』
ってな」
まるで昔話を聞いているようだ。
確かに一言主は、一言で言える願いを叶えるとされている神だ。この島でその神になりきっている爺が居たら変人の極みだが、そんな風変わりな爺がこの寺に現れたなんて話は聞いたことがない。
「…それで」
続きを促した。
「俺もいい加減解放されたかったから、元々この寺に拝みに来た『狸の繁殖がうまくいきますように』ってのを冗談紛れに言ったんだ。
狸を捕まえて繁殖させようとしたはいいが、そうそううまくいかなくて困ってたんだ。そうしたらその爺は『承知した』ってその場から消えちまった。俺は驚いた、急に目の前から消えたんだから。
だがその後から狸がボロボロと子供を産みまくって、俺は大量の皮を持って佐渡に売りに来た。儲かったなぁ、あれは。
次の年にも試しにこの寺に来たら、あの爺が門前に座っている。声をかけたらニタッと笑って『増えただろう』と言った。ああ、こいつぁ本物だってその時思った」
「それ、本当の話か?」
たまらず聞いた。現実に起きたかのようにあり得ない話が出てくるから頭が追いつかない。
「本当だ」
団三郎は言葉を続けた。
二回目に会った時には『もっと儲かりますように』。前の年の倍は儲けた。
『器量良し性格良しのカミさんが来ますように』。その年に非の打ち所の無いカミさんを迎い入れた。
『跡継ぎの男児が生まれますように』その年に男児が生まれた。
『金をせびってくる親戚一家と距離を取りたい』その年、その親戚の家長が裏賭博に出入りしている所を役人に捕まり、一家離散となった。
団三郎は年に一度、様々な願いを言い、それを次々と叶えてもらったという。すべてが順風満帆、佐渡では有名になるほどの財を築いた。
しかし団三郎が佐渡で顔見知りの男たちと酒を飲んで騒いでいたら、中風に当たって倒れた。そんな意識が朦朧としている時、誰かがぬっと顔を覗き込んできた。
一言主だ。
「ねはいふぁあふか」―願いはあるか―
その一言に妻、息子、自分の仕事が脳内を駆け巡り、呂律の回らない舌で団三郎は言ったという。
「し、死にたくない…」
その後。
団三郎は目が覚めると布団に横になっていたらしい。周りには心配して里から駆け付けた妻と息子が覗き込んでいる。起き上がろうとしたが、ろくに身動きが取れない。
当たったようで左手左足と半身が動かなくなったが命に別状はなく、言葉も話せた。
仕事は息子に任せ隠居の身になり、甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻と佐渡に残り生活を送った。そのよくできた妻も病気がちになり、亡くなった。
そうしているうちに息子は死んだ。息子どころか孫も成長し、子供を産んでいる年齢になっている。
妻と息子を亡くした寂しさから酒を飲み続けていたら団三郎はまた中風に倒れた。
しかし死なない。今度は半身どころか下半身も動かなくなった。
孫は心配して度々顔を見せにきてくれたが、孫の子の代になると次第に足は遠のき、今では誰も会いに来なくなった。
しかしこの寺のおかげで今の財にありつけたので、この寺には大量に金を寄進している。その縁で寺の者に世話をしてもらっていると。
「俺はもういつ死んでもいいように毎年やってくる一言主に言い続けた。『俺の子孫が栄えますように』『今まで殺した狸が子孫に障りませんように』『今まで殺した狸が供養されますように』『団三郎という男が居たことが後々まで残りますように』ってな」
…だから団三郎を祀ってる神社が建立されたのか。
そう思っていると団三郎は言う。
「もう心の準備は十分に出来てんだ、なのにいつまでたっても死なねえ。だから暇な時間を使って昔のことを思い出していて思ったんだよ、まさか一度目当たった時に死にたくないって言ったせいでいつまでも死ねないんじゃないかと」
「…かもな」
あまりにも信じられないような話だが、目の前の団三郎の真剣な、それでも泣き言のような語り口に、もしかして本当のことかと心動かされている。
「…今夜あたり、来るぞ。一言主が」
横になっている団三郎を見下ろした。
「今年は『今すぐコロリと極楽に行けますように』と願おうと思ったんだが、こんな老いぼれの、頭が触れたような話に飽きずここまで付き合ってくれたんだ。今年の願いはお前に譲ってやる、喜一。なんでも願ってみろ」
まぶたがかすかに動いて、俺を見上げた。
狸の皮のついたふいごはすごく風が起きるのでお気に入りでした。
近くにいた小学生に「ほれぇ」とシュコー、シュコー、と空気が出るのを見せびらかし、そして上蓋をあけて、
「これね…狸の毛皮なんだよ…本物だよ本物…」
と闇の売人みたいにヒソヒソ言ってました。(昔の物を説明する手伝いの立場だったので説明のためです)




