4話 誰そ彼の悪魔
悪魔は何もしなかった。何もしないことで、少女を追い詰めようとしていた。追い詰められて肉体と精神には隙が出来る。その隙に彼女を堕落させようと画策していた。少女は二人分の生活を賄うために倍働かなければならなかった。朝から晩まであくせくと働いて、その日食べるものもギリギリだった。少女の肉体は目に見えて衰弱の一途を辿っていったよ。
「辛くはないのか」
そんな生活が続いてしばらく経った時、悪魔はそう聞いた。どれだけ辛くとも、辛そうに見られて心配であろうとも、少女は弱音を吐かなかった。
「辛い?あなたは辛いんですか?」
キョトンとした顔で少女は聞き返した。その返答に悪魔は目を伏せる。彼女は自身が辛い状況にあるなどと、微塵も思っていないのだ。あらゆるものを肯定して受け入れる。どんな理不尽に遭おうとも文句を言おうという発想すら出てこない、欠けた人間性、人を超越した、神性の欠片だ。そんなものが人間の器に入り込むはずがないのに、この少女はそうやって生きてきた。
「そんな生き方をしていると、酷い死に方をするぞ、もっと貪欲に、自分を追い詰めるものを排除しようと動こうと思わないのか、俺が邪魔だと考えないのか」
さっき話したように少女を追い詰めようとしていた悪魔だったけど、しかし彼の方が、少女の高潔さに追い詰められようとしていた。この少女は人間の体を持ちながら人間ではないのだ、神か天使か、そんなキレイなものが、人間などという汚いもののフリをしようとしている。その光景は酷く痛ましい。どれだけ汚いものの中にあろうと、決して彼女は汚れることなく美しいままだ。彼女がここにいるのは間違っていると悪魔は考えていた。
「悪魔のようなことを言うんですね」
少女は微笑ってそんなことを言った。それは謂れの無い罵倒ではなく、どこか深いところで真実を見通したが故の真実だった。
「……ッ!」
悪魔は二の句が継げなかった。悪魔が悪魔と見抜かれてしまってはもう意味がない。彼はじきにここを去らなければならなくなる。それは悪魔のルールの内の一つだった。
「じゃあ、私はまた、仕事に行ってきますから」
「待て」
特に用があるわけでもないのに、悪魔はとっさに少女の腕を掴んだ。優しく掴んだはずの手に、何故か突然、人一人分の重さが加わった。
「!?お、おい!」
少女が地面に崩れ落ちたのだ。悪魔が抱きかかえるが、少女はもう息をしていなかった。彼女の肉体の限界は、悪魔が思っていたよりも余程早くに訪れてしまった。精神が強靱、否、もはや計りきれず表現のしようもないほどだったが故に、肉体も同様に、ちょっとやそっとのことでは揺さぶれないと思い込んでいたんだ。少女の体は本当に少女のものでしかなかったのに。
「目を覚ませ!死んだら意味が無い、お前の高潔さも、堕落すべき生き方も、死んでしまったら消えてしまう、起きるんだ!」
悪魔は動揺した。感情の薄いはずの自分の中で、何か大きな感情がわき上がってくるのを感じた。だがそんな感情など無意味なのが世界の残酷さで当たり前さだった。彼女に何も出来なかった悪魔は、結局最後まで少女に何も出来ずに終わったんだ。そして、人間を間接的にしろ、自分がいる内に殺した悪魔は、恐ろしい罰を受ける。少女と悪魔の出会いは、色々なものを終わらせてしまった。
***
というわけで、この物語はおしまいだ。悪魔のその後?彼は終わることのない黄昏の大地を、なくしたものを永遠に探し続けることになった。彼はもう、何もかも失ってしまったのにね。
――――――呆気ない幕切れ?その通りだよ、所詮は一人の、人間の話だ。