1話 悪魔と少女
こうして話をするのにも慣れてきたよ、今日は前置きは控えめにして、早速お話を始めようか。
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とある時代、とある場所に、容姿も、その心も他に比することのないほど美しい少女がいた。彼女の境遇はとても幸福とは言い難かった。幼い時に両親が死んで、それからは随分苦労をしたんだ。そんな恵まれない環境でも、彼女は悪行に走ることをせず、神には敬虔に、人には慈悲深く生きた。時に損をすることもあったけれど、他人も、自分も憎むことをしなかった。どんなことがあっても、それは神の思し召しだと考えていたんだね。仮に死ぬことになっていたとしても、彼女はその運命を受け入れただろう。
そんなこんなで、彼女は心も体も健康に育った。誰もが羨む美貌と清廉さを持ってすれば、いくらでも大金を稼ぐことが出来ただろうけど、しかし彼女はそれを良しとしなかった。最後まで神に仕え、慎ましく生きることにしたんだ、修道女でもないのにね。彼女はとある村の外れに小さな家を建てて、野菜を育て、鶏を飼って暮らしていた。野菜や鶏の卵を村人と交換して、その日食べるものを得る、長閑な暮らしだ。心も容姿も美しい彼女は、村人達からの印象も良く、困った時には色々な人が助けてくれていたよ。
さて、こんな彼女を嫌い、疎む存在がいた。美しくても、同じ女から嫉妬されることすらなかった彼女を、だ。信じられないかもしれないけど、世界ってのは広くてね、彼女を嫌っていたのは、地獄の悪魔達だった。悪魔達にとって、美しいものは人間にとっての臓物や骸骨のようにおぞましい、あるいは溶けた銀や河豚の毒のように致命的なものだ。それが誰より美しいものなのだから、触れるそばから体が溶けていくほどの存在だったんだ、誰より美しい少女というのは。しかし悪魔は永い時を生きる者達だ。人間なんていうのは、いくら今目障りだからって、瞬きをする間に死んでしまうようなモノだし、悪魔は人間の心の隙をついて堕落させる。心の隙なんてものがない少女を相手にするなんて、頼まれてもやりたくない仕事だよ。
だがある日、気まぐれに少女を見ていた悪魔の王の目が、その強すぎる心と体の輝きに、目を潰されてしまった。悪魔達は怒り狂ったよ、人間はただ自分たちに堕落させられ、破滅するだけの存在だったのだから、人間から攻撃することなど許されない、とね。少女からすれば謂れの無い非難なのだけれど、悪魔はそういうところは考えないからね。そんなわけで、美しい少女を堕落させるための悪魔を募集することになった。でも、悪魔の王の目を潰した人間だ、人間なんて取るに足らないと嘯く悪魔達でも、怯えてしまって、立候補するものは出なかった。病床に伏せった悪魔の王は苛立ちを募らせていった。側近に何度も、
「全く、人を弄ぶ悪魔ともあろうものが、何故少女一人に怯えるのか。儂の目は不意を打たれただけだ、丁度寝起きで、光に目が慣れていなかっただけのことよ」
とぼやいた。その話を8回聞かされた日、側近は悪魔の王に進言した、曰く、
「私が件の少女を堕落させてみせましょう。王の側近になってから長くなりましたが、王に造られた原初の悪魔という矜恃を、ただの肩書きにした覚えは無いつもりにございます」
それを聞いた王は機嫌を良くしてニヤリと笑って、
「そうか、お主が行くのならば間違いないだろう、任せたぞ」
「ハッ」
斯くして美しい少女を汚泥の底に沈ませるために、悪魔は少女の元へと旅立った。
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少女はその日もいつものように畑仕事と鶏の世話を終えて、昼食の準備をしていた。食事に手をつける前の神へのお祈りを済ませて、フォークを手に取ろうとしたその時、ドアをノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと少女は訝しむ。村人達が来る時間は大体決まっているから、昼食の時間にやってくる人物に心当たりはなかったんだ。誰だろうと考えている内にノックの音がもう一度して、少女は急いで玄関の戸を開けた。
「すみません、遅くなりました、どちら様ですか?」
客を出迎える時のお決まりの台詞を言いながら扉を開き、訪ねてきた人物の顔を見る。しかし、男の顔は目深に被ったフードのせいで全く見ることが出来なかった。見覚えのない黒衣の人物に、少女は首を傾げながらしかし怯えることなくフードの奥を見通そうとする。その人物の顎が見えそうになったところで、少女の頭上から声が降ってきた。
「や、こちらこそ申し訳ない。旅の者なのだが、今日の昼飯にも困ってしまって、目に付いた民家の戸を叩いてしまった次第だ、見ればこの先に村もあるようだし、迷惑なようなら私はお暇いたしますが」
存外に丁寧な物腰で紳士的な対応をする男に、先程まで無遠慮に顔を覗き込もうとしていた自分が恥ずかしくなって、少女は顔を赤らめた。
「い、いえ、迷惑じゃありませんよ、少ないですけど食べ物はありますから、どうぞ食べていってください。何分田舎ですから宿もありませんし、泊まっていっても構いませんよ」
予想通りに優しい少女の答えに、男はフードの奥でニヤリと笑った。何を隠そう、この男こそ、悪魔の化けた姿だったんだ。少女の家に住み着いて、ゆっくり彼女を堕落させようと考えていたんだ。
「やあ、それはありがたい、こんなに良い娘さんが他にいるだろうか。ありがとう」
そう言って男は手を差し出した。白く厚そうな手袋を外そうともしない男のことを多少不審に思いながらも、皮膚が悪いのかもしれないなどと自分を納得させて、おずおずと握手した。まあ、悪魔の彼が美しい彼女の手を握ろうものなら、それこそ皮膚を悪くしてしまうから少女の予想はある意味当たっていたんだけどね。