~閑話休題~一方その頃エルボ国城下町では2
長いよ。前半ファディアント、後半ミラーニョ目線
窓を閉めベッドに座りりんごにかじりつこうとしたが、ハッと思い留まる。
今は食事も少ない、これも貴重な栄養分だ。ここで一人で食べきるのはいかがなものか。
耳を澄ますとまだ玄関先で喚く声が聞こえる。あいつらはまだそこで粘っているのかとイラッとした。
窓の向こうの女を見ると、もうこちらに見向きもせず針仕事に集中していたので部屋を後にして台所のテーブルの上にりんごを置く。
…ちなみに今の食べ物の残りはどれくらいだ?昨日見た限り、辛抱すれば五日は持ちそうと思えたが。
食料を置く棚を開けて愕然とした。パンは全て無くなっていて、ミルク壷も空になっている。
…やられた、マーリンだ。あいつは腹が減ると食べ物を全て自分の部屋にかっさらって一人で食べる。思えばさっきパンはもう一つもないとか言っていなかったか?
あのアマ…!何度注意しようが聞いて知らぬふりだ。
それもパンを一口かじって元に戻すこともままある。それも注意すると「私は食べてない、犯人はネズミよ」と明らかに人の歯形が残るパンを前に嘘をついて誤魔化して…!
頭をガシガシかいている間もドアの前で「中に入れて」と粘る二人の声がまだ聞こえる。
腹が立ちすぎてテーブルをガンと殴りながら怒鳴り散らした。
「とっとと行ってこい、このクズどもが!」
今放った言葉にハッとしてすぐ口をつぐむ。
クズだなんて私が言えた義理ではない。この国の者全員が今の言葉を聞いたら「お前がクズだ!」と怒鳴り散らすに違いないだろうから…。
私が怒鳴るとドアの向こうの二人は黙り、今度はおいおいと泣き始める。
ああ…まだそこから動かないか。今現在この家にある食料は隣の家の女からもらったりんご一つだけ。私も外に出て金を稼ぎ食料を買いに出たいが、裏口は雪で埋まっているし表の玄関は二人でふさがれていて外に出られない。
どうしたものかとため息を一つついて、床にディアンが振り回した包丁が落ちてるのに気づいて拾って元の場所に戻した。それと私が持っていた食事用のナイフも拾う…。
ナイフを手に持ち、先ほど思い出したお母様のことを考える。
サブリナと瓜二つのお母様からは厳しくされた記憶しかない。
お母様は恐ろしい顔でよく言っていた。
『最後まで自分を守るのは自分だけです、自分一人になっても自衛し生き残れるよう剣術を学び、魔法の詠唱も全て覚えなさい!』
そうやって私に剣を持て魔法を覚えろと厳しくしつけるお母様に対してお父様が「そんなことやめさせろ」と怒鳴っているのを幾度となく見ていた。恐ろしい勢いでお母様に怒鳴り散らすお父様だったが、私に対してはいつでも温かく優しい人だった。
お父様は笑顔で私を膝に乗せ目尻を下げよく言っていた。
『お前は生きているだけでこの世を照らせるのだから、剣なんぞ持たなくてもいい、魔法も覚えなくていい、面倒で危険なものは全部他の者にやらせておけ』
…。子供のころはお母様にしつけられる度にお父様が助に来てくれてホッとしていた。
しかしこのようになった今なら分かる。隣の女の言葉そのままだ、お父様は私に対し鞭を惜しみ、お母様は惜しみなく鞭を使い私を育て上げようとしていた。
お母様からはただ厳しくされたんじゃない、あの厳しさこそがお母様の愛情だった、その愛情のおかげで私はディアンに殺されることなく助かったんだ…。
「…お母様…」
厳しかったお母様を思い出すと段々と胸がつかえて泣けてきて、ナイフを握りしめすすり泣く。
そうして…ハッとソファーの上で目覚めた。いつの間にか泣きながら眠ってしまっていたようだ。
起き上がって辺りを見渡す。窓の外はもう夜になっている。今は一体何時だ?…時計がないから分からん。いい加減に時計を買いたいが買う金がない。
慌てて立ち上がって玄関のドアノブを回す、鍵かかかっている。
二人はまだ帰って来ていない?それとも私が寝ていたから外を放浪し続けている…!?
いかん、これは探しに行かねば、あの二人はこの町の道なんぞろくに分からないのだから、こんな暗くなってからではきっと家に帰れない!
慌ててコートを羽織り外に出ようとすると、力のないノックが聞こえた。
思わず驚いて動きを止めると、
「…お父様…」
と力のない声が聞こえる。
「…ディアンか?待て、今開ける」
慌ててドアを開けると雪明かりにボロボロのディアンの姿がボワッと浮かび上がった。髪は乱れて目の周辺は腫れていて鼻からは血がでていてコートも着ていなければ服も破れている。
その姿にギョッとしていると、
「違うのよ、本当に違うの」
とマーリンがディアンの後ろから現われ、
「しょうがないから町に行ったのよ、そうして瓦礫を運ぶのをやりに行ったのよ、本当なの本当にやったのよ、そんでパンを一個買えたから帰ろうとしたの、そうしたらクソガキ共に囲まれてパンをよこせって言われてね、私もディアンも誰がって拒否したら棒で急に殴りかかってきて、ディアンは一生懸命守ったのよ?
私達は王妃と王子よ、そんなことして許されると思ってるのって教えてやったら今度は私にも殴りかかってきて、もう殺されると思ってディアンを立たせてとにかく逃げてきたの。本当よ、今はパンはないけど本当にパンはあったのよ、あのクソガキ共が居なかったら持って帰って来てたのよ」
家に入れないと私に言われたら大変とばかりに必死に手を動かし言葉をまくし立てるマーリンの横で、ディアンはウッと涙を流して鼻水をすすりながら嗚咽をあげる。
「悔しい…!あんなに国民から馬鹿にされて、小突かれて、足も引っかけられて転ばされて、唾も吐かれて、笑われて、臣下だった者に半笑いの同情の目で金を渡されて…。
それに耐えてようやくパンを買えたのに、あんな小さい子どもによってたかって殴られるがままで、パンも取られてコートもはぎ取られて逃げるしかないなんて…!」
ディアンは玄関先でうずくまった。
「うえええ…」
子どもかど思うほど情けなくディアンは泣きじゃくり、マーリンはそんなディアンを見て同じように肩と胸を揺らして泣きじゃくりだした。
「私もっ、ディアンもっ、あんなに頑張ったのにっ、私だって頑張って瓦礫を持って行ったのにっ、何で、何で私がこんなことされないといけないのっ、う、うあああ…あああーん…!」
ビービー泣く二人を見ていると、なんて無様なんだと思う。それでも…それ以上に無様だがなんて愛おしいんだ。
「…よく頑張った、入りなさい」
入口から身をずらすとマーリンは鼻を垂らしながら、えっえっ、と肩を揺らしズンズンと入って来て、
「パンがぁあ…私のパンがぁあ…」
とまだ泣きわめいている。
「分かった分かった、二人が頑張ったのはよく分かった」
まだうずくまっているディアンの手を掴んで立たせ、二人を抱き寄せながら肩を叩く。二人は一瞬身を強ばらせどこか時が止まったかのように動かなくなったが、すぐさま私にしがみついて大泣きに泣いた。
端から見たらよく分からない光景に見えることだろう。それでも私たちは何かしらの一体感で包まれているような感覚がした。
私は今までこのように家族を愛おしいと抱きしめ、よく頑張ったと褒めたことがあっただろうか。そしてこのように泣く家族に支えにされたことがあっただろうか。
こんな状況であるが、嬉しい。私は今ようやくディアンの父親になり、マーリンの夫になれた。…何となくだが、そんな気がする。
するとディアンは泣きながら私を見上げ、
「お父様はいつもあんな嫌な思いをして俺たちの食べ物も稼いでいたんですか?俺は、俺は、あんな思いなんて二度としたくないのに、お父様は何度も、毎日…」
「…苦労したんだぞ」
ようやく私の苦労が分かったかと意地の悪さと自慢を込めて言い、少し間を置いてからそっと尋ねた。
「…今度からは、三人で行かないか?」
ディアンはしゃくりあげながら首を横に振り、
「嫌だ、嫌だぁ…」
とまた泣き始める。
…やっぱり駄目か。
かすかに失望すると、引き付けを起こしているのか思うほどディアンはヒッヒッと言いながら、
「でも行かないと食べ物が無くなるから、行き、行きます…一人じゃなくてお父様と一緒、なら」
「本当か?」
驚き聞き返すとディアンはコクコクと頷く。
「だって最近の食事、あまりに少ないし、どんどん貧相になってくし…」
それは…暖房用の薪代で大半の金が消えているからだ。
薪は買うものだと思っていたら、多くの者は春から秋のうちに森に入って一冬分の薪を自分たちで調達しているとつい最近知った。
するとディアンは泣きながら続ける。
「それに、それに、お母様は口ばっかりで瓦礫を持たせるのも運ぶのも僕に任せて、兵士から金を受け取らせた後は自分が持つって言いはって…何にもやらないのにお金だけ巻き上げるんですもん~~…!お母様と二人で行くのはもう嫌だぁ~…!」
ワァア、とディアンは私にしがみついて訴えてきた。
…自分も頑張ったとマーリンは言っていたが、実際はそうだったのか…。
そんな目でチラと見ると、さっきまでビービー泣いていたマーリンは本当にさっきまで泣いていたのか分からない顔でケロリと答えた。
「何よ、先に瓦礫をディアンに運ばせたからその後のお金は私が持ってあげたんじゃないのぉ。大体にして王妃になるべくして私は育ったんだから、お金は私が持つのが当たり前じゃない?」
こいつ…マーリンは未だに自分の状況が分かっていないのか?
「マーリン…いい加減に分かれ、お前はもう王妃じゃない。国王は私ではなくサブリナで、お前は城から追い出され王妃の身分などなくなったんだ」
そう言いながらマーリンの肩を掴んで揺らし、
「何度でも言う。お前がそうやって肉体労働から逃げてばかりいたら確実に十年以内に死ぬんだぞ。ならどうする、この暮らしから逃げて十年ほどで死ぬか?それとも労働をして病気を治すか?」
するとマーリンは目を吊り上げ、手を振り払った。
「何よ私ばっかり何もしてないみたいな言い方して!私は今日で十分働いたから治ったわよ!だってそう毒の特徴だっていう赤い斑点だって顔から消えたもの!だからあんたからサナブリに話つけてよ、生き残ってる男の貴族紹介してって!お母様の命令よって言ってきなさいよ!」
「…」
スッと思考が止まった。
『父として、お母様とお兄様のことをよろしくお願いします』
『あなたはマーリンからもディアンからも夫として父親として信頼されてないし、言うことを聞くほど尊敬されていないのよ』
サブリナとフロウディアの言葉が脳裏に響く。耐えろ、どんなに憎らしく腹が立っても二人の言葉を思い出して耐えろ…。
…それでも何のために耐えることがある?こんな私に愛情など何も残っていない女に対して。
今日一日で…いや、前々から十分に分かっていたことじゃないか。マーリンは私に愛情など無い。私よりなら金を取るし、貴族の男を選ぶ。
「…マーリンはそんなに貴族の男と結婚したいんだな?」
「当たり前じゃない、私は王妃になるべくして育った高貴な生まれなのよ、こんな貧乏暮らしする男と生活送る下品な女じゃないの」
「なら別れよう」
その一言にディアンは私を驚いた顔で見上げる。マーリンは一瞬キョトンとしたが、腰に手を当てて、ようやくその気になったのとばかりに満足気な笑みを浮かべた。
「いいわよ別に。あ、でもその話は新しい貴族の男をサナブリから紹介されてからね?だって今別れてあんたが出て行ったら私が料理も洗濯も掃除も瓦礫運びも買い物もしないといけなくなるじゃない?それまではこのままの生活を送るのよ、私は王妃になるべくして育ったんだから養われて当然だもの」
「…」
色々言いたいことはあるが…あまりに言いたいことが多すぎて言葉を失う。
憎い気持ちは度々あったが、それでも長年連れ添ってきた愛情はあった。
子どもらに囲まれパンを取られそうな時にディアンを置いて一人逃げなかったことも嬉しかったし、無様だが愛おしいと思った気持ちも、夫として支えにされ家族としての一体感を感じて嬉しい気持ちになったのも本当だ。
それでもどうやらマーリンはもはや…私のことを夫としても家族としても見ていなかったのか…。
マーリンは猫なで声でディアンの肩に手を乗せる。
「ディアンも私と一緒に行くでしょ?ね?」
「え…?え…?お父様は…?」
困惑するディアンにマーリンは肩をすくめ笑う。
「バッカじゃないの?何で別れた男を引き連れて新しい旦那様の所に嫁ぎにいくのよ。あんたは私の息子だから特別に連れてってあげる。行くでしょ?」
「…まだそんなの決まってもいないですよね?お父様とも別れてもいないですよね?なのに何で今そんな話…」
「何言ってるの?私ぐらいの魅力と高貴な家柄があればもう新しい嫁ぎ先は決まってるも同然よぉ。で、どうするの?私と行くでしょ?」
ディアンは困惑の顔を浮かべて黙り込み、マジマジとマーリンの顔を見ている。…もしかしたらだが、今ようやくマーリンの思考が何かズレているのに気づきでもしたか?
「俺は…」
ディアンはそこで長く黙りこんだが、ジワ、と涙を浮かべて腕で涙を拭う。
「まだ死にたくない…。病気で顔が崩れて死ぬなんて嫌だ…。俺はここに残ります、肉体労働をして体を治します…だからお母様とは、行きません…」
泣くほど肉体労働をしたくないのが見て取れるが、ディアンはマーリンに向かって宣言した。
マーリンは腕を組んで、ふーん、と言いながら、
「あんたってば馬鹿ねぇ、そんなんじゃ世の中うまく渡っていけないわよ」
ディアンはわずかに唇を震わせて下をうつむくが、私は…もうどうでもいいとばかりにマーリンに告げる。
「明日にでもサブリナに今話たことを伝えに行ってみる。…まず門前払いされず会えたらの話だがな」
「うん、よろしくねぇ」
いつも通りの明るい笑みに心が痛んで気分が沈む。だが私と同じように沈みこむディアンの肩をポンと強く叩き、気分を変えるためにあえて明るい声を出した。
「さて。りんごがある。三人で分けて食べよう」
「ええ?パンはぁ?」
そんなマーリンの言葉にイラッとした。お前が全て盗み食いしたんだろうが…!
そうして私とディアンは黙々と、マーリンだけは大はしゃぎの晩餐は終わり…次の日になった。
私は城へと向かう。
とりあえずああ言ったから城に向かっているがサブリナに会えるだろうか、城から追放された身で。せめてマーリンと別れる話だけでもサブリナにこっそり伝えられたらいいのだが…。
それでもサブリナはそのことを許すだろうか、今住むあの家だって無理やり用意したものだろうに、私とディアン以外にマーリンの家を用意してくれなどと虫のいい話…。だがマーリンは一人で生活などできないからメイドの一人は必要では…貴族の男を紹介しろなどと土台無理な話であるし…。
あれこれ頭を悩ませ歩いていると「おや」と声がかかった。
「これはファディアント様」
声をかけてきたのは…仰々しく頭を下げる道化師だ。
「いやぁ丁度良かった。昨日のお話の件でまた伺おうとしていたんです。まぁその前にその辺でお話でもいかがですか、私めでよろしければ積もり積もった奥方様の愚痴をいくらでもお聞きいたしますよ」
それは…まさか、マーリンを殺してやろうというあれか?だがどう見ても道化師からは殺してやろうなどという雰囲気は感じられない。心から道化ているようなニカニカとした笑いを浮かべている。
「…お前、マーリンを殺すなどとまた馬鹿なことを言って道化て…はは…」
上手く笑えず顔が引きつる。するとスッと道化師の目が静かになり笑みが引っ込んだ。一度も見たことのない道化師の真顔に思わず恐怖を覚え心臓がすくむ。
「いいえ本気です、あの女は魔族の格好の餌食になるほど性根の腐りきった女です、言葉だけ立派で自らは何も行動せず文句ばかり、男は金づる、うるさければ娘にも毒を盛る。このまま生かしていたらサブリナ様に被害がいくやも知れません。
仮に奇特な貴族や王家が自分の嫁としてマーリンを娶ったら、貴族となったあの女が自分を城から追い出した娘に何をするか…ああ考えるだけで恐ろしい!」
「…」
そんなことはするまいと言おうと思った。だが思い出した。
マーリンはサブリナに一度毒を盛ったことがある。
食事の際に急激に喉を押さえ苦しんで吐き戻すサブリナの姿をみて「ああ、喉に何か詰まらせたんだな、マナーが悪い食事のとり方をするから喉に物を詰まらせるのだ」と考え鼻で笑っていた。
…今から思えばなんて最悪な父親だったんだろう、だがあの時はその程度しか思わなかった。大丈夫かと駆け寄り背中をさするぐらいできただろうに、メイドと執事が動いたから別にいいかと食事を続けた。
そしてサブリナはそれからしばらく寝こみ、熱で頭がやられてしまっていた(演技だったらしいが)。
さすがに喉に物を詰まらせたにしては様子がおかしいとマーリンにその話を振ったら、
「うるさいから私が毒を盛ったのよ。だいじょーぶよぉ、あれは死ぬような毒じゃないからぁ」
と笑いながら告白してきた。
…今の今までマーリンからのあの衝撃の告白を忘れていた。何気にショックを受けてその時のことを思い出さないようにしていたのか?私は?
…だとしたあり得る、貴族の身分でサブリナに近寄り毒を盛ることなど十分に…!
道化師を見ると元通りニカニカと笑っている。
「あなたはこうして魔族が寄り付かないほど性根が叩き直されましたが、あの女は変わりません。これほど生活が変わろうが何も変わらないならもうどうやったって変わりません。
私が手をちょっと出せばあなたは円満にあの女とは縁が切れますし、あの女だって十年もの間病魔に悩むこともなくなります」
この道化師の言葉は昔から冗談と本気の境目が分からなかったが、さっきの真顔を見た後だと本当にどちらなのか分からない。冗談か?本気か?
そもそもこの男は考えの回るサブリナに政治の執り方を教えた男だ、道化師であれサブリナよりもっと頭が回る。一体何を考えている?…だが悔しいことに、短絡的な思考しかできない私に目の前の道化師が何を考えているのかなどさっぱり思いつかない。
…それでもこのまま道化師との会話を終わらせたままだときっとマーリンは殺される。どんな手段を使うのかは分からないが、恐らくきっと…!
「実はな…マーリンとは別れることにした、今からサブリナにそのことを伝えに行くつもりだった」
どうにか道化師を止めねば、それでもどう止めればいいんだと、とりあえず話を長引かせることにした。道化師は「ほう」と言いながらニカッと笑う。
「ならちょうどいいですね」
いや待て、ちょうどよくない、ちょうどよくないんだ。マーリンとは別れるだけで死んでもいいわけじゃない。
「…本当はな」
そう切り出すと道化師は口を閉じて私の話を聞く構えになる。
「本当は…別れたくない…もう少しすれば、もう少し私が耐えて頑張れば考えが変わるんじゃないかと…、そう思って私は今まで…頑張ったつもりだ。でもマーリンの気持ちは私には残っていなくてな…どうあっても貴族の嫁になりたいんだと…」
今までのマーリンとの楽しかった思い出や自分に向けられた笑顔を思い返したら途端に泣けてきて、声が震えて涙が流れる。でも道化師に泣いている姿を見られたくなくてすぐに袖口で涙を拭った。
すると道化師は呆れたような、それでも慈しむかのような顔を向けて、
「人間とは不思議なものですねぇ。あんな性根の腐った者相手にそんな涙を流せるなんて。でも失礼ながら申し上げます、残念ながらあの女の性格は変わりません、タイプは違いますが私のいた腐った国のトップクラスにいる連中と同じくらい性格が腐ってます」
道化師はそう言うと、ふーむ、と何か悩む声をだしてふっと何か思いついたように私を見た。
「ちょっとファディアント様を脅しすぎたようです、冗談ですよ冗談。一介の道化師の私が元王妃様を殺せるわけないでしょう?
あまりにマーリン様に苦しんでおられるファディアント様がお可哀想で、代わりに殺して差し上げましょうとギリギリのジョークをかましただけです、そんなに泣くほど本気で受け取らないでください」
「…」
冗談…?だったのか?本当に?
道化師はニカニカ笑い、
「でしたら私がファディアント様らが離婚する旨をサブリナ様にお伝えしておきましょう。それとマーリン様は貴族の嫁になりたいんですって?いやいや!マーリン様は王族の妃こそふさわしい!
そんなマーリン様にふさわしい国を私は知っているんです、なんせ私は人気の道化師で至る国に行っていて顔も広いですからね。そこなら暮らしも安定していて衣食住で悩むこともありません、それにこことは遠く離れている国ですからサブリナ様にも手出しもできません」
「…そんな所あるのか…?」
「ええ、そこの国は素晴しく富める国でしてね。国土は年々広くなっていますし、その国の国王というのが女性にはめっぽう優しいことで有名なんです。
女性の体は髪の毛一本ですら傷つけず優しく扱い、性格は気さくでジョークも巧みで日に焼けた笑顔に輝く白い歯がとっても素敵!…そのように女性からの人気も高いお方です、どうでしょう?異論はありますか?」
「…」
目の前でマーリンの新しい旦那候補の話を聞くのは何とも微妙な気分だったが、それでも別れるのは自分で決めたこと。それにそのような男ならきっとマーリンを大事に扱ってくれるだろうしマーリンも気に入るだろう。
「…悪くないんじゃないか」
私はそう頷いておいた。
* * *
「ありがとうね~道化師ちゃぁん、私絶対幸せになるわぁ」
マーリンはニコニコ笑って私に向かってバイバイ、と手を振った。
「お喜びいただけて私も嬉しいです、王妃様。どうぞこの国の王のご寵愛の確保を頑張ってください」
「当たり前じゃないの、私は王妃になるべくして育ったんだからぁ」
私は最後に大きく頭を下げてからイクスタの乗っている馬車へと戻り、よっこいせと馬車の座席に座ると開口一番、イクスタが口を開く。
「…よくもまぁ、こんな残酷なこと思いついたもんだなぁ?」
「残酷?なぁに、あれほど気楽な女だったら毎日ハッピーで過ごせますよ」
以前道化師として侵入したこの国の国王は五十歳を過ぎる年齢だというのに大変な女好きで、国を立ち去る時に「いい女が居たらどこの国の女でも構わないから連れて来てくれ」と言われていたんですよね。
もう二度と来るわけないと思っていたので聞き流して適当に頷いていたんですが、その時のことをファディアント様と話している時にちょうど思い出せて良かったってもんです。
それに国王はマーリンの明るく甘え上手な性格と胸の大きい所を気に入りあっさり王宮入りを決めました。まぁ女好きの国王には四十八人の妻が居るので、マーリンは四十九番目の妻となりましたが、マーリン本人はそこは気にならないようで、そりゃあもう両手を上げて胸を揺さぶり大はしゃぎしていましたね。
それでも女性を紹介した責任者ですから、私はしっかり伝えねばならないことも伝えておきました。
マーリンは性病にかかっていてあと十年ほどの命だということを。
それを耳打ちされた国王は「えっ」と驚いた顔をしましたが、それでも大喜びするマーリンを見てから私のメタボ腹を拳で軽くボヨンボヨン殴り、
「お前、そんな病気を持ってると分かっててどうして連れてきた?んん?まぁあんなに私の妃になって喜んでるしな。構わん構わん、最後まで面倒は見てやろう」
…ファディアント様に言った通り、この国の国王は女にはめっぽう優しく、体は髪の毛一本すら傷つけません。ですがもう気のない女に対しては残酷な仕打ちをすることでも有名。
マーリンは先ほど国王と共に国外れの城に連れて来られ、城を案内され優しく声をかけられました。
「可愛い君には特別に城一つをあげよう。近くに寄ったらきっと会いに来る、それまでここで私を待っていておくれ」
耳も聞こえず口もきけないメイドをマーリンの元に一人置き、国王はそれだけを言うとマーリンに背を向け立ち去りました。
通り過ぎざま私に、
「次は性病にかかってない女を頼むぞ。他の妻たちにうつったら申し訳ないからな」
とウインクを残して、一切マーリンを振り返りもせず。
きっと国王は二度とマーリンの元に訪れないでしょう。
マーリンはこれより日に三度の食事をし、あとは来るはずもない国王をこの広い城の中で毎日待つだけの日々です。衣食住に困らない安定した生活、それでも夫となった男から見放され死ぬまで飼い殺しになったも同然の生活。
さてはて、いつまでその生活が続くものでしょうか。まあいつまでも続くでしょう、現状に疑問を持ち、自分で考え動くまでは。
「そんな生活、幸せなもんかね」
イクスタの言葉に時代遅れで城壁も崩れ守備力も何もない使い捨てられた城を振り返ると、二階からマーリンが窓を大きく開け、にこやかに空に向かって手を広げている姿が見えました。
何ですかそれ、この城は私のものよ、ここから私は始まるのよとでも考えているんですか?
プクク、と笑いながら前を向き直り、
「あれくらい考え足らずだと幸せですよ」
と言うとイクスタも振り返り、私と同じものを見たのか鼻で笑いながら顔を前に戻す。
「馬鹿ってのもいいもんだな」
イクスタはそう言いながらニヤニヤ笑いを浮かべ頬杖をついて私を見ました。
「やっぱあんた怖え奴だよ、敵にゃ回したくないね」
その言葉に私は両手を広げ、大げさに驚いてみせる。
「何を言っているんですか!私は魔族の血が濃いんですから分類的には人間の敵ですよ!」
一瞬二人で黙り込み、馬車の中に私たちの静かな笑いが響き渡りました。
マーリン「そう毒の特徴だっていう赤い斑点だって顔から消えたもの、治ったわよ」
※そう毒(梅毒)の第一ステージで現れる赤い斑点が表面から消え、第二ステージの潜伏期間に入った。




